NHK連続テレビ小説「あさが来た」には、
“才助”という人物が登場する。
のちの“五代友厚”だ。
この才助はかつて埼玉に来たことがある。
観光ではない。
イギリス軍艦を出て、埼玉の吉田家に匿われていたのだ。
匿った人物がいる。
それは埼玉県羽生市出身の“清水卯三郎”だ。
薩英戦争の気運が高まるさなか、卯三郎は通訳としてイギリス軍艦に乗船。
そのとき、捕虜となっていた船奉行の松木弘安と五代才助と船内で顔を合わせたのだ。
かねてより、松木と清水は顔見知り合いだった。
まさかこんなところで会おうとは、
夢にも思わなかっただろう。
歴史の不思議なめぐりあわせを感じずにはいられない。
清水卯三郎は両者の釈放に尽力する。
その甲斐あって釈放に成功。
が、船を下りれば薩摩藩から厳しい追及を受けることは想像に難くない。
そこで卯三郎は、しばらくほとぼりが冷めるまで、2人の身を隠すことにした。
仲介役となった卯三郎は奔走する。
「今の世になくてはならぬ人なり」と卯三郎は訴える。
その熱が通じたのだろう。
縁戚関係のあった熊谷の吉田家に匿ってもらうこととなった。
かくして、松木弘安と五代才助は埼玉の地を踏む。
両者はしばらくその地で過ごすのだった。
ときに文久3年(1863)、
卯三郎35歳の出来事だった。
清水卯三郎は「商人」の肩書きを持つが、
そのスケールは計り知れない。
パリ万博で「水茶屋」を出し、大いに成功させているし、
帰国後は西洋文化を積極的に日本に取り入れている。
特に、歯科器材を輸入したのは卯三郎が初めてだった。
また、身分に関係なく、多くの者が文字を読めるようにと、
かな文字を推奨した。
ゆえに卯三郎はかな文字論者の一面を持つ。
文化人である。
近代化が進む日本で、どうすれば国が豊かになるか?
卯三郎は文化の面から国の発展に寄与しようとした。
商人の立場で動いていたが、それは私利私欲のためでなく、
日本の将来を考えての活動だった。
国内における万国博覧会開催の建白書を提出するのも、
端的にそのことを示している。
あまり表舞台に立つことのない清水卯三郎だが、
歴史のあちこちでさりげなく姿を現わしている。
そして、その後の影響に大きくかかわる出来事の関与している。
もしもイギリス軍艦内で松木弘安と五代才助が卯三郎と会わなかったのならば。
もし、卯三郎が両者の救出に尽力しなかったならば……
歴史に残る2人の名は、
いまとは別の形となっていたかもしれないという想像を禁じ得ない。
清水卯三郎は明治43年1月20日に死去。
東京で亡くなったが、
卯三郎の墓碑は現在羽生市内に移されている。
“才助”という人物が登場する。
のちの“五代友厚”だ。
この才助はかつて埼玉に来たことがある。
観光ではない。
イギリス軍艦を出て、埼玉の吉田家に匿われていたのだ。
匿った人物がいる。
それは埼玉県羽生市出身の“清水卯三郎”だ。
薩英戦争の気運が高まるさなか、卯三郎は通訳としてイギリス軍艦に乗船。
そのとき、捕虜となっていた船奉行の松木弘安と五代才助と船内で顔を合わせたのだ。
かねてより、松木と清水は顔見知り合いだった。
まさかこんなところで会おうとは、
夢にも思わなかっただろう。
歴史の不思議なめぐりあわせを感じずにはいられない。
清水卯三郎は両者の釈放に尽力する。
その甲斐あって釈放に成功。
が、船を下りれば薩摩藩から厳しい追及を受けることは想像に難くない。
そこで卯三郎は、しばらくほとぼりが冷めるまで、2人の身を隠すことにした。
仲介役となった卯三郎は奔走する。
「今の世になくてはならぬ人なり」と卯三郎は訴える。
その熱が通じたのだろう。
縁戚関係のあった熊谷の吉田家に匿ってもらうこととなった。
かくして、松木弘安と五代才助は埼玉の地を踏む。
両者はしばらくその地で過ごすのだった。
ときに文久3年(1863)、
卯三郎35歳の出来事だった。
清水卯三郎は「商人」の肩書きを持つが、
そのスケールは計り知れない。
パリ万博で「水茶屋」を出し、大いに成功させているし、
帰国後は西洋文化を積極的に日本に取り入れている。
特に、歯科器材を輸入したのは卯三郎が初めてだった。
また、身分に関係なく、多くの者が文字を読めるようにと、
かな文字を推奨した。
ゆえに卯三郎はかな文字論者の一面を持つ。
文化人である。
近代化が進む日本で、どうすれば国が豊かになるか?
卯三郎は文化の面から国の発展に寄与しようとした。
商人の立場で動いていたが、それは私利私欲のためでなく、
日本の将来を考えての活動だった。
国内における万国博覧会開催の建白書を提出するのも、
端的にそのことを示している。
あまり表舞台に立つことのない清水卯三郎だが、
歴史のあちこちでさりげなく姿を現わしている。
そして、その後の影響に大きくかかわる出来事の関与している。
もしもイギリス軍艦内で松木弘安と五代才助が卯三郎と会わなかったのならば。
もし、卯三郎が両者の救出に尽力しなかったならば……
歴史に残る2人の名は、
いまとは別の形となっていたかもしれないという想像を禁じ得ない。
清水卯三郎は明治43年1月20日に死去。
東京で亡くなったが、
卯三郎の墓碑は現在羽生市内に移されている。
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