それからほんのわずかな時間でしたが、
立花先生を入れての釣りをしました。
テスト期間中に教師と生徒が一緒に釣りをするなど、
ほかの先生に見られたら何を言われるかわかったものではありません。
しかし、立花先生は人目を気にすることなく、
無邪気に楽しんでいる様子でした。
大人しそうな外見に反して、本当に外で遊ぶのが好きなのでしょう。
釣り竿を持つ姿も妙に様になっていて、
ポイントにエサを落とすのも難なくやってのけるのでした。
ぼくたちは先生のそばに座り、まるで教師のように指導します。
話すのは専らスズヤンでしたが、先生はぼくにも質問してきて、
言葉足らずに答えます。
夕日色に染まる釣り場と先生の横顔。
スズヤンと2人で釣り糸を垂らしていたときとは、
景色が全く違って見えるのでした。
ぼくが先生につい見とれていると、
不意に顔を向けて「どうしたの?」と小首を傾げます。
「なんでもない」と慌てて目をそらすぼくの顔は真っ赤になっていただろうし、
先生のクスクス笑う声に耳までが熱くなるのを感じるのでした。
結局その日、魚は一匹も釣れませんでした。
スズヤンの「入れ食い」の言葉に反して散々な結果です。
ただ、浮きはずっと沈黙を続けていたかというとそうではなく、
たった1度だけ反応しました。
魚も人を選んだのかもしれません。
先生の持つ竿の先、赤い玉浮きはピクピクと動き始めたのです。
「来たっ!」と、スズヤンはすかさず反応し、
教師さながらの顔に変わっていきました。
「オレがいいって言うまで上げちゃなんねえぞ」の言葉に、
「はい」と返事をする先生。
彼女の横顔も真剣そのもので、固唾を呑んで浮きを見守ります。
すると次の瞬間、玉浮きは一気に水の中へ引き込まれていきました。
「いまだ!」とスズヤンは叫びます。
「え、どうするの?」
「竿を上げて! 早く!」
先生は慌てて釣り糸を引き上げようとします。
ぼくたち3人は同時に立ち上がり、釣り糸の先を視線で追いかけます。
竿が大きくしなり、確かな手応えです。
おそらくこれが最後のチャンスに違いありません。
「早く! 早く!」と、ぼくも思わず声を上げていました。
ところが、あともう少しで魚が見えるというところで、
糸が切れたみたいに魚の引っ張る力が消えてしまったのです。
ドジョウがいなくなった釣り針が宙を舞います。
糸が切れたのではなく、針が魚から外れてしまったようでした。
大きくしなっていた竿は元に戻り、
引き上げられた赤い玉浮きが宙に揺れます。
一気に襲ってくる脱力感とため息。
「惜しかったね」とぼくが言おうとすると、
それより先に立花先生が口を開きます。
「あともうちょっとだったのに!」
“地団駄を踏む”というのはそのときの先生のことを言うのかもしれません。
心底悔しそうな表情で、両足を踏みならすのでした。
その音が、夕日色に染まった釣り場に響いていたのを覚えています。
その魚の引きを最後に、ぼくたちは釣りをやめることにしました。
日は沈み、どんどん暗くなっていく一方です。
「ねえ、あのドジョウはどうするの?」と、先生は最後にぼくたちに訊ねました。
それは思い出した感じではなく、
ずっと頭の片隅にあったような口調でした。
「どうするべ?」と、スズヤンはぼくの顔を見ます。
その日初めてドジョウを使ったぼくに答えられるはずもありません。
「いつもはどうしてるん?」
「逃がしてやるんさ」
「じゃあ、逃がすべ」
ぼくがそう言うと、先生は突然手で遮りました。
「逃がすんだったら私にくれないかしら?」
ぼくたちはキョトンとした顔で先生を見上げます。
「貰ってどうするん?」
「だって勿体ないじゃない」
「ドジョウが?」
そうよ、と先生は微笑みます。
ぼくとスズヤンは再び顔を見合わせました。
先生の言っていることがいまいち理解できません。
理科の教師ならともかく立花先生は国語です。
教材に使うわけではないでしょう。
結局、「ね、いいでしょ?」と先生のやや強引な口調に流される形で、
大量のドジョウが手渡されます。
袋の中でウネウネと動いていました。
「あとでやっぱり返すってのはなしだかんね」
スズヤンはやや警戒気味に言います。
先生は人さし指でドジョウをつつきながら、
「そんなことしないからだいじゅ」と、
初めて羽生弁で答えるのでした。
立花先生とはその場で別れました。
「明日学校でね」と言った彼女は再びフェンスを跳び越え、
来た道を戻っていきます。
ぼくたちはその姿が見えなくなるまで突っ立っていました。
テスト期間中に水上ゴルフ場でばったり会い、
一緒にゴルフと釣りをしてドジョウをお土産に去っていく先生。
その後ろ姿は学校で見るときとは全く違っているのでした。
まるで近所のお姉さんと遊んだような感覚です。
「おもしろい先生だな」とスズヤンは言います。
先生の姿が見えなくなったあと、ぼくたちは釣り具の片付けを始めました。
「人は見掛けによらないって本当だ」
「あのドジョウ、どうするんだんべ?」
「あの先生なら飼うんじゃねえ?」
「金魚みたいにか?」
片付けをしている間も、釣り場を出るときも、
ぼくたちの話題は先生のことばかりです。
それほどインパクトがあったのは確かでした。
「ぼっとすっと(もしかすると)先生はオレのことが好きなのかもしんねえよ」と、
しばらくしてスズヤンはそんなことを言い出します。
「なんでよ?」
「よく目が合っていたんだに。ずっとオレの顔見てるしさ」
「フナみたいな顔が珍しかったんじゃないん?」
「先生はああ見えて羽生育ちだがね。フナなんか珍しくないで」
「フナ似の人間はそうはいないだろうで」
「いや、あれはオレにホの字だな」
思いこみの激しさは中学生そのものだったと思います。
ぼくはそんな彼の言葉が面白くありません。
先生をとられてしまうような感覚に似ていました。
「目だったらオレもよく合ってた」とか、
「優しい目で見てた」などと、
こじつけに等しい言葉を返しても彼は聞く耳持たず、
ぼくが言葉を重ねるほど、自分に惚れているのだと思い込んでいくのでした。
そんな水上ゴルフ場で芽生えたスズヤンの恋は、
そのまま釣り場から真っ直ぐ家に帰っていれば続いていたかもしれません。
少なくとも、立花先生と一緒に釣りをしたという記憶で完結したはずです。
しかし、ぼくたちはその日もう1度先生を見掛けてしまうのです。
帰り道の途中、小さな料理屋で……
(「女先生とドジョウ(6)」に続く)
立花先生を入れての釣りをしました。
テスト期間中に教師と生徒が一緒に釣りをするなど、
ほかの先生に見られたら何を言われるかわかったものではありません。
しかし、立花先生は人目を気にすることなく、
無邪気に楽しんでいる様子でした。
大人しそうな外見に反して、本当に外で遊ぶのが好きなのでしょう。
釣り竿を持つ姿も妙に様になっていて、
ポイントにエサを落とすのも難なくやってのけるのでした。
ぼくたちは先生のそばに座り、まるで教師のように指導します。
話すのは専らスズヤンでしたが、先生はぼくにも質問してきて、
言葉足らずに答えます。
夕日色に染まる釣り場と先生の横顔。
スズヤンと2人で釣り糸を垂らしていたときとは、
景色が全く違って見えるのでした。
ぼくが先生につい見とれていると、
不意に顔を向けて「どうしたの?」と小首を傾げます。
「なんでもない」と慌てて目をそらすぼくの顔は真っ赤になっていただろうし、
先生のクスクス笑う声に耳までが熱くなるのを感じるのでした。
結局その日、魚は一匹も釣れませんでした。
スズヤンの「入れ食い」の言葉に反して散々な結果です。
ただ、浮きはずっと沈黙を続けていたかというとそうではなく、
たった1度だけ反応しました。
魚も人を選んだのかもしれません。
先生の持つ竿の先、赤い玉浮きはピクピクと動き始めたのです。
「来たっ!」と、スズヤンはすかさず反応し、
教師さながらの顔に変わっていきました。
「オレがいいって言うまで上げちゃなんねえぞ」の言葉に、
「はい」と返事をする先生。
彼女の横顔も真剣そのもので、固唾を呑んで浮きを見守ります。
すると次の瞬間、玉浮きは一気に水の中へ引き込まれていきました。
「いまだ!」とスズヤンは叫びます。
「え、どうするの?」
「竿を上げて! 早く!」
先生は慌てて釣り糸を引き上げようとします。
ぼくたち3人は同時に立ち上がり、釣り糸の先を視線で追いかけます。
竿が大きくしなり、確かな手応えです。
おそらくこれが最後のチャンスに違いありません。
「早く! 早く!」と、ぼくも思わず声を上げていました。
ところが、あともう少しで魚が見えるというところで、
糸が切れたみたいに魚の引っ張る力が消えてしまったのです。
ドジョウがいなくなった釣り針が宙を舞います。
糸が切れたのではなく、針が魚から外れてしまったようでした。
大きくしなっていた竿は元に戻り、
引き上げられた赤い玉浮きが宙に揺れます。
一気に襲ってくる脱力感とため息。
「惜しかったね」とぼくが言おうとすると、
それより先に立花先生が口を開きます。
「あともうちょっとだったのに!」
“地団駄を踏む”というのはそのときの先生のことを言うのかもしれません。
心底悔しそうな表情で、両足を踏みならすのでした。
その音が、夕日色に染まった釣り場に響いていたのを覚えています。
その魚の引きを最後に、ぼくたちは釣りをやめることにしました。
日は沈み、どんどん暗くなっていく一方です。
「ねえ、あのドジョウはどうするの?」と、先生は最後にぼくたちに訊ねました。
それは思い出した感じではなく、
ずっと頭の片隅にあったような口調でした。
「どうするべ?」と、スズヤンはぼくの顔を見ます。
その日初めてドジョウを使ったぼくに答えられるはずもありません。
「いつもはどうしてるん?」
「逃がしてやるんさ」
「じゃあ、逃がすべ」
ぼくがそう言うと、先生は突然手で遮りました。
「逃がすんだったら私にくれないかしら?」
ぼくたちはキョトンとした顔で先生を見上げます。
「貰ってどうするん?」
「だって勿体ないじゃない」
「ドジョウが?」
そうよ、と先生は微笑みます。
ぼくとスズヤンは再び顔を見合わせました。
先生の言っていることがいまいち理解できません。
理科の教師ならともかく立花先生は国語です。
教材に使うわけではないでしょう。
結局、「ね、いいでしょ?」と先生のやや強引な口調に流される形で、
大量のドジョウが手渡されます。
袋の中でウネウネと動いていました。
「あとでやっぱり返すってのはなしだかんね」
スズヤンはやや警戒気味に言います。
先生は人さし指でドジョウをつつきながら、
「そんなことしないからだいじゅ」と、
初めて羽生弁で答えるのでした。
立花先生とはその場で別れました。
「明日学校でね」と言った彼女は再びフェンスを跳び越え、
来た道を戻っていきます。
ぼくたちはその姿が見えなくなるまで突っ立っていました。
テスト期間中に水上ゴルフ場でばったり会い、
一緒にゴルフと釣りをしてドジョウをお土産に去っていく先生。
その後ろ姿は学校で見るときとは全く違っているのでした。
まるで近所のお姉さんと遊んだような感覚です。
「おもしろい先生だな」とスズヤンは言います。
先生の姿が見えなくなったあと、ぼくたちは釣り具の片付けを始めました。
「人は見掛けによらないって本当だ」
「あのドジョウ、どうするんだんべ?」
「あの先生なら飼うんじゃねえ?」
「金魚みたいにか?」
片付けをしている間も、釣り場を出るときも、
ぼくたちの話題は先生のことばかりです。
それほどインパクトがあったのは確かでした。
「ぼっとすっと(もしかすると)先生はオレのことが好きなのかもしんねえよ」と、
しばらくしてスズヤンはそんなことを言い出します。
「なんでよ?」
「よく目が合っていたんだに。ずっとオレの顔見てるしさ」
「フナみたいな顔が珍しかったんじゃないん?」
「先生はああ見えて羽生育ちだがね。フナなんか珍しくないで」
「フナ似の人間はそうはいないだろうで」
「いや、あれはオレにホの字だな」
思いこみの激しさは中学生そのものだったと思います。
ぼくはそんな彼の言葉が面白くありません。
先生をとられてしまうような感覚に似ていました。
「目だったらオレもよく合ってた」とか、
「優しい目で見てた」などと、
こじつけに等しい言葉を返しても彼は聞く耳持たず、
ぼくが言葉を重ねるほど、自分に惚れているのだと思い込んでいくのでした。
そんな水上ゴルフ場で芽生えたスズヤンの恋は、
そのまま釣り場から真っ直ぐ家に帰っていれば続いていたかもしれません。
少なくとも、立花先生と一緒に釣りをしたという記憶で完結したはずです。
しかし、ぼくたちはその日もう1度先生を見掛けてしまうのです。
帰り道の途中、小さな料理屋で……
(「女先生とドジョウ(6)」に続く)