クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

女先生とドジョウ(1)

2007年01月14日 | ブンガク部屋
スーパー「よしみや」で初めて“ドジョウ”を買ったのは、
中間テスト真っ最中のこと。
埼玉県羽生市の東外れにある水上ゴルフ場で釣りをするためのドジョウでした。
すなわちドジョウはエサ、狙うはブラックバス。
「生きたドジョウを使った方がよく釣れるんだに」
と、ぼくを釣りに誘った“スズヤン”というクラスメイトは言いました。

彼は根っからの釣り好きで、週末はもちろんのこと、
放課後にも釣り糸を垂らしている男でした。
顔も心なしか魚に似ていて、
寝ぼけたフナのようだったのを覚えています。
そんな彼はテストなど関係ありません。
テスト期間中で学校が半日になったのをいいことに、
日ごと釣りに出掛けていたのです。
スズヤンほどではないとは言え、当時中学1年生だったぼくはいっぱしの釣り師気どり。
いい穴場が見付かると、朝から晩まで釣り糸を垂らしていました。

とは言え、テスト期間中に釣りをしようという発想はぼくにはありません。
日頃遊び惚けていたのが祟って、一気に教科書を暗記しなければなりませんでした。
「そんなんやってもムダムダ。一緒に釣りに行くべよ」
スズヤンはフナがパクパク口を動かすように、
英語のテストが終わった休み時間にそう誘ってきました。
「わりぃ点数とったら親に怒られるがね」
「そんなんよりブラックバスが釣れるいい穴場があるんだ」
「またそんなこと言う」
「もう入れ食い状態よ」
「そんなん嘘だろうで」
とぼくは言いながら、つい話に乗ってしまいます。
「どこの釣り場なん? そこ」
「一緒に来なけりゃ教えねえよ」
「そんなんずるいで」
「釣りしてから勉強した方が頭に入るどぉ」
スズヤンの言葉は釣り師の心をくすぐるのに十分でした。
結局ぼくは彼の巧みな話術(?)に乗せられ、
学校が終わるとすぐに釣りへ行くことになりました。
教師に見付からないように私服に着替え、
学校から離れた場所でスズヤンと落ち合います。
そしてまず最初に向かったのがスーパー「よしみや」でした。

「なんで「よしみや」なん?」
「ここでエサを買うんだがね」
「練りエサじゃないんかい?」
「ドジョウだよ」
当時ぼくたちが使っていたのはヘラ竿で、
エサも練りエサがほとんどでした。
ブラックバスというとリールとルアーを使って釣るのが一般的ですが、
ぼくたちはあくまでもヘラ竿にこだわっていたのです。
「エサにドジョウを使うのなんか初めてだよ」
「意外とこれが釣れるんだ」
ザルで生きたドジョウを掬い、透明のビニール袋に移します。
入れ食い状態だというのでかなりの量を入れ、水を入れると、
あとはレジに持っていけばいいだけでした。
「「よしみや」のドジョウが1番いいんだに」
と、スズヤンはいっぱしのこだわりを口にしましたが、
やはりその顔は寝ぼけたフナのようなのでした。

スズヤンが教えてくれた穴場とは、
淡水魚専門の「さいたま水族館」にほど近いところの水上ゴルフ場でした。
現在は「キヤッセ羽生」という施設もできましたが、
その当時は田畑が広がるばかりです。
近くには焼却場があり、煙突からは白い煙が真っ直ぐ立ち上っていたのを覚えています。
「最近めっけたんだ」とスズヤンはフェンスによじ登りながらいいました。
「ここって釣り禁止なんじゃないんかい?」
「端っこでやってりゃだいじゅ(大丈夫)だよ」
彼はまるで気にする様子はありません。
それよりも早く釣り糸を垂らしたくて仕方がないようでした。
ぼくも辺りを見回してから、首ほどの高さのフェンスによじ登ります。
事務所から距離が離れているとはいえ、ぼくたちの姿は見えているはずです。
しかし、スズヤンが「だいじゅ」と言うのなら大丈夫なのでしょう。

かくしてぼくたちは釣りを始めます。
仕掛けはすでに用意してあり、あとはエサをつけるだけです。
「ドジョウはどうやって針にくっつけるん?」
と、ぼくはスズヤンに訊きます。
「背中にぶっ刺せばいいんだよ」
単純明快。彼にマニュアルなどありません。
いかにして釣るかより、ただ釣り糸を垂らすことに楽しみを覚えている男でした。
それでいて腕はいいのです。
ぼくは丸々太ったドジョウを選び、
スズヤンの見よう見まねで針をその背中に刺しました。
キューとドジョウが鳴きます。
その声を聞いた途端、ぼくは思わず手を離してしまいました。
「なあ、ドジョウが鳴いたよ」
「知らなかったんかい?」
「いら痛そうに鳴くんだに」
「ドジョウに同情したんかい?」
スズヤンはそう言ってニヤニヤ笑いました。
しかしぼくが笑わなかったせいか、
「ほお、オレがエサをつけてやっからちっとどかっせ」
と、その場を取り繕うに言いました。
そしてあっと言う間にドジョウに針を通します。
「ちっとすれば入れ食いになるからな。面白いどぉ」
スズヤンはそう言ってぼくに竿を渡すのでした。
(「女先生とドジョウ(2)」に続く)

※スーパー「よしみや」は埼玉県羽生市に実在します。
 実際にぼくが中学時代には生きたドジョウが売られていましたが、
 現在はわかりません。
 なお、この稿においても舞台が具体的なので、
 登場人物の実在の有無は読者様のご想像に委ねたいと思います。
コメント (4)
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なぜ山内上杉氏築城説は生まれたのか? ―論文(8)―

2007年01月14日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
〈山内上杉氏説について〉
ここでもう1度、2つの築城説を見直したい。
羽生城は小松神社→竹の内館→東谷への拡張という過程を辿って築城されたと述べた。
この間、山内上杉氏と接点があるのは、
永禄3年の上杉謙信の関東出陣のときだけである。
天文14年の河越合戦のときに接触があった可能性もあるが、
このとき羽生領は古河公方勢力圏であったから、
あくまでも木戸氏は足利晴氏に属していたことになる。
言うなれば、永禄3年以前に山内上杉氏との関係はほとんどなく、
なぜ彼らが羽生城築城に携わっていたとする説が出てきたのか、
不思議にすら感じるのである。

もしかすると、この山内上杉氏説は築城ではなく、
木戸氏の羽生配置説ではないだろうか。
現在のところ、木戸氏がどのような経緯で羽生に来たのかは全くの謎である。
木戸範実の父が広田朝景であるなら、
朝景か範実の時代に羽生に移り住んだのかもしれない。
おそらく文明10年(1478)に長尾景春が羽生の峰に陣をとったことから、
にわかに羽生が注目され始めたのだろう。
木戸氏の羽生移住に何らかの政治的意図があったとするならば、
2つの築城説が共に唱えるように
後北条氏の侵攻に備えるためであったことが考えられる。
ただし、山内上杉氏説で指す「後北条氏」は新しく台頭し始めた北条早雲・氏綱の時代で、
直繁・忠朝説では天文14年の河越合戦以降であるから、北条氏康の時代を指す。
羽生城築城と木戸氏配置の時代的背景が微妙に異なるのがわかる。
つまり山内上杉氏は、めまぐるしく領土を拡大していく早雲・氏綱に備えるために、
天文5年以前に木戸氏を羽生に配置したということになる。
そのとき木戸氏が拠点にしたのは小松神社・小松寺であり、
そこで在地的基盤を固めてから簑沢に竹の内館を建て、
東谷へ拡張していったのではないだろうか。

しかし、天文5年以前に山内上杉氏との接触があったのは不明である。
『北武蔵の戦国武将文書展』は「木戸孝範の系統で、山内上杉氏に属した」とし、
『鷲宮町史 通史』は「(孝範の)系統の木戸氏は、古河公方側近の木戸氏と異なり最初から上杉氏に属していたようである」としている。
すなわち、孝範の系統の木戸氏は最初から山内上杉氏に仕えていて、
それゆえ上杉氏が羽生に城を建て、そこに木戸氏を配置させたと唱えているのだ。
私は山内上杉氏説は、この「孝範の系統」から起こったのではないかと考えている。

木戸孝範は長禄元年(1457)12月、足利政知に従って関東に下向し、
そののち太田道灌の客将となっている。
太田道灌は言うまでもなく、扇谷上杉定正の重臣で、山内上杉氏ではない。
孝範は69歳までの生存が確認されているが、
山内上杉氏との接触があったのかはわからない。
その孝範の娘は広田朝景と婚したときか、
川田谷(桶川市大字川田谷)に住んでいた可能性が高い。
それは孫の忠朝が初期に河田谷と称していたことから窺えるのだが、
この間山内上杉氏との接触はやはり確認できない。

結局のところ、孝範―孝範の娘―範実の間に山内上杉氏に属していたのかは不明である。
天文14年の足利晴氏が正覚院に宛てた戦勝祈祷の礼状から、
羽生が古河公方勢力圏だったとすると、
木戸氏は最初から山内上杉氏に属していなかったと私は考えるが、
孝範が太田道灌の客将であったことに関係して、
山内上杉氏との何らかの接触はあったかもしれない。
それは永正2年(1505)の両上杉氏の和睦以降と推測される。
そして天文5年までの間、山内上杉氏はかねてから注目していた羽生へ木戸氏を配置する。
このとき羽生に城はなく、修験者が屋敷を構えていた小松寺に
範実は一旦拠点を置いたのではないだろか。
そこから東谷に城を築くまでの過程は、いままで述べてきたとおりである。
(「論文(9)」に続く)
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演歌の女王(天海祐希)とNANAは? ―大殺界(細木和子)―

2007年01月14日 | レビュー部屋
日本テレビで新しくスタートした「演歌の女王」。
主演は“天海祐希”で、前作「女王の教室」と同じスタッフ。
讀賣新聞の「試写室」によると、
借金、ホスト、いじめなどの重いテーマを明るく提示し、
それらにめげない主人公を表現したいのかもしれないとのこと。
主人公“ひまわり(天海祐希)”に巻き起こるついていない出来事を見ていると、
彼女はもしかすると「大殺界の女」なのかもしれないと、
そんな風に思えてきます。

“大殺界”とは細木和子の著書に必ず出てくるお言葉。
ぼくは昨年覚えたばかりですが、おおよそ“厄年”と捉えられるようです。
これは3年間続くらしく、大殺界期間は静かに暮らしているのが無難とのこと。
必ずしも悪いことが起こるとは限りませんが、
人によっては踏んだり蹴ったりのようです。
“ひまわり(天海祐希)”は、この大殺界の渦中にいるように思えてなりません。
その元凶は“ヒトシ(原田泰造)”でしょう。
ダメな男に惚れて騙されて借金を作ってと、
ひと昔前の私小説作家のようです。
(それが演歌の道でもあるのか……)
「大人計画」のように、ついていないものを毒と笑いには転換せず、
やや半笑いにさせるところは、ドラマスタートの様子見といったところでしょうか。

ところで、演歌ではありませんが、
女歌手を主人公にしたアニメ「NANA」が、同じ日本テレビで放送されています。
“ナナ”が歌うのはパンクス。
演歌とはほど遠いし、ひまわり(天海祐希)ともだいぶ歳が離れています。
そんなナナは、2007年1月現在刊行されているコミック16巻までを読むと、
海で死ぬと(世間で噂される)という暗示がされています。
これは大殺界突入の暗示ではないでしょうか。
それまではもうひとりのNANAこと“ハチ”と和気藹々の生活をしていましたが、
トラネスの“タクミ”の介入によって破綻していきます。
これは大殺界の入口のようなもので、
1度そこに吸い込まれてしまうと抗おうにも出られません。
大殺界とはそういう宿命にあるようです。

いずれにせよ同じテレビ局で
そのような大殺界の女(?)を描こうとしているのは興味深いところです。
(「演歌の女王」のごとく、ナナも「猫目の女王様」と呼ばれているし……)
もし細木和子が彼女たちを見たら、どんな言葉を言うのでしょう。
“ナナ”はともかく、“ひまわり(天海祐希)”の部屋には、
細木和子の本が1冊は置いてありそうです。
コメント (3)
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1月14日生まれの人物は?(タロとジロの日)

2007年01月14日 | 誕生日部屋
1月14日生まれの人物には次の名前が挙げられます。

狩野探幽 (日本画家)
シュバイツァー (神学者・医師)
フェイ・ダナウェイ (俳優)
三島由紀夫 (小説家『仮面の告白』『金閣寺』)
佐藤雅美 (小説家)
川口順子 (外相)
田中眞紀子 (政治家)
石田純一 (俳優)
ルー大柴 (タレント・俳優)
柴田理恵 (タレント・俳優)
松居直美 (タレント・歌手)
大賀埜々 (歌手)
北川悠仁 (ミュージシャン(ゆず))
松崎智浩 (ミュージシャン(オセロケッツ))
山崎弘也 (お笑い芸人(アンタッチャブル))
玉木宏 (俳優)
新山千春 (俳優)
上原多香子 (歌手・俳優)

ちなみに、この日起きた事件は以下のとおりです。

ルイス・キャロル (童話作家『ふしぎの国のアリス』) 死去 (1898)
マリリン・モンローがジョー・ディマジオと結婚。同年に離婚 (1954)年
南極大陸で1年間置き去りにされたカラフト犬タロとジロの生存を確認 (1959)
花森安治 (編集者『暮しの手帖』)死去 (1978)
伊豆大島近海地震(M7.0)。死者25人(1978)
自民・自由聯立による小渕改造内閣が発足 (1999)

『誕生日事典』によると、この日生まれた人物は、
“人生の統合にこだわる人”とのことです。
誕生花は「スプレー菊」、花言葉は「清らかな愛」

参照文献
高木誠監修/夏梅陸夫写真『誕生花366の花言葉』大泉書店
主婦と生活社編『今日は誰の誕生日』主婦と生活社
ゲイリー・ゴールドシュナイダー ユースト・エルファーズ著/
『誕生日事典』角川書店
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