クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

忍城が開城し、騎西城も節目を迎える? ―武州騎西城(25)―

2014年06月01日 | 城・館の部屋
織田信長の野望を継いだ豊臣秀吉が、
小田原城を攻めたことはよく知られている。
天下統一に王手をかけた戦いである。

この小田原征伐で、後北条氏に属す城は、
豊臣方の軍勢の攻撃にさらされることとなった。
関東を舞台にしたこの戦いの中で、
忍城が水攻めにされたことも著名である。

攻めるは石田三成らの率いる軍勢およそ2万。
迎え撃つ忍城は、千騎ほどの兵力しかない。
この千騎という数字は「北条家人数覚書」に見えるのだが、
城主の氏長自身は小田原城に詰めていた。
したがって、主力は小田原城にあって、
忍城には避難場所として籠もる領民たちがほとんどだっただろう。

忍城の支城に組み込まれていた羽生城は、
こうした動きの中で豊臣方に付くことはなかった。
「木戸右衛門尉」や菅原為繁が押し寄せようとしたところ、
羽生城代衆たちは覚悟を決め、抵抗する意志を見せていた(「松平文庫」)。

彼らの抵抗が羽生城で戦うことなのか、
それとも豊臣方には付かず、忍城に入って戦うことなのかは不明である。
「成田系図」によると、羽生城兵は一戦を交えるべく、
忍城に入ったという。
本城の小田原城に、北条方の国衆が参集するように、
忍城にも支城の「城代衆」たちが入ったのだろうか。
だとすれば、騎西城の「城代衆」も忍城へ入り、
共に戦ったのかもしれない。

2万の大軍に対し、忍城は徹底抗戦の態度だった。
ほとんどの城が無血開城したのに対し、
豊臣方になびく姿勢を見せない。

忍城は決して大規模な城ではないが、
沼や深田に囲まれた要害の地である。
攻めあぐねた石田三成らは、城の周囲に堤を築き、
荒川と利根川の水を引き込んだ。

しかし、それでも城は落ちない。
堤の一部が崩れて水攻めに失敗したというのもあるが、
戦う気力を失って降伏してもおかしくはない。
にもかかわらず、城方は粘り強く抵抗し、城が落ちることはなかった。

このとき、忍城には騎西勢や羽生勢の者たちがいたとする。
いわば、いまで言う北埼玉の武が結集していたことになる。
石田三成らの軍勢を寄せ付けなかったのは、忍城が類い希な堅城であることと、
結集した武蔵武士の武威ゆえんなのかもしれない。

最後まで抵抗した忍城だったが、
小田原が降伏したあとに開城となった。
これには、城主の氏長自身が驚いたことだろう。

この戦いにより、成田氏は領地を没収されてしまう。
蒲生氏郷へ預かりの身となり、
北武蔵における成田氏の時代は幕を閉じたのだった。
騎西城主成田泰喬も例外ではない。
同様に領地は没収され、兄と共に蒲生氏郷のもとへ身を置くことになる。

豊臣秀吉によって天下統一が成り、
新しい世が幕を開く。
思えば、古河公方足利成氏に攻略されて以来、
騎西城は絶えず戦渦に巻き込まれてきた。
上杉謙信から二度の攻撃を受け、
多くの死傷者を出したこともあった。

小田顕家の時代から成田氏との関係が生まれ、
騎西城はいつしか忍城の支城として組み込まれてきた。
そんな忍城と行動を共にしてきた騎西城は、
成田氏の没落によって節目を迎え、新しい時代が到来する。

領民たちは、泰喬の退城をどのような思いで見つめたのだろう。
感慨深く感じる者がいれば、
新しい時代を待ち望んでいた者もいたと思う。
そんな領民の声を伝えるものはいまのところなく、
想像の域を出ない。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 料理人が熱いと言っちゃダメ... | トップ | 熱い応援部の応援をしたくな... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

城・館の部屋」カテゴリの最新記事