玉浮きは風に流され、岸に近いところまで運ばれていました。
糸を上げると、やはりドジョウは無傷のままです。
ブラックバスが囓った形跡は見当たりません。
ただついさっきと違っていたのは、立花先生がそばにいることと、
ドジョウを見て上がった悲鳴でした。
「エサはドジョウなの?」
と、先生は目を丸くして言います。
おそらく練りエサかルアーを想像していたのでしょう。
ドジョウはぐったりとして動かず、
生きているのか死んでいるのかもわかりません。
「「よしみや」で買ってきたんだ」と、スズヤンが言います。
「あそこにドジョウが売ってるの?」
「ほかの店にもあるけど、よしみやのドジョウが1番釣れるんだ」
スズヤンは買ってきたドジョウを見せます。
先生は再び悲鳴を上げました。
透明のビニール袋の中に、大量のドジョウがウネウネしているのです。
見ていて決して気持ちのいいものではありません。
スズヤンが指で軽く袋を叩くと一斉に動き回るのでした。
「こんなに買ってきて全部使うの?」
先生の言葉にスズヤンはやや肩を落とします。
「使うはずだったんだけど、全然釣れねえんだに」
「どうして?」
「わがんね」
先生は見慣れてきたのか、ビニール袋に顔を近付けます。
そのとき1匹のドジョウが突然浮かび上がったかと思うと、水面に顔を出し、
またビニール底へ潜っていきました。
「あ、呼吸した」と先生は言います。
「呼吸? ドジョウも息を吸うんかい?」
スズヤンも顔を近付けます。
すると、心なしか中が騒がしくなった気がしました。
「もちろん呼吸するのよ。でもドジョウはほかのお魚と違って“腸”で息を吸うの」
「腸?」
ぼくたちは覗き込むように、先生の顔を見つめます。
「人間は肺で呼吸するでしょう? でもドジョウはそれが腸なの」
「そんなんおかしいで」
「そう、おかしいの」
ぼくも初めて聞くことでした。
そもそも魚の呼吸法など考えたこともありません。
先生は教壇の上に立っているときみたいに優しく言葉を続けます。
「普通の魚はえら呼吸でしょう? だけどドジョウは外の空気を吸って腸で呼吸するから、こんな少ない水にいっぱいいてもなかなか死なないの」
「水の外に置いといてもちっとも死なねえよ」
「それは皮膚でも呼吸ができるからなのよ」
「え、そうなん?」
「ドジョウは冬になると、水が枯れても土に潜って冬眠するでしょう? これはこのお魚独特の呼吸法でなければできないことなの」
「言われてみればそうだな……」
「中には30㎝も地中に潜るドジョウもいるそうよ。だからドジョウの漢字も、「泥鰌」って「泥」の字がつくのかしらね」
「なあ、先生は国語の専門なのにいら詳しいで」
「そりゃあ羽生育ちですもの。一緒に遊んでいた男の子に教えてもらったの。ありふれたお魚だけど、本当は珍しい生き物なんだって」
先生は顔を綻ばせて言いました。
夕日のせいか、その頬は少し赤く染まっています。
「じゃあ、ドジョウ獲りなんかもやったんかい?」
「網を使ってやったわよ。釣りはひとりになるからやらなかったけど」
「ほかにどんなことして遊んでたん?」と、スズヤンは言います。
彼はすっかり先生に興味津々のようでした。
ぼくと違って緊張している様子はありません。
「夏休みには林に入ってカブトムシもつかまえに行ったわ。羽生は自然がいっぱいでしょう? 一緒に遊んでいた男の子たちは野生児みたいな子たちばかりだったから、いろいろなことを教えてくれたの。木登りもしたわ」
と、先生は答えます。
体の細いいまの先生からは想像ができない少女時代です。
「いまでもその人たちと遊んでるんかい?」
スズヤンは言葉を続けます。
「こっちに戻ってきてからはね。羽生に残っている人たちがほとんどなのよ。さすがに魚とりや虫とりには行かないけど、ときどきそういう思い出話をするの」
「なんだ、思い出話だけか」
「あら、それだけじゃないのよ。料理屋で生まれたお友だちは、わたしたちの前で生きた魚を捌いてくれるの。もうすごい迫力よ!」
先生は突然手を振り下ろします。
おそらく魚を切る真似をしたのでしょう。
いつの間にかその瞳はキラキラと輝いています。
しかし、スズヤンは捌かれる魚よりその出所が気になったようです。
「それは釣ってきた魚なん?」
彼は3度の飯より釣りが好きな男です。
釣りの匂いのするものはすかさず食らいつきます。
その質問に先生は首を傾げました。
「さあ、どうだろう……」
「その人はいまでも釣りに行ってるんかい?」
「行ってるかもしれないわね」
「今度その人にいい釣り場知ってるか訊いてくんない?」
今度はスズヤンの方が熱っぽくなっていきます。
先生は一瞬虚を突かれたような顔をしましたが、
すぐに可笑しそうに微笑みました。
「ええ、いいわよ。今度訊いてみるわね」
スズヤンも先生の笑みにつられて、笑顔を見せるのでした。
(「女先生とドジョウ(5)」に続く)
糸を上げると、やはりドジョウは無傷のままです。
ブラックバスが囓った形跡は見当たりません。
ただついさっきと違っていたのは、立花先生がそばにいることと、
ドジョウを見て上がった悲鳴でした。
「エサはドジョウなの?」
と、先生は目を丸くして言います。
おそらく練りエサかルアーを想像していたのでしょう。
ドジョウはぐったりとして動かず、
生きているのか死んでいるのかもわかりません。
「「よしみや」で買ってきたんだ」と、スズヤンが言います。
「あそこにドジョウが売ってるの?」
「ほかの店にもあるけど、よしみやのドジョウが1番釣れるんだ」
スズヤンは買ってきたドジョウを見せます。
先生は再び悲鳴を上げました。
透明のビニール袋の中に、大量のドジョウがウネウネしているのです。
見ていて決して気持ちのいいものではありません。
スズヤンが指で軽く袋を叩くと一斉に動き回るのでした。
「こんなに買ってきて全部使うの?」
先生の言葉にスズヤンはやや肩を落とします。
「使うはずだったんだけど、全然釣れねえんだに」
「どうして?」
「わがんね」
先生は見慣れてきたのか、ビニール袋に顔を近付けます。
そのとき1匹のドジョウが突然浮かび上がったかと思うと、水面に顔を出し、
またビニール底へ潜っていきました。
「あ、呼吸した」と先生は言います。
「呼吸? ドジョウも息を吸うんかい?」
スズヤンも顔を近付けます。
すると、心なしか中が騒がしくなった気がしました。
「もちろん呼吸するのよ。でもドジョウはほかのお魚と違って“腸”で息を吸うの」
「腸?」
ぼくたちは覗き込むように、先生の顔を見つめます。
「人間は肺で呼吸するでしょう? でもドジョウはそれが腸なの」
「そんなんおかしいで」
「そう、おかしいの」
ぼくも初めて聞くことでした。
そもそも魚の呼吸法など考えたこともありません。
先生は教壇の上に立っているときみたいに優しく言葉を続けます。
「普通の魚はえら呼吸でしょう? だけどドジョウは外の空気を吸って腸で呼吸するから、こんな少ない水にいっぱいいてもなかなか死なないの」
「水の外に置いといてもちっとも死なねえよ」
「それは皮膚でも呼吸ができるからなのよ」
「え、そうなん?」
「ドジョウは冬になると、水が枯れても土に潜って冬眠するでしょう? これはこのお魚独特の呼吸法でなければできないことなの」
「言われてみればそうだな……」
「中には30㎝も地中に潜るドジョウもいるそうよ。だからドジョウの漢字も、「泥鰌」って「泥」の字がつくのかしらね」
「なあ、先生は国語の専門なのにいら詳しいで」
「そりゃあ羽生育ちですもの。一緒に遊んでいた男の子に教えてもらったの。ありふれたお魚だけど、本当は珍しい生き物なんだって」
先生は顔を綻ばせて言いました。
夕日のせいか、その頬は少し赤く染まっています。
「じゃあ、ドジョウ獲りなんかもやったんかい?」
「網を使ってやったわよ。釣りはひとりになるからやらなかったけど」
「ほかにどんなことして遊んでたん?」と、スズヤンは言います。
彼はすっかり先生に興味津々のようでした。
ぼくと違って緊張している様子はありません。
「夏休みには林に入ってカブトムシもつかまえに行ったわ。羽生は自然がいっぱいでしょう? 一緒に遊んでいた男の子たちは野生児みたいな子たちばかりだったから、いろいろなことを教えてくれたの。木登りもしたわ」
と、先生は答えます。
体の細いいまの先生からは想像ができない少女時代です。
「いまでもその人たちと遊んでるんかい?」
スズヤンは言葉を続けます。
「こっちに戻ってきてからはね。羽生に残っている人たちがほとんどなのよ。さすがに魚とりや虫とりには行かないけど、ときどきそういう思い出話をするの」
「なんだ、思い出話だけか」
「あら、それだけじゃないのよ。料理屋で生まれたお友だちは、わたしたちの前で生きた魚を捌いてくれるの。もうすごい迫力よ!」
先生は突然手を振り下ろします。
おそらく魚を切る真似をしたのでしょう。
いつの間にかその瞳はキラキラと輝いています。
しかし、スズヤンは捌かれる魚よりその出所が気になったようです。
「それは釣ってきた魚なん?」
彼は3度の飯より釣りが好きな男です。
釣りの匂いのするものはすかさず食らいつきます。
その質問に先生は首を傾げました。
「さあ、どうだろう……」
「その人はいまでも釣りに行ってるんかい?」
「行ってるかもしれないわね」
「今度その人にいい釣り場知ってるか訊いてくんない?」
今度はスズヤンの方が熱っぽくなっていきます。
先生は一瞬虚を突かれたような顔をしましたが、
すぐに可笑しそうに微笑みました。
「ええ、いいわよ。今度訊いてみるわね」
スズヤンも先生の笑みにつられて、笑顔を見せるのでした。
(「女先生とドジョウ(5)」に続く)