クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

羽生城主の系図はなぜ3つの姓が見えるのか? ―論文(7)―

2007年01月13日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
〈広田氏と木戸氏〉
直繁と忠朝が史上初めて名前が登場するのは、
天文5年(1536)小松神社に寄進した三宝荒神であることはすでに述べた。
そこには両人の姓は刻まれておらず、「直繁・忠朝」とあるのみである。
次に両人の名前が現れるのは永禄三年の上杉謙信の判物で、
そこには「広田・河田谷一跡事」とある。
さらに永禄4年の「関東幕注文」には羽生之衆として「広田式部大輔」
「河田谷右衛門大夫」とあり、同5年に忠朝が林平右衛門尉に送った書状には
「河田谷右衛門大夫忠朝」と記されていることから、
直繁は「広田」、忠朝は「河田谷」の姓を称していたことがわかる。
直繁と忠朝は木戸範懐(のりやす)から分かれた孝範の系統だ。すなわち、

 範懐―孝範―女―範実―直繁・忠朝

となるのだが、初期の段階で直繁と忠朝は共に木戸姓を名乗っていない。
初めて木戸姓を使うのは直繁ではなく、弟の忠朝である。
永禄9年3月に忠朝が正覚院(羽生市南3丁目)に出した判物には、
「木戸忠朝」と記されており、越相同盟が成立した直後の同11年9月、
忠朝は足利義氏から木戸姓を名乗ることを許可されている。

その一方で、直繁は終始一貫して広田姓を使っている。
このことが長きにわたって羽生城史から忘れ去られてしまうことになるのだが、
なぜ直繁は木戸姓を継がず、広田姓を名乗っていたのか。
また忠朝もなぜ初期に河田谷を称していたのか?
この広田氏、木戸氏の関係については、冨田勝治先生の研究に詳しい。
「羽生城展」(平成3年羽生市立図書館開催)のパンフレット所収の「羽生城主廣田・木戸氏系図」を元に、
その両氏のつながりを簡単に記すと次のようになる。

木戸範懐―木戸孝範―孝範の女
                  |――木戸範実
菅原道真…広田為景…広田朝景   |――広田直繁・木戸忠朝
                   月清正光大姉

木戸範懐の息孝範(たかのり)は太田道灌の客将で歌人でもあり、
その歌学が範実(のりざね)に受け継がれていることは、
のちに著す多くの歌集から窺える。
広田氏は菅原道真を祖とし、「正能系図」によれば広田為景は忍太郎の息である。
為景が「忍」から「広田」の姓に改めたのは、
忍保広田郷(埼玉郡川里村大字広田)に移り住んだからとされる。
その居館場所として広田村(現鴻巣市)に残る、番場、三ヶ谷戸、
矢場の小名が挙げられるのだが、ちなみに「忍保」とは国衙領を意味し、
広田氏は在地的領主ということになる。

広田氏との関係は、為景の子広田朝景が孝範の娘と婚したことから生じる。
その間に生まれたのが範実であり、
のちに月清正光大姉と婚して直繁、忠朝をもうけるのである。
範実は木戸姓を称し、忠朝―重朝・元斎がその姓を継ぐ。
直繁は祖父朝景の広田姓を称し、息為繁(ためしげ)は菅原姓を名乗っている。
広田氏と木戸氏の結びつきは、
忠朝の名が広田朝景の偏諱を用いていることからも窺えよう。

このように「広田」「木戸」「菅原」の3つの姓が見られるが、
直繁と忠朝が上杉謙信に属し共に行動していることから、
両氏はすでに一体化していたと考えられる。
在地的基盤の弱い彼らは、近隣の領主の結びつきを強め、
同じ姓を称することによって地盤を固めようとしたのではないだろうか。
すなわち、近隣領主との関係性を示し、
小松神社をはじめとする寺社へ積極的に働きかけることで、
基盤の弱さを埋めようとしたのである。

先に述べたが、木戸氏がいつ羽生に住んだのか定かではない。
木戸孝範の娘が広田朝景と婚したときに羽生へ移ったとしても、
城は存在していなかったはずだ。
それは、文明十年(一四七八)に長尾景春が「羽生峰」に陣をとったと
太田道灌の書状にあるように、城や砦が存在した気配はないし、
その前後においても同様のことが言える。
つまり、木戸氏が羽生城主として近隣領主と関係を結んでいったのではなく、
のちに竹の内館を築いたときにはすでにその結びつきは確立されていたのである。
そして、在地的基盤の弱かった彼らはその関係性を示すために、「広田」
「菅原」姓を用いたのではないだろうか。

忠朝が初期に称していた「河田谷」も埼玉県桶川市に見られ、
やはり同様のことが考えられる。
木戸姓を用いる初出は永禄9年正月で、皿尾城主時代の頃である。
兄の直繁がなぜ木戸姓を継がなかったのか、そのいきさつは不明だ。
直繁が基盤を固め、忠朝が城主として統治していく体制だったのだろうか。
それとも、上杉謙信の何らかの政治的意図が絡んでいたのかもしれない。

以上、木戸氏の小松神社等の積極的な働きかけと、姓の問題を合わせて検討してみたが、
いずれも在地的基盤を固めるためであったことが推測される。
木戸氏が羽生に来たとき、その中心となっていたのは範実だったかもしれない。
しかし、それはあくまでも領主的性格のもので、木戸氏を「城主」と呼ぶには
竹の内館の建設、東谷への拡張を待たなければならない。
(「論文(8)」に続く)

※画像は騎西城(埼玉県騎西町)から見た北武蔵の風景です。

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2 コメント

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難しい (凡夫)
2007-01-13 19:43:25
歴史を学と楽しいのは遥か昔の本当のことを知りたいからですかね。



しかし、事実は目で見て確認できない歯痒さや虚しさを感じるのは私が凡人だからですね。
返信する
見たい知りたい (クニ)
2007-01-14 02:04:20
男は本能的に昔のことを知りたいという欲求を持っているようですね。
あと、「自分は何者か?」という気持ちが強いです。
どんな人が生き、どんな時代を経て、いまの自分がいるのか、と……

過去の歴史は実際に目で見てみたいですよね。
せめて写真がもっともっと昔に発明されていたらなと思ってしまいます。
1度でいいから羽生城主を見てみたいものです
返信する

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