クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

羽生城主・広田直繁伝(15) ―判物―

2018年07月07日 | ふるさと人物部屋
永禄9年(1566)1月に広田直繁が正覚院へ出した文書は、
僧の勝手還俗を戒めるという内容です。

現在の感覚で言えば公文書です。
公印は捺されていません。
印判状ではなく、代わりに直繁のサインが記されています。
これは花押(かおう)と呼ばれるもので、
当時の領主等は文書の末尾にサインをしていました。

文章は右筆(ゆうひつ)に書かせ、
花押は領主自らが筆を執ることが多かったようです。
右筆とは、主人の代わりに代筆した者を言います。

戦国大名になると、書状は右筆の手がほとんどでしたが、
国衆レベルでは常に代筆させていたかは疑問です。
したがって、広田直繁の文書は本人の手によるものと考えたいと思います。

直繁の肖像画が残っていないだけに、
その書かれた文字はとても貴重なものです。
文字は太く、大きく、書き出しには勢いがあります。

字は下手ではありません。
格別上手くもありません。
書き出しに勢いがあるものの、後の方になってくると文字は小さくなり、
字間も狭まってきます。
まるで、紙の最後を気にしているかのような印象を受けます。

直繁は、これをどのように書いていたのでしょう。
当時、文字を書くときいくつかパターンがあったようです。
机の上で書くものと、紙を左手に持って筆を走らせるパターンです。

机と言っても大きくはありません。
宣教師ルイス・フロイスの報告書によると、
当時の日本人は地面か畳に座って、小さな低い台を使って書いていた、とあります。
(岡田章雄訳『ヨーロッパ文化と日本文化』岩波文庫)

直繁は、羽生城内でこの文書を書いたのでしょうか。
だとしたら、どのような部屋で書いたのでしょう。
使った筆は? 墨は? 硯は? 机は?

城内には、公文書を保管する部屋はあったでしょうか。
その保管方法、整理法、検索の仕方といったマニュアルもあったかもしれません。
戦国時代にアーキビストのような考えを持つ者は皆無だったとは言い切れません。
上杉家文書のように、文書を大切に保管し、
後世に残そうとした者がいたとしてもいいように思います。

しかし、羽生城は天正2年(1574)で自落を余儀なくされるため、
城内に保管されていた多くの文書類は、焼却か散逸したのでしょう。
直繁が使っていた筆や机は、
もしかすると館林領を拝領したときにそちらへ移ったでしょうか。

筆を持つその手、文字から伝わる息づかい、
花押をしたためる直繁の横顔……。
1通の文書ですが、そこからは時代の空気が籠っているものです。
当時を生きた文書ですから、もしも口がきけたならば、
城の様子や直繁のことなどを色々語ってくれるのではないでしょうか。

400年以上も昔の羽生城時代。
直繁の遺骨がどこに埋まっているのか、実は謎です。
肖像画もなく、城の遺構も消滅しています。
だから、直繁に会いに行こうとしても難しいのが現実です。

そんな状況の中、直繁が発給した文書だけが、
唯一その存在を身近に感じさせてくれます

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