クズラのブログ

日頃の農作業や社会活動、そして両親の介護などを綴ります(22年1月記)

虎倉城の見学に参加

2018-03-19 | その他
 昨日(18日)、岡山市立御津公民館の虎倉城址見学会に参加しました。

 ふもとの市場公会堂に立ててある看板(写真)には次のように書かれていました。
町指定文化財虎倉城址(標高三二七米)
 築城の年代は定かでない。虎倉物語(虎倉村又兵衛)によれば、伊賀伊賀守が赤坂郡鍋谷の城から移ったとあるが、それは備前軍記等から文明十二年(一四八〇)ごろと推定される。一説によれば伊賀兵庫頭が応永のころ(一四〇〇前後)築城。また、大永七年(一五二七)服部伊勢守築城という説もある。城主は伊賀勝隆-久隆-与三郎家久の名が知られている。
 天正二年(一五七一) 虎倉合戦毛利勢敗退
 天正六年(一五七八) 久隆病没伊賀氏離散
  家臣の多くは奥津高に帰農。宇喜多家臣長船氏・
  石原氏入城
 天正十年(一五八二) 小寺官兵衛一時在城
 天正十六年(一五八八) 長船・石原内紛焼亡

 朝9時半に市場公会堂に集合しました。そこから見た、頂上に虎倉城址がある山(写真右)を見上げると、「これを登るのか!?」と、少し前途の厳しさを予感させられました。

 登山道は地元の人たちに手入れされていましたが、かなり急峻な道でした。
 年配の参加者が多く、2手に分かれて、約1時間かけて、山野草などを見ながら、ゆっくり登りました(写真右)。
 帰りの下り道は滑りやすく、滑って尻もちをつく人も数人いました。

 頂上付近には、歓喜山の頂上を平らにひらいて虎倉城址歓喜山供養碑などを設置しているところがありました(写真右)。
 そこには、供養碑とともに、石灯篭、虎倉奉祀者名碑、供養碑芳名者写などの石碑があります。

 以前(20年位前)、父母とこの地を訪れたときは、ここが城跡と思い込み、ここで手を合わせて帰りました。

 そして本丸址に登り、歴史研究者から説明を受けました。
 虎倉城址のある城山は急な山で天然の備えとなっています。また、主要な交通路の金川と高梁を結ぶ道、現在の県道高梁・御津線を見下ろすことができる重要な所です。
 虎倉城は連郭式山城で、慰霊碑のある郭から東へ200mの山頂に本丸があります。本丸から東に二の丸、出丸が、西に三の丸があります。郭の先には堀切が設けられています。本丸は石垣で築かれ、東西32m×南北27mの広さがあります。瓦片も見つかっています。虎倉城は重要部に瓦ぶきの建物が建ち、土塀が巡るしっかりした城だったのでしょう。しかし、この城は戦いの時に備えた城で、ふだんは山麓の小屋で生活していたようです。

 私の郷の建部町鶴田字上曲りには、虎倉城から下ってこの地に定着した葛原一族が建てた葛原大明神という明神様(佐狩様)があり、秋には一族が集まってお祭りをしていました。虎倉城では葛原は家老をしていて、弓の名手だったそうです。

(関連サイト)
地元(=母谷区)自治会の記事
佐狩(葛原)大明神の秋祭り(YouTube)