春休みが訪れ、やがて桜の花が咲き始める頃、
思い出したようにミサキから電話がありました。
「ねえ、これから「伊勢屋」のラーメン食べに行かない?」
と、まるで昨日会ったばかりのような口調で言いました。
「これから?」
「お昼食べちゃった?」
「これから食べようと思ってたところだけど……」
「じゃあ、いいじゃん。久しぶりに食べようよ」
受話器の向こうでミサキは笑いました。
ぼくが口を開きかけると、電話はそこで切れてしまいます。
ぼくは呆気にとられましたが、すぐに支度をして家を出ました。
緊張なのか期待なのかよくわからない心臓の鼓動に包まれます。
夕方にシホやカズエたちと会い、夜桜を見に行く約束をしていましたが、
そのことは一瞬忘れてしまいました。
ぼくは自転車に乗って力一杯ペダルを踏み込みます。
そして、「伊勢屋」へ向かいました。
「伊勢屋」に着くとミサキはすでに店内に入っていて、
読み古された漫画を読んでいました。
「早かったね」と、ぼくを見付けて手を振ります。
「うん、急いできた」
「顔、赤いよ」
「そう?」
「ほっぺがリンゴみたい」
ミサキはくすぐったそうに笑います。
春の静かな昼下がり、店内にはちょうど客が引けたところだったようです。
作業着を着たおじさんが数人いるだけで、ひどく空いていました。
「こうして「伊勢屋」のラーメン食べるの久しぶりじゃない?」
「ダイエットはもうやめたの?」
「うん、もういいの。前みたいにいっぱい食べるの」
「その方がミサキらしくていいよ」
彼女は鼻の頭を掻いて微笑みます。
お互い口をきかなかった3学期が嘘のように、ぎこちなさはまるでありません。
髪型も恋人ができる前に戻り、心なしか肌の血色もよくなっていました。
「前より肌の張りがよくなったんじゃない?」とぼくは言います。
「そう? また食べるようになったからかな」
「我慢は体の毒だね」
「それとね、おそば屋さんでバイトを始めたの」
ミサキは両手の指を組んだり離したりしながら言いました。
「へえ、どうして?」
「それが自分でもよくわからないの。貼り紙見たら何も考えずにお店に入っちゃった」
「どこのおそば屋さん?」
「うちから自転車で10分くらいの店」
ミサキは店名を言いましたが、ぼくは1度も入ったことのない店でした。
「つまみ食いばかりしてるんじゃない?」
「ううん、そんなことしなくても店長がいっぱい食べさせてくれるの」
「バイトなのに?」
「そのお店は食事付きなのよ。わたしがいっぱい食べるって知ったら、毎晩特盛りにして出してくれるの。……男の子より多いのよ」
「気前がいいね」
「だからバイトに行くのが楽しくって……」
彼女は朗らかに笑いました。
秘かに店長に恋をしているのではないかと思いましたが、訊くのはやめました。
そんな雰囲気ではなかったし、彼女は純粋に食べることを楽しんでいるようで、
ややもすると仕事へ行っている感覚ではないのかもしれません。
いままでバイトの「バ」の字も口にしたことがなかったのだから……。
「伊勢屋」の店員さんが来て、ぼくたちに注文を訊ねます。
「特盛り3つ」と、ミサキは言いました。
「3つ?」
ぼくと店員さんは思わず声を合わせてしまいます。
「もうひとりお連れさんが来るの?」
「ううん、わたしが2つ食べるの」
彼女は平然とそう言います。
店員さんが目を丸くしたのは言うまでもありません。
「そんなに食べられる?」とぼくが訊きます。
「今日ならいけそうな気がするわ」
ミサキは胸を張りました。
それはまるで、いままで食べなかった分を取り戻すかのようでした。
結局特盛りラーメン3つの注文を通します。
ついでにモツ炒めも追加しました。
「今日もバイト?」
「そう、夕方から。今度あなたも食べに来てよ。店長に頼んで奮発してあげるから」
「そんなことしたら行きづらいよ……」
「大丈夫。うちの店すっごく美味しいんだから。わたしがいる内に来ないと損よ」
「そうだな……ミサキのせいで店の帳簿が火車になる前に行くよ」
「何それ。わたしはそこまでがっついてないわ」
ぼくたちはクスクス笑いました。
ああ、ミサキだ……と、ぼくは内心思います。
声音も口調もよく笑うところも、以前の彼女に戻っていました。
自分の居場所にいるような安心感、安らぎ。
ぼくの心は春の木漏れ日の中にいるように穏やかで、
やはりミサキのそばにいたいという思いが強くなるのを否めませんでした。
「ねえ」
そのとき、ミサキの顔から笑みが消えました。
急に変わったその雰囲気に不安がよぎります。
「ん?」
「今日みたいにさ……これからまた……あなたを誘っていい?」
彼女はぎこちなくそう言いました。
両手の指をモジモジ絡ませながらぼくを見ます。
「あ、当たり前だろ」
ぼくの声は上擦ってしまいます。
「本当に?」
「「伊勢屋」のラーメン好きだし」
「ラーメンだけじゃないよ。須影の焼き肉屋とか、用水路沿いのお好み焼き屋とか……」
「誘ってくれたらどこにでも行くよ」
その言葉を聞いて安心したように、ミサキは笑顔を浮かべました。
「よかった……」
「オレも誘っていい?」
一瞬キョトンとしましたが、すぐに頷きます。
「いいよ。でも大盛りのお店にしてね」
「高くて量の少ない店は嫌なんでしょ?」
「だってお腹いっぱいにならないじゃない」
彼女はまた両手を組んだり離したりしました。
でも、本当はどこでもいいよ、とミサキは言います。
「わたしわかったの。あなたと一緒に食べているときが一番美味しいって」
そのとき特盛りラーメンが運ばれてきました。
濛々と湯気を立て、かなりの迫力です。
テーブルの上に乗せると、すぐにいっぱいになってしまいました。
メニューや調味料を隣の席に移し、
ようやくモツ炒めを置くスペースができました。
店内の客も驚いた顔をしてぼくたちのテーブルを見ていましたし、
厨房からも店主らしき人が顔を出しているのがわかります。
しかし、ミサキはそんな視線を気にする様子はありません。
割り箸を手に取ると、嬉しそうに顔を綻ばせながら箸を割るのでした。
「本当に食べられる?」
「うん、前からやってみたかったの」
「頼もしいね」
ああ、食べてしまうんだろうなと、ぼくは思います。
彼女は大食らいの女です。
誰もが目を疑うボリュームを難なく平らげてきたし、
残したところはいままで1度も見たことがありません。
もしかすると、3杯目の特盛りラーメンも注文しかねないでしょう。
店員さんも客もみんな彼女に注目し、店内は妙な静けさに包まれていました。
ミサキはレンゲでスープをひと口飲み、「よし」と気合いに似た声を出します。
そして、勢いよく麺を啜り始めるのでした。
〈了〉
※繰り返しになりますが、ラーメン店「伊勢屋」は実在する店です。
また、「ミサキ」やその他の登場人物が本当に存在するかどうかも、
やはり読者様のご想像にお任せしたいと思います。
ただ、もし「伊勢屋」へ行ったら店内をそっとチェックしてみて下さい。
特盛りラーメン2つを食べている女がいるかどうかを……。
鳥邦仁
思い出したようにミサキから電話がありました。
「ねえ、これから「伊勢屋」のラーメン食べに行かない?」
と、まるで昨日会ったばかりのような口調で言いました。
「これから?」
「お昼食べちゃった?」
「これから食べようと思ってたところだけど……」
「じゃあ、いいじゃん。久しぶりに食べようよ」
受話器の向こうでミサキは笑いました。
ぼくが口を開きかけると、電話はそこで切れてしまいます。
ぼくは呆気にとられましたが、すぐに支度をして家を出ました。
緊張なのか期待なのかよくわからない心臓の鼓動に包まれます。
夕方にシホやカズエたちと会い、夜桜を見に行く約束をしていましたが、
そのことは一瞬忘れてしまいました。
ぼくは自転車に乗って力一杯ペダルを踏み込みます。
そして、「伊勢屋」へ向かいました。
「伊勢屋」に着くとミサキはすでに店内に入っていて、
読み古された漫画を読んでいました。
「早かったね」と、ぼくを見付けて手を振ります。
「うん、急いできた」
「顔、赤いよ」
「そう?」
「ほっぺがリンゴみたい」
ミサキはくすぐったそうに笑います。
春の静かな昼下がり、店内にはちょうど客が引けたところだったようです。
作業着を着たおじさんが数人いるだけで、ひどく空いていました。
「こうして「伊勢屋」のラーメン食べるの久しぶりじゃない?」
「ダイエットはもうやめたの?」
「うん、もういいの。前みたいにいっぱい食べるの」
「その方がミサキらしくていいよ」
彼女は鼻の頭を掻いて微笑みます。
お互い口をきかなかった3学期が嘘のように、ぎこちなさはまるでありません。
髪型も恋人ができる前に戻り、心なしか肌の血色もよくなっていました。
「前より肌の張りがよくなったんじゃない?」とぼくは言います。
「そう? また食べるようになったからかな」
「我慢は体の毒だね」
「それとね、おそば屋さんでバイトを始めたの」
ミサキは両手の指を組んだり離したりしながら言いました。
「へえ、どうして?」
「それが自分でもよくわからないの。貼り紙見たら何も考えずにお店に入っちゃった」
「どこのおそば屋さん?」
「うちから自転車で10分くらいの店」
ミサキは店名を言いましたが、ぼくは1度も入ったことのない店でした。
「つまみ食いばかりしてるんじゃない?」
「ううん、そんなことしなくても店長がいっぱい食べさせてくれるの」
「バイトなのに?」
「そのお店は食事付きなのよ。わたしがいっぱい食べるって知ったら、毎晩特盛りにして出してくれるの。……男の子より多いのよ」
「気前がいいね」
「だからバイトに行くのが楽しくって……」
彼女は朗らかに笑いました。
秘かに店長に恋をしているのではないかと思いましたが、訊くのはやめました。
そんな雰囲気ではなかったし、彼女は純粋に食べることを楽しんでいるようで、
ややもすると仕事へ行っている感覚ではないのかもしれません。
いままでバイトの「バ」の字も口にしたことがなかったのだから……。
「伊勢屋」の店員さんが来て、ぼくたちに注文を訊ねます。
「特盛り3つ」と、ミサキは言いました。
「3つ?」
ぼくと店員さんは思わず声を合わせてしまいます。
「もうひとりお連れさんが来るの?」
「ううん、わたしが2つ食べるの」
彼女は平然とそう言います。
店員さんが目を丸くしたのは言うまでもありません。
「そんなに食べられる?」とぼくが訊きます。
「今日ならいけそうな気がするわ」
ミサキは胸を張りました。
それはまるで、いままで食べなかった分を取り戻すかのようでした。
結局特盛りラーメン3つの注文を通します。
ついでにモツ炒めも追加しました。
「今日もバイト?」
「そう、夕方から。今度あなたも食べに来てよ。店長に頼んで奮発してあげるから」
「そんなことしたら行きづらいよ……」
「大丈夫。うちの店すっごく美味しいんだから。わたしがいる内に来ないと損よ」
「そうだな……ミサキのせいで店の帳簿が火車になる前に行くよ」
「何それ。わたしはそこまでがっついてないわ」
ぼくたちはクスクス笑いました。
ああ、ミサキだ……と、ぼくは内心思います。
声音も口調もよく笑うところも、以前の彼女に戻っていました。
自分の居場所にいるような安心感、安らぎ。
ぼくの心は春の木漏れ日の中にいるように穏やかで、
やはりミサキのそばにいたいという思いが強くなるのを否めませんでした。
「ねえ」
そのとき、ミサキの顔から笑みが消えました。
急に変わったその雰囲気に不安がよぎります。
「ん?」
「今日みたいにさ……これからまた……あなたを誘っていい?」
彼女はぎこちなくそう言いました。
両手の指をモジモジ絡ませながらぼくを見ます。
「あ、当たり前だろ」
ぼくの声は上擦ってしまいます。
「本当に?」
「「伊勢屋」のラーメン好きだし」
「ラーメンだけじゃないよ。須影の焼き肉屋とか、用水路沿いのお好み焼き屋とか……」
「誘ってくれたらどこにでも行くよ」
その言葉を聞いて安心したように、ミサキは笑顔を浮かべました。
「よかった……」
「オレも誘っていい?」
一瞬キョトンとしましたが、すぐに頷きます。
「いいよ。でも大盛りのお店にしてね」
「高くて量の少ない店は嫌なんでしょ?」
「だってお腹いっぱいにならないじゃない」
彼女はまた両手を組んだり離したりしました。
でも、本当はどこでもいいよ、とミサキは言います。
「わたしわかったの。あなたと一緒に食べているときが一番美味しいって」
そのとき特盛りラーメンが運ばれてきました。
濛々と湯気を立て、かなりの迫力です。
テーブルの上に乗せると、すぐにいっぱいになってしまいました。
メニューや調味料を隣の席に移し、
ようやくモツ炒めを置くスペースができました。
店内の客も驚いた顔をしてぼくたちのテーブルを見ていましたし、
厨房からも店主らしき人が顔を出しているのがわかります。
しかし、ミサキはそんな視線を気にする様子はありません。
割り箸を手に取ると、嬉しそうに顔を綻ばせながら箸を割るのでした。
「本当に食べられる?」
「うん、前からやってみたかったの」
「頼もしいね」
ああ、食べてしまうんだろうなと、ぼくは思います。
彼女は大食らいの女です。
誰もが目を疑うボリュームを難なく平らげてきたし、
残したところはいままで1度も見たことがありません。
もしかすると、3杯目の特盛りラーメンも注文しかねないでしょう。
店員さんも客もみんな彼女に注目し、店内は妙な静けさに包まれていました。
ミサキはレンゲでスープをひと口飲み、「よし」と気合いに似た声を出します。
そして、勢いよく麺を啜り始めるのでした。
〈了〉
※繰り返しになりますが、ラーメン店「伊勢屋」は実在する店です。
また、「ミサキ」やその他の登場人物が本当に存在するかどうかも、
やはり読者様のご想像にお任せしたいと思います。
ただ、もし「伊勢屋」へ行ったら店内をそっとチェックしてみて下さい。
特盛りラーメン2つを食べている女がいるかどうかを……。
鳥邦仁