どうも、骨董の話になると、長くなっていけない。
それでなくとも、このブログの読者には皮肉屋の姫や毒舌おばあなどがおり、
「また、昔の話ばかり書いてる・・・」
とか、
「年寄り臭いことを長々と書くと読み手がなくなるじゃ」
などと心配してくれるのである。
それで、以下、省略に徹して書く。
古裂会・森川氏の支援により、古裂会カタログオークション「空想の森美術館コレクション」が実現した。旧・由布院空想の森美術館の所蔵品と古裂会の出資による新たな買い付けに加え、コレクター仲間の応援出品も得て、カタログ内の特集(2010年/第57号)として出展したのである。
それはすでに終わったことだからここでも簡略化を心がけなければならないが、私は、このオークションで、「空想の森美術館」という名称が、10年ぶりに復活したことが感慨深かったのだ。その個人的な感傷も記述をひかえる。
この企画では、さらに衝撃の出会いがあった。すなわち、私はそれについて書きたいのだ。だが、その前に、このカタログオークションに掲出された森川氏の文章を紹介しておきたい。自分のことが書かれているので、多少こそばゆい思いもあるけれども、簡潔ながら核心を把握し、「もの」やそれを巡る背景、人物像などを描写する筆は、達人の技というべきであろう。
[空想の森美術館コレクション―高見乾司の美の境地―]
古裂会オークションカタログより
「モノ・ヒト・記憶・記号」
〈1〉
モノはヒトとともにあり、ヒトはモノとともにある。
高見は、由布院に「空想の森美術館」を経営したが、2001年に閉館し、宮崎県西都市(西都原古墳群の近く)に「九州民俗仮面美術館」(以下・仮面館と略す)を開設して今日にいたっている。仮面館で十年が経過した。
森に囲まれた仮面館に棲み、春になれば深い谷を降りて山女魚を釣り、山菜や木の実を摘んでは「花酒」「薬酒」を漬ける。仙人の暮らしぶりである。
高見はこのように晴釣雨読をつづけながら、山と森の精霊に仮面神の原像を追って山深い神楽の伝承地を訪ね、神楽の夜を村人と共にし、神楽の里の闇に仮面神を感じるのである。
今回の催しは、その後の高見の活動報告であり、高見の風狂をのぞき見る機会でもある。空想の森コレクションは、高見の多彩な交友や活動を反映して時空にとらわれず、土俗面・神像・仏像・古漆器・縄文・唐津・薩摩・琉球・伊万里・豊後南画などの古器物から現代絵画・新作小鹿田などの新作まで多岐にわたる。まさに自由を謳歌している。豊後南画は高見の活動するフィールドの原風景として撰品を信頼して委ねたジャンルだが、このような特殊を除けば、高見の眼による選品にほかならない。多くの作品に共通するのは、それらが高見の暖かく優しい視線に包まれているということではないだろうか。
〈2〉
モノには言葉とは別の記憶機能が付帯されている、と私は確信する。否、モノは記憶をさせられている。記憶させられる宿命をもつのがモノだと言い換えておこう。ただし、この機能は、誰にでも蓄えた記憶を提供するものではない。そこが厄介なのだ。
高見は、彼が命名した「九州の土俗面」の記憶装置を、二十余年をかけて開放した。こじ開けてしまったというべきかも知れない。溢れでる記号をつなぎあわせ、読み解きするのである。が、翻訳は簡単ではない。生命体としての残された時間、想定される持ち時間に翻訳が完了しない場合を想定したのだろうか、高見は中学二年の近所の男子を手元において、弟子としての教育をはじめた。まずは山女魚釣りと山料理の伝授だ。いずれにしても、何人も感じることのなかった領域に高見が達してしまったことだけは確かである。判読の了えた部分は、明瞭な言葉となって吐き出され、活字化をはじめた。
(以下略。写真はいずれも古裂会カタログから転載)
*
このカタログ中には、他にも出展作に関する解説など魅力的な文がある。販売戦略の一環と観察しても、すぐれた文であり、古物・骨董を描く文体としては格別である。ちょっと真似したい誘惑にかられるほどだが、逆立ちしてもこのような文は私には書けないだろう。教養の差と資質の違いというべきか。
さて、ここからが本文である。
*続く
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