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森の空想ブログ

神楽を「観る」という愉しみ ―西米良村・村所神楽の「神水」と「一人剣」― [宮崎神楽紀行<15>] 



黒々とした米良の山塊の上空を、冬の星座が荘厳している。夜明けまでにはまだ間がある。夕刻、大寒波の襲来が予報され、心配された大雪にはならなかったが、山脈から身を切るように冷たい風が吹き降ろしてきて、御神屋を装飾する五色の幣を激しく揺らす。笛が哀調を奏で、太鼓が早調子となる。このころ、舞人も観客も、寒夜の下で、神楽の神と同化する。



―剱取る 男の子はここに生ぜばや 処のために剱とらせむ

勇壮な剱舞「神水(かんすい)」の舞われる頃は、客席はまばらとなる。家路に着く村人、寒さに耐えかね、隣接する公民館へと移動する客、焼酎の酔いに身を委ね、眠り込んでいる人。それでも舞人たちは無心に神楽を舞い続ける。客のあるなしとは関りなく、神に捧げる舞を舞う。それがまた、かぎりなく美しく、凛々しい。これが神楽の本質である。
四人の舞人が剱(つるぎ)を採り物に舞う「神水」は、米良の神楽では「神垂」「神粋」「神師」などと表し、「かんすい、かんしい」と読む。高千穂神楽では「岩潜(いわくぐり)」という演目名で、スサノオノミコトが激流を潜り抜け、高天原へ向かう舞とされる。米良では、南朝の皇子・懐良親王に随従した若武者が、陣中で舞った戦勝祈願の舞と伝える。また、剱の霊力で土地の霊を鎮め、神楽の場を画定する舞とも、古代、武力によって国家を統一した「国造り」の場面とする解釈もある。
古代中国(春秋戦国時代頃)では、「王の会盟」という儀式があり、各国の王がそれぞれの国の色で染め上げられた旗(流旗)をなびかせて会を主宰する王の元へ集まり、壇を設えて王または怜人が剱舞を舞った。ここに神楽「剱舞」の原型の一つがあるとみることができる。余談だが、この王の会盟の場面は、しばしばクーデターの場となった。怜人に変装した刺客が、対立する国の王や主筋に当たる王を斬り、政権を握ったのである。
日本の南北朝~戦国時代には、武将は出陣にあたり、医師・薬師・僧侶・陰陽師・山伏・芸能者などを従軍させた。天文・暦法の判断により戦機の吉凶を占う役割の他、負傷者の治療、死者の葬送、鎮魂、戦勝祈願など、兵士以外の戦力として必須の要件だったのである。米良の神楽が伝える「懐良親王に随従した芸能者」という伝承の上に、米良山系の神楽流入の起源伝承を重ねてみると、興味はさらに深まるのである。


・写真は2008年撮影

「かんすい」の舞は、四人舞で、若者による勇壮活発な舞である。最初、四人が剱を順手、逆手に持ち替えて舞い、次に互いの切っ先を握り合って、四人が次々にその太刀の下をかい潜る曲芸的な舞があって喝采を浴びる。その舞を舞い終えると順に一人減り、二人が抜けてやがて一人舞「一人剱」となる。この曲は、各地に名手が出るが、村所神楽の中武洋文君(34)もその一人である。2008年からこの曲の舞人をつとめている彼は、すでに練達の境地に達しており、舞い振りや所作は軽快で美しい。
私は毎年、写真を撮ったり絵を描いたりしながらこの神楽を見続けるのを楽しみにしているが、今年は、カメラを手放し、筆を置いて、この舞に見惚れた。ただ「観ることの愉楽」に浸ったのである。
「一人剱」では、舞い納めた舞人が、盆に交差させて置かれた二本の剱を跨いで退場する。これを武者の「いざ出陣」の場面を現す神楽という。神楽であり、呪的儀礼であったのだろう。
ちなみに大宰府のの決戦に敗れて米良山に入山した南朝と菊池氏の一族は、以後は農事や山仕事を生業とし、ある者は狩人などとして暮らしたが、一朝、肥後・菊池氏に事ある時は、槍・刀・鉄砲を持ち、市房の山を越えて一日のうちに千人の侍として駆けつけたという。往時、これを「米良千軒総侍」と称した。神楽「神水」と「一人剱」こそ、サムライの末裔たちの舞である。

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