クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

大食らいの女(3)

2007年01月12日 | ブンガク部屋
その日を境にミサキとの関係はぎこちなくなり、
廊下ですれ違っても声を掛け合うことはなくなりました。
あからさまに避けるぼくを、
次第に彼女も口をきかなくなっていったのです。
ミサキの元彼氏の恋は順調らしく、
放課後一緒に帰る姿を何度か見掛けました。
その2人をミサキがどう思っていたのかはわかりません。
おそらく胸を痛めていたことでしょう。
しかし、彼女の言葉はもう聞こえないのでした。

ぼくとミサキが話さなくなったのを不審に思ってか、
噂好きの“カズエ”というクラスメイトが近寄ってくるようになりました。
「ミサキちゃんとケンカしたの?」とか
「嫌われることでもしたんじゃない?」などと、
からかい半分で訊いてくるのです。
ぼくは適当に言葉を濁し、真面目に答えなかったのは言うまでもありません。
しかし、1月も終わろうとしていたときのこと、
放課後にそのクラスメイトはぼくのところへ来るとこう言いました。
「実はさ、あんたのことを気になってる子がいるの。いまから会ってみない?」
軽い口調でしたが、からかっている様子ではありませんでした。
「なんだよいきなり」
「前からあんたが気になっていたんだって。ミサキちゃんとの仲だってそりゃあ心配して……」
「どなた、その人は?」
「可愛い子だぞ」
カズエは「イシシ」と笑いました。

ミサキとの距離が空いたことで、まるで変節を迎えるかのように、
周りをとりまく人間が変わっていきました。
ぼくを「気になっていた」という“シホ”は色白で髪が長く、
気品のある女の子でした。
それまで同じクラスになったことはありませんでしたが、
嫌でも目に留まるような子だったのです。
ぼくの何が気になっていたのかはわかりません。
その子を紹介したカズエは「あんたに惚れているんだよ」と言い、
無理矢理ぼくたちをくっつけさせる魂胆のようでした。

以来、放課後の教室で3人残って話をしたり、
カズエが秘かに気になっているぼくの友人を誘って週末都内へ出掛けたりと、
ミサキのいない日常が当たり前のようになっていきました。
シホは大人しそうな外見に反して積極的な女。
毎晩のように電話はかかってくるし、
放課後ぼくがどこかへ出掛けようとすると一緒についてきます。
――ねえ、好きな女の子はいないの?
――どんなタイプの子が好き?
――いままでどういう子を好きになったの?
――ミサキちゃんとは本当につき合ってなかったの?
――ミサキちゃんのことどう思ってるの?
シホはぼくに寄り添い、大きな瞳で見上げながらそう訊くのでした。
そんな彼女にぼくはくすぐったさを覚えます。
しかしそれは恋というより、
なついてくる子犬を相手にしているような感覚に似ていました。

シホのうまいところは、自己アピールの仕方だったと思います。
大抵の男なら「この子はオレに惚れているんだろうな」と思うでしょう。
ぼくの好みを訊けば翌日それに合わせてくるし、
カズエと2人で話をしていると、
――本当はカズエちゃんが好きなんじゃないの?
とひどく心配そうな顔をします。
そんな彼女を可愛いと思うことは何度もありました。
しかし、彼女と一緒の時間を過ごせば過ごすほど、
ぼくは物足りなさに似た空しさを感じてなりませんでした。

シホが少食だったということもそれに含まれます。
本当にほんのちょっとしか食べず、ぼくの前だから敢えてそうしているわけではなく、
元々少食のようでした。
カズエたちと一緒にお好み焼き屋へ行ったことがありましたが、
ひと切れ食べて腹を膨らませていたのを覚えています。
それが普通なのだとしても、何枚もお好み焼きを平らげ、
最後にもんじゃ焼きを美味しそうに食べるミサキの顔が何度も浮かんでくるのでした。
――わたし、昔からものを食べるのって苦手なの。料理も嫌いだし……
と、シホは言います。
1度だけ一緒に行った「伊勢屋」でも居心地が悪そうでしたし、
その食べ方も上品すぎて、食らいつくように箸を進めるミサキとは対照的なのでした。
これがミサキだったら……と彼女の顔が脳裡をかすめていきます。
日を追うごとにミサキとの距離は離れていきましたが、
胸の中でどんどん大きな存在になっていくのを否めませんでした。

ぼくは思い切ってミサキに声を掛けようとします。
しかし、1度ぎこちなくなると、必要以上に意識してしまうものです。
ケンカをしたわけではないし、嫌いになったわけでもありません。
シホたちと一緒にいるほどミサキの存在は大きくなり、
以前に戻りたい気持ちは強くなっていきます。
いまならまだ間に合うと思ってみても、
実際に彼女の姿を見るとあと一歩が踏み出せないのでした。

そんな日々が続き、3学期の期末テストが終わった日の放課後、
シホは誰もいなくなった教室で、ぼくに「好き」と伝えました。
――ずっと好きでした。わたしとつき合って下さい。
緊張した面持ちのシホが健気に見えたのを覚えています。
期末テストが終わるのを待っていたのかもしれません。
窓の外からは野球部の掛け声が聞こえていました。
「ごめん」とぼくは答えました。
ぼくのような男がシホをふるのはおこがましい限りでしたが、
いい加減な気持ちでつき合うことはできなかったのです。
――どうして?
と、シホは言います。
ぼくは彼女から視線をそらしました。
そのときふとミサキの顔が脳裡を掠めます。
――ミサキちゃんが好きなんでしょう?
シホはぼくが口を開く前にそう言いました。
まるで、ぼくの心の内を見透かしているみたいに……
――図星でしょ?
シホは悲しそうに微笑みます。
ぼくは口を開きかけましたが、何も言葉が出てきません。
――カズエちゃんも言っていたよ。本人は友だちだって言ってるけど怪しいって。
――ほら、ミサキちゃんの名前を出すとあなたの目は泳ぐもの。
――あんなに仲良かったのに急に話さなくなるなんて変だよ。
――きっとミサキちゃんもあなたのこと好きなのよ。
――だってあの子、あなたと話さなくなってからすごく寂しそうだもん。
ぼくはシホを見つめます。
傾きかけた陽射しが彼女の頬を染めていました。
――ミサキちゃんが好きなんでしょう?
シホは再びそう訊きます。
「オレは……」と言いかけたとき、彼女は「いいよ」と遮りました。
――どっちにしても、わたしとはつき合えないんでしょう?
彼女の声は震えていました。
その大きな瞳が光って見えたのは、陽射しのせいだけではなかったと思います。
「ごめん」と、ぼくはシホから目をそらして言いました。
――うん、わかった。
そのとき彼女がどんな顔をしたのかわかりません。
ぼくはシホの顔を見られず、申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。
彼女を傷つける前に、最初から親しくならなければよかったのでしょうか。
――でも、友だちだよ。
と、シホは言います。
――廊下ですれ違っても無視しないでね。またみんなで遊ぼうね。
彼女はそう言うとぼくに背を向け、去っていきました。
後ろ髪が揺れるその姿はか細くて、
いまにも折れてしまいそうだったのを覚えています。
ぼくはその場に突っ立ったまま彼女の後ろ姿を見つめます。
窓の外から聞こえるバッドの乾いた金属音が、
誰もいない教室に響いていました。
(「大食らいの女(4)」に続く)

※「ミサキ」ならびに「カズエ」「シホ」が実在する人物かどうかは、
 読者様のご想像に委ねます。
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羽生市小松に“城の前身”はあったか? ―論文(6)―

2007年01月12日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
〈小松神社・小松寺と木戸氏〉
前稿で直繁と忠朝が簑沢竹の内に館を築き、居館していたと書いた。
それが東谷に城が築かれる前のいわば羽生城の前身としたが、
そもそも木戸氏は古くから羽生に住んでいたわけではなく、
土地の基盤は極めて弱かった。
いつ木戸氏が羽生に移ってきたのかは定かでない。
ただ直繁と忠朝が小松神社に三宝荒神を寄進する
天文5年(1536)以前であったことは間違いないだろう。
木戸氏はこの三宝荒神の寄進をはじめとして、
社寺の創建、開基、勧請などを多くしている。
年代順に整理してみると、次のようになる。

 天文5年(1536)直繁・忠朝小松神社に三宝荒神を寄進。
 天文12年(1543)忠朝の母、簑沢に正光寺を開基。
 天文13年(1544)忠朝、岩瀬に岩松寺を開基。
 天文15年(1546)直繁・範実、小松寺に本地仏を寄進。
 天文23年(1554)直繁、小松神社の社殿を修理する。
 弘治3年(1557)忠朝妻、大天白神社を勧請。
 永禄6年(1563)直繁、村君の養命寺(永明寺)を再興。

羽生城初期の段階において、
木戸氏は小松神社や近隣の寺社に対し、積極的に働きかけた。
これらをふまえて、冨田勝治先生は直繁・忠朝らが簑沢に館を築く前、
小松に居住していたと推測している。
小松のどこに住んでいたのかは不明だが、
当時小松神社のそばには「小松寺」があり、7人の修験者が屋敷を構えていた。
この小松寺そのものが砦となっていたのかもしれない。
近くに古利根川が流れ、自然堤防や河畔砂丘が発達していることから、
要害としての機能を果たしていたことが考えられる。
また冨田先生は、河越合戦の敗北後、小田原勢力圏にくみしたとき、
木戸氏が潜伏していたのは小松だったとも指摘している。
そして、忠朝の母が正光寺を開基する頃に、簑沢に館を建てて移り住んだという。
ただ、その後も小松寺に本地仏を寄進したり社殿の修理をしていることから、
直繁は暫く小松にいた可能性があるとしている。

このように木戸氏がはじめ小松にいたとするならば、
それは「竹の内館」のさらに以前ということになる。
すなわち何らかの理由で羽生に来た木戸氏ははじめ小松に住み、
天文12年頃に簑沢に館を築いてからはそこに移り、
河越合戦を機に東谷へ拡張・修築していったという流れだ。
果たして木戸氏は竹の内館以前に、小松に住んでいたのだろうか。
言い換えれば、羽生城の最も前身となるべき建物が小松にあったかということである。

私はこのことについて、小松に館や城はなかったと考えている。
伝承もなく、それとおぼしき小名も残っていない。
ただ、小松神社・小松寺そのものが砦であった可能性は否定しない。
つまり、天文5年以前に羽生に来た木戸氏は、はじめ小松神社・小松寺を拠点とし、
天文12年頃簑沢へ竹の内館を築くとそちらへ移っていったのである。

では、なぜ木戸氏は小松神社や近隣の社寺に頻繁に係わっていたのであろうか。
先に私の推測を述べると、在地的基盤を深めるためであったと考える。
新参者の木戸氏がその領地を支配し、盤石な拠点とするために、
基盤の強固が急務だったはずだ。
当時羽生領72ヶ村の鎮守だった小松神社に本地仏の寄進や社殿の修理をすることで、
土地との結びつきを強めようとしたのではないだろうか。
これは小松神社にかかわらず、正光寺、岩松寺の開基、大天白神社の勧請、
養命寺の再興にも同様のことがいえる。
本城の危機的状況の逃げ場を確保するためとも捉えられるが、
在地的基盤の強固の側面の方が強かったと考えられる。
というのも、このことは直繁と忠朝が称していた姓にも表れているからである。
(「論文(7)」に続く)

※画像は小松神社(羽生市小松)です。
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二宮和也と小西真奈美。約400年前に例えるなら?

2007年01月12日 | レビュー部屋
新聞のテレビ欄を見ていると、
新しく始まるドラマが目立ちます。
1月11日に合戦のごとく同時間帯に各局スタートしたドラマは、
「エラいところに嫁いでしまった!」(テレビ朝日)
「拝啓、父上様」(フジテレビ)
「きらきら研修医」(TBS)
が挙げられます。

「渡る世間は鬼ばかり」(TBS)に、
同ジャンルとおぼしき「エラいところに……」(仲間由紀恵主演)を
対抗馬として出してきたところに面白さを感じます。
そして10時からは上杉謙信と武田信玄の一騎打ちのごとく
「拝啓、父上様」と「きらきら研修医」が火花を散らしています。
前者の主演は“二宮和也”、後者は“小西真奈美”で、
小西さんは役柄のために長い黒髪をバッサリ切ったことで話題になりました。
二宮和也は周知のとおりジャニーズのグループ「嵐」のメンバーのひとり。
映画「硫黄島からの手紙」に出演したことでも、注目を集めている人物です。

ところで、両ドラマがオンエアされた1月11日は「塩の日」でした。
永禄12年(1569)、元同盟者に塩止めされた武田信玄に、
上杉謙信が塩を送った日とされています。
(記事「上杉謙信(Gackt)は敵に塩を送ったか? ―塩の日―」(06.1.12)参照)
これに対し、信玄は謙信に感謝の意を表し、“太刀”を送ったと伝えられています。
永禄4年(1561)の第四次川中島合戦で一騎打ちをしたとされる両者ですが、
このように敵としてではなく、
お互いの存在と実力を認め合う好敵手だったわけです。
このような日に、二宮和也の「拝啓、父上様」と、
小西真奈美の「きらきら研修医」が真っ向から対決するというのは興味深いものです。
なお、前者“倉本聡”の脚本、後者はブログをドラマ化したもの。
このように両者ともに異なった性質を持っているわけで、
対決をするには面白い要素を含んでいます。

「渡る世間は鬼ばかり」vs「エラいところへ嫁いでしまった!」、
「拝啓、父上様」vs「きらきら研修医」。
今後どのような争いになるのでしょうか。
物語とは別のところで楽しめそうです。

※画像は「エラいところへ嫁いでしまった!」の仲間由紀恵です。
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上杉謙信(Gackt)は敵に塩を送ったか? ―塩の日―

2007年01月12日 | 戦国時代の部屋
1月11日は、上杉謙信が敵の武田方に“塩”を送り、
甲斐に到着した日と言われています(塩の日)。
これは武田信玄が三国同盟を破ったことで、
塩の供給を止められたことが起因しています。
山に囲まれた甲斐国で暮らす領民にとって、
塩止めとなれば生活の混乱は必定。
義を重んじ、情に厚い上杉謙信はこれを知って眉を顰めました。
そしてこう言います。

 駿相二家武を以て甲斐に勝つ能はず、敵人を困しむるに卑劣の術策を以てす。
 実に唾棄すべきなり。武田氏は我敵なりと雖も、
 之を救はざるべからず(『上杉謙信傳』より)

すなわち謙信は、武田信玄との戦は弓箭(戦争)にあって、
今川・北条の塩や米をもってする「術策」を唾棄したのです。
そして、塩の供給を蔵田五郎左衛門に命じました。
これによって甲斐国の混乱は免れ、
領民をはじめ、武田信玄自ら謙信に感謝し、
お礼に“太刀”を送ったと伝えられています。
以来、苦しんでいる敵の弱みにつけ込まず、逆に救済の手を差しのばすことを、
「敵に塩を送る」と言うようになりました。
“武”と“仁愛”の心を持つ謙信ならではの逸話だと思います。

さて、今年の大河ドラマ「風林火山」では、
武田信玄と上杉謙信(Gackt)が登場します。
ドラマの中でこの「敵に塩を送る」シーンは描かれるでしょうか?
しかし、主人公山本勘助(内野聖陽)が没するのは
第四次川中島合戦の永禄4年(1561)。
謙信の送った塩が甲斐に届くのは同12年です。
いささか歳月が流れすぎています。
おそらく塩の「し」の字もかすらないでしょう。
とは言え、Gacktがどのような上杉謙信を演じるのか楽しみです。

※画像は川中島合戦一騎打ちの上杉謙信(右)と、武田信玄(左)です。

引用・参考文献
布施秀治著『上杉謙信傳』謙信文庫
花ヶ前盛明著『上杉謙信』新人物往来社
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1月12日生まれの人物は?(桜島の日)

2007年01月12日 | 誕生日部屋
1月12日生まれの人物には次の名前が挙げられます。

前田利長 (2代加賀藩主)
シャルル・ペロー (詩人・童話作家『長靴をはいた猫』)
三浦朱門 (小説家『不肖の父』)
清水一行 (小説家『小説・兜町』)
内海桂子 (漫才師)
かまやつひろし(ミュージシャン(スパイダース))
三木たかし (作曲家)
羽田健太郎 (ピアニスト・作曲家)
楠田枝里子 (タレント・アナウンサー)
陳建一 (料理人)
ジョン・ラセター (映画監督『トイ・ストーリー2』)
中谷美紀 (俳優)
井上雄彦 (漫画家『SLAM DUNK』『バガボンド』)
村上春樹 (小説家『ノルウェイの森』)

ちなみに、この日起きた事件は以下のとおりです。

板垣退助らが愛国公党を結成 1874)
桜島で史上最大の大噴火。以来、この日は“桜島の日”(1914)
アガサ・クリスティー (推理小説家)死去(1976)
礼宮殿下と川島紀子さんとの「納采の儀」(1990)
深作欣二 (映画監督『仁義なき戦い』『蒲田行進曲』) 死去(2003)

『誕生日事典』によると、この日生まれた人物は、
“プロに徹して生きていく定め”とのことです。
誕生花は「春山茶花」(はるさざんか)、花言葉は「つつましやかな人」

参照文献
高木誠監修/夏梅陸夫写真『誕生花366の花言葉』大泉書店
主婦と生活社編『今日は誰の誕生日』主婦と生活社
ゲイリー・ゴールドシュナイダー ユースト・エルファーズ著/
『誕生日事典』角川書店
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