早いもので大晦日を迎え、
今年の1月1日に「文殊寺と高見城」について取り上げたのがつい昨日のことのようです。
今年も色々な出会いがありました。
人に限らず、多くの史跡とも顔見知り合いになりました。
続けていると不思議と結びつく縁があるようです。
大晦日はどのように過ごされているでしょうか。
僕は夕方になると妙に落ち着かなくなります。
不安と焦燥にかき立てられるからでしょうか。
その一方で、期待と翌年に託す想いがあります。
終わりは始まりを含んでいるもの。
気持ちを落ち着かなくさせるのは、
年明けと共に人もまた変わっていくからかもしれません。
ちなみに、僕は「出がらし茶」のことを「出がしら茶」と言っていました。
年の瀬に妻の指摘によって気付きました。
いつから「出がしら茶」と言っていたのか。
しばらく前からだったのか、
それともその日たまたまそう口にしたのか……。
出がらしと出がしら。
似ているようで全然違う。
この手の勘違いは多くありそうです。
年を迎えると共に、自分を新しく改めていきたいものです。
今年の1月1日に「文殊寺と高見城」について取り上げたのがつい昨日のことのようです。
今年も色々な出会いがありました。
人に限らず、多くの史跡とも顔見知り合いになりました。
続けていると不思議と結びつく縁があるようです。
大晦日はどのように過ごされているでしょうか。
僕は夕方になると妙に落ち着かなくなります。
不安と焦燥にかき立てられるからでしょうか。
その一方で、期待と翌年に託す想いがあります。
終わりは始まりを含んでいるもの。
気持ちを落ち着かなくさせるのは、
年明けと共に人もまた変わっていくからかもしれません。
ちなみに、僕は「出がらし茶」のことを「出がしら茶」と言っていました。
年の瀬に妻の指摘によって気付きました。
いつから「出がしら茶」と言っていたのか。
しばらく前からだったのか、
それともその日たまたまそう口にしたのか……。
出がらしと出がしら。
似ているようで全然違う。
この手の勘違いは多くありそうです。
年を迎えると共に、自分を新しく改めていきたいものです。