クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

“羽生城”へ行きませんか?(25) ―館林善長寺の変Ⅴ―

2008年08月10日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
館林の善長寺で謀殺された可能性が高い“広田直繁”。
館林城主に就いてから起こった凶事だった。
前館林城主“長尾顕長”と、
家臣7騎が直繁を襲ったのだろう。

直繁の死は羽生城にとっても体の半分を失ったのも同然である。
以後、羽生城を待ち受けるのは過酷な日々だった……

ところで、善長寺で死したと考えられる直繁だが、
その謀殺事件はいつ起こったのだろうか?
これについて説が分かれる。
冨田先生は善長寺の変を“元亀元年(1570)11月”としている。
これは『館林衰退記』に拠るもので、
この説を生涯曲げることはなかった。

しかし、元亀元年当時は“越相同盟”が成立していた頃である。
上杉謙信と後北条氏は、休戦状態になっていた。
そんな中、広田直繁を謀殺するということは、
謙信に反旗を翻したも等しい。
直繁に館林を与えたという謙信の措置に不満があったのかもしれないが、
反旗を翻すにしても頼みの綱とする後北条氏は謙信と同盟を組んでいる。
黒田基樹氏も「館林長尾氏の研究」の中で、

 富田(ママ)氏は元亀元年十一月頃と想定しているが、
 当時はいまだ越相同盟期にあることからみても、
 その可能性はまずないとみていいだろう。
 (『戦国大名と外様国衆』文献出版)

と述べている。
そして、直繁が謀殺された時期を、
越相同盟が崩壊する元亀2年末と推測。
長尾顕長の直繁謀殺は、上杉と北条の抗争と捉えている。
これに対し、冨田先生は顕長が元亀元年十二月に発給した
足利荘惣大工に右衛門太郎を任ずる判物(「鑁阿寺文書」)を
ぼくに見せたことがあったが、決着のつく史料とは言えないだろう。

元亀元年と同2年。
善長寺で謀殺されたとしても、直繁の亡骸はどこへ行ったのか?
そして羽生城主たちはどんな対応をしたのだろう。

平成19年5月18日、冨田先生を中心とする羽生史談会の人たちによって、
広田直繁の位牌が作られた。
そして、菩提寺であろう正光寺(羽生市北2丁目)に奉納される。
冨田先生の研究によって少しずつ解明されてきたが、
全てがはっきりしたわけではない。
長く歴史に埋もれていた直繁はいま位牌となって蘇り、
正光寺の須弥壇に供えられている。

※冨田先生と広田直繁については、
 拙稿「埋もれた男、広田直繁」(羽生市立図書館所蔵)を参照。
 余談ながら、拙稿は「歴史読本」(新人物往来社)は2007年11月号に、
 作品名だけ掲載された。

※最初の画像は正光寺(埼玉県羽生市北2丁目)の本堂


正光寺の山門

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