クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

“羽生城”へ行きませんか?(56) ―木戸忠朝の亡骸Ⅱ―

2008年09月28日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
木戸忠朝の遺臣“鷺坂軍蔵”が源長寺を再興し、
また同寺には、
羽生城主の供養碑と伝えられる石塔が存在している。
『新編武蔵風土記稿』によると、
軍蔵は亡き主君の追福のために源長寺を再興したという。

おそらく木戸忠朝の亡骸は、
この源長寺の境内に眠っているのだろう。
ほかに補として挙げられるのは、
忠朝の母が開基した“正光寺”である。
同寺の山号が「直場山広応院」ということから、
兄“広田直繁”の菩提寺であった可能性を、
冨田勝治先生は指摘している(「広田氏と木戸氏」)

ところで、源長寺にある伝羽生城主の供養碑だが、
いささか疑わしい。
そもそも、その石塔はバラバラになっていた石を、
組み合わせて作ったようである。
五輪塔でも宝篋印塔でもない。
首を傾げざるを得ない。

忍領の郷土史家“清水雪翁”は明治40年に『北武八志』を著し、
その中に「木戸氏墓」について記している。
この「木戸氏墓」とは源長寺に建つ石塔を指す。
雪翁は源長寺に直接赴いたのだろう。
彼が目にしたもの。
それは“2基”の石塔であった。

藤井村源長寺にあり羽生城主木戸伊豆守忠朝夫妻の墓と云ふ
然れ共文字磨滅して孰れか忠朝なるや今は識別し難く高さ三尺位塔形にして二基あり

さらに、羽生領に住む医師であり郷土史家であった“伊藤道斎”も、
『埼玉群馬両県奇譚』の中で木戸忠朝の供養碑について触れている。
それによると、稲子村の某家で自害した忠朝を、
恩恵の受けた者が碑を建てたという。
その碑は某家の傍らにあったらしい。

また、同書には源長寺の所在する上藤井村に、
「五墳の碑」があったと記している。
戦死した武者か武具を埋め、
そこに碑を建てると「権現様」と唱えたという。
しかし、その碑は現在見当たらない。
(続く)


源長寺の本堂裏。
かつてここに構え堀があり、
羽生城主の墓碑が眠っているかもしれないと、
亡き冨田勝治先生はおっしゃっていた。

※最初の画像は伝羽生城主の墓碑。

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