クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

なぜ北条氏は羽生城を力攻めにしなかったのか? という謎について

2024年05月14日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
読むたびに、目に留まり続けた一文がある。
それは平井辰雄氏の『羽生の歴史 回顧』。
北条氏が羽生城を力攻めにして落とさなかったことについて、

 北条方にとって羽生の地はそれ程魅力のある所とは思わなかったものと思われ、
 その証拠には羽生城破却後、北条家の重臣を配置しないで、
 忍城主に預けたことからもわかります。

と述べている。
たまに手に取ってはこの一文を読み、モヤモヤしていた。
2007年の発行だから、10年以上モヤモヤしていたことになる。

岩田明広氏が執筆した忍びに関する論文や、
同氏から声をかけられて『戦国の城攻めと忍び』(吉川弘文館)に寄稿したのを機に、
天正2年における羽生城攻防について改めて考えた。

北条氏はなぜ羽生城を力攻めにしなかったのか?
自落後、羽生領はなぜ成田氏に接収されたのか?

自分の考えは、平井氏の見解とは異なる。
少なくとも、「魅力」がなかったから総攻撃をしたわけではない。
(そもそも「魅力」とは何か?)
この点を論じることは、成田氏と羽生城の関係のみならず、
北条氏と成田氏の水面下で散らす火花にも触れることにもなる。
ついては、論文に書いてまとめることにした。

2023年6月に稿を起こし、「埼玉史談」へ送ったのは同年9月だった。
その間、京極夏彦氏の『鵺の碑』が刊行され、
小松神社の宮司との打ち合わせのとき、三宝荒神御正体のレプリカを見せていただき、
20代に買い損ねた『戦国遺文 武田氏編』が自宅に届いた。

論文掲載の連絡が来たのは、2024年に入ってからだった。
指摘事項を受けて手直しをして、ゲラを送った。
拙論が掲載された「埼玉史談」(埼玉県郷土文化会)が自宅に送られてきたのは5月11日だった。
「埼玉史談」第69巻第1号。
拙論のタイトルは、「天正二年の羽生城攻防及び自落をめぐる論考」だ。

いささか枚数が多かったので、2回に分けて掲載されることとなった。
第69巻第1号はその1回分。
次号で結論に至る予定である。

平井氏は平井氏の考えがあり、自分は自分の解釈がある。
それは、羽生城の忍びについて言及した岩田氏の論文も同様で、
支持する部分があれば、見解が異なる点もあるのは当然だろう。
さまざまな角度から研究されることが重要なのであって、
自分の論考が絶対的に正しいと主張するつもりはもちろんない。

とはいえ、10年以上のモヤモヤが少し解消されることになったかもしれない。
自分の拙論で新たにモヤモヤする人が出てくるかもしれないが、
それで羽生城研究が進展するならば幸甚である。

というわけで、北条氏がなぜ羽生城を力攻めにしなかったのかという謎については、
拙論をお読みいただければ幸いです。
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