“城沼落とし”という排水路が羽生市内を流れている。
「城」の字が付く排水路である。
冨田勝治氏は、この城沼落としを羽生城の外堀の一部と比定している。
羽生城整備を行う際、
城下町を含む一帯を総構えで囲んだ。
その一部が城沼落としではないかということだ。
実際のところは定かではない。
そういう見方もあるということだ。
戦国時代は本城を覆う大沼を自然要害としていた。
近世に入って整備が行われたときに総構えができたとはいえ、
沼の陸地化が進んでなければ埋め立てることはなかったと思われる。
本城裏を流れる落としは、
慶長19年(1614)の羽生廃城後に新田開発が進み、
その途上にできたものかもしれない。
ちなみに、城沼落としにはかつて大量の蛍が発生していた。
「数万の蛍飛び乱るる絶景は得も言はれぬ壮観なり」と、
明治41年発行の「武総新報」第130号は伝えている。
現在、蛍が飛び乱れる名残はないが、
城沼落としは町の中を静かに流れている。
「城」の字が付く排水路である。
冨田勝治氏は、この城沼落としを羽生城の外堀の一部と比定している。
羽生城整備を行う際、
城下町を含む一帯を総構えで囲んだ。
その一部が城沼落としではないかということだ。
実際のところは定かではない。
そういう見方もあるということだ。
戦国時代は本城を覆う大沼を自然要害としていた。
近世に入って整備が行われたときに総構えができたとはいえ、
沼の陸地化が進んでなければ埋め立てることはなかったと思われる。
本城裏を流れる落としは、
慶長19年(1614)の羽生廃城後に新田開発が進み、
その途上にできたものかもしれない。
ちなみに、城沼落としにはかつて大量の蛍が発生していた。
「数万の蛍飛び乱るる絶景は得も言はれぬ壮観なり」と、
明治41年発行の「武総新報」第130号は伝えている。
現在、蛍が飛び乱れる名残はないが、
城沼落としは町の中を静かに流れている。
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