クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

旧吹上町に“城”があった? ―小谷城―

2019年01月01日 | 城・館の部屋
昨年不幸があったので、
「新年あけましておめでとうございます」とは言えないのですが、
代わりにマニアックな城跡を探訪して新年をスタートしたいと思います。

その名は小谷(こや)城。
旧吹上町(現埼玉県鴻巣市)にあった城です。

その城跡は、宝勝寺、金乗院、日枝神社を含む一帯と言われています。
すぐ目の前を荒川の土手が迫っているため、
遺構のほとんどは消滅したものと思われます。
城の中心部は、おそらく現在の土手の向こう側にあったのでしょう。

遺構の消滅は江戸時代後期にはすでに顕著だったらしく、
『新編武蔵風土記稿』にも「遺形」はなく、境界も定かではないと記されています。
とはいえ、「城山」や「鐘塚」の呼び名が残り、
いくつかの伝説も伝わっています(妖怪も!)。

小谷城の城主として、
『新編武蔵風土記稿』が挙げているのは「小宮山内膳」という人物です。
詳細は定かではありませんが、『成田分限帳』には「小宮山」氏の名があり、
実在した人物のようです。
小谷城は忍城の支城だったのでしょう。
水運を司る、もしくは川を監視する役目を担っていたのかもしれません。

先に触れたように、小谷城は「城跡」を偲ばせるものはありません。
荒川の土手に説明板が建っていますが、
それがなければ城跡とはなかなか思えないはずです。

金乗院も元は土手の向こう側にありました。
隣接するように鎮座しているのは日枝神社(山王社)です。
塚の上に社殿が建っており、
案内板によれば城の鬼門を守る社としても比定できるか、としています。

これは単なる臆測ですが、
塚がかつてはもっと高いものであったとすれば、
小谷城の物見台として使用されたこともあったでしょうか。
その視点で言えば、金乗院の裏を流れる堀も、
元は城の堀跡を利用したのかも、と思ってしまいますが、
穿った見方というものでしょう。

小谷城で戦闘が行われたとか、焼き滅ぼされたという言い伝えは残っていません。
消滅した城であり、全国的によく知られているわけでもありません。
ただ、いくつかの伝説と城跡を思わせる土地の呼び名などがあり、
謎が多いながらも地域史を彩っています。


河川敷となっている小谷城址

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