羽生城の遺構は消え去っても、羽生の町なかで散見される「城の字」。
例えば、葛西用水路に架かる「城橋」がある。
かつて城のたもとには「しろばしや」という店があり、
意識せずとも羽生市民にとっては馴染みのある名称かもしれない。
ただ、葛西用水路の掘削は1660年で、
羽生城が廃城したのは1614年だから、
城が軍事施設として機能していた頃には、橋は存在していなかったことになる。
用水路の掘削は、既存の堀を利用したとすれば何らかの橋が存在していたかもしれないが、
少なくとも「城橋」という名称ではなかっただろう。
『新編武蔵風土記稿』には、城橋付近に城の大手(正門)があったと記されている。
同書は羽生城の構造についても触れられている。
が、江戸後期に編纂されたものであり、城の遺構が当時どこまで残っていたのか疑問視される。
遺構が皆無ではなかったにせよ、
城絵図の「浅野文庫蔵諸国古城之図」と「武陽羽生古城之図」を見比べても、
沼や曲輪が消滅していく様が見て取れることから、少なくとも戦国時代の面影はほとんど消えていたのではないだろうか。
したがって、『風土記稿』が伝える城橋に大手門があったというのも注意が必要である。
そもそも、同書は1660年以降の編纂である。
おそらく、記述者は「武陽羽生古城之図」を参考にしたのだろう。
羽生城時代、城橋の前身にあたる橋はあったかもしれない。
ただ、橋の東方に本丸が位置しているため、そこが大手門だったとは捉え難い。
橋から東へ向かう道にしろ、羽生城時代にその前身があったとしても、
整備され、一般的に使用されるようになったのは、廃城以降のことと思われる。
現在の城橋は道路の一部であり、車の交通量も多い。
昭和の時代、城橋の工事で使えなくなると、大渋滞を起こしたという。
いまや欠くことのできない橋である。
四方向から車が来るため、城橋を見学する際は気を付けたい。
例えば、葛西用水路に架かる「城橋」がある。
かつて城のたもとには「しろばしや」という店があり、
意識せずとも羽生市民にとっては馴染みのある名称かもしれない。
ただ、葛西用水路の掘削は1660年で、
羽生城が廃城したのは1614年だから、
城が軍事施設として機能していた頃には、橋は存在していなかったことになる。
用水路の掘削は、既存の堀を利用したとすれば何らかの橋が存在していたかもしれないが、
少なくとも「城橋」という名称ではなかっただろう。
『新編武蔵風土記稿』には、城橋付近に城の大手(正門)があったと記されている。
同書は羽生城の構造についても触れられている。
が、江戸後期に編纂されたものであり、城の遺構が当時どこまで残っていたのか疑問視される。
遺構が皆無ではなかったにせよ、
城絵図の「浅野文庫蔵諸国古城之図」と「武陽羽生古城之図」を見比べても、
沼や曲輪が消滅していく様が見て取れることから、少なくとも戦国時代の面影はほとんど消えていたのではないだろうか。
したがって、『風土記稿』が伝える城橋に大手門があったというのも注意が必要である。
そもそも、同書は1660年以降の編纂である。
おそらく、記述者は「武陽羽生古城之図」を参考にしたのだろう。
羽生城時代、城橋の前身にあたる橋はあったかもしれない。
ただ、橋の東方に本丸が位置しているため、そこが大手門だったとは捉え難い。
橋から東へ向かう道にしろ、羽生城時代にその前身があったとしても、
整備され、一般的に使用されるようになったのは、廃城以降のことと思われる。
現在の城橋は道路の一部であり、車の交通量も多い。
昭和の時代、城橋の工事で使えなくなると、大渋滞を起こしたという。
いまや欠くことのできない橋である。
四方向から車が来るため、城橋を見学する際は気を付けたい。
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