ところが釣り糸を垂らし、
どんなに待っても一向に釣れる気配はありませんでした。
赤い玉浮きはピクリとも動かず、魚影すら見えません。
「入れ食いじゃないんかい?」
と、ぼくはスズヤンに文句を言います。
「おかしいなぁ。この前はよく釣れたんだに」
彼は首を傾げました。
何度かポイントを変え、エサを付け替えるのですが、
玉浮きは沈黙を続けます。
「本当に魚がいるん?」
「そりゃいるさ。ほかに釣っている人もいたったんだに」
そうは言っても、釣れないものは釣れないのです。
ぼくは粘り強く釣り糸を垂らし続けましたが、
玉浮きはときどき波立つ水面にユラユラ揺られるだけで、
引くことはありませんでした。
エサのドジョウも無傷のままぐったりしています。
釣りは短気な人が向いているとよく言います。
ぼくにその自覚はありませんが依怙地になるのは否めなく、
一匹釣るまでは帰らないと、だんだん意地になっていきました。
浮きの深さを変え、ほんの少しポイントをずらします。
もしそこで諦めて、家でテスト勉強をしていたら、
散々な点数を取ることはなかったかもしれません。
しかし、ぼくは釣り竿を握りしめ、長期戦に突入してしまうのでした。
やがて日は傾き、西日が水面に反射しました。
魚は一匹も釣れないままです。
そんなぼくたちを嘲笑うかのように鯉らしき魚が何度か跳びはねましたが、
玉浮きはやはり動く気配はありません。
「なあ、ゴルフ場でジュース買ってこねえ?」
スズヤンがそう言ったのは、その日の見切りをつけたからだと思います。
立ち上がって大きく背伸びをしたあと、尻をはたきました。
ぼくも釣り竿をそのままにして立ち上がります。
関節が鳴り、ずっと長い間座っていたせいか尻が痛みます。
「じゃあ、行ぐべ」
ぼくたちは再びフェンスによじ登り、ゴルフ場まで歩いていきました。
わきの狭い道は舗装されておらず、
ぼくたちが釣りをはじめてから誰一人として通らなかった道です。
すぐそばのゴミ焼却場の煙突からは、相変わらず白い煙が立ち上り、
やや東へたなびいていました。
スズヤンは堂々とゴルフ場のドアを開け、中に入っていきます。
そして勝手知ったる様子で自動販売機まで行くと、
悩む間もなくファンタグレープを買うのでした。
ぼくもそのあとに続き、ひと通り品を見てからお金を投入します。
そして、ファンタオレンジのボタンを押そうとしたとき、
突然背後から聞き覚えのある声がしました。
「あなたたち、こんなところで何やってるの」
スズヤンは飲んでいたファンタを吹きこぼしました。
ぼくは恐る恐る後ろを振り返ります。
するとそこには、つい数時間前に学校で会ったばかりの立花先生が立っていました。
「せ、先生」
「いま、テスト期間中でしょう。どうしてここにいるの?」
立花先生はぼくとスズヤンを交互に見ながら言います。
しかし、怒っている様子ではなく、その目元は笑っていました。
「先生こそこんなところで何やってるん?」
スズヤンは口の周りのファンタを拭います。
「打ちっ放しに来たのよ」
「ゴルフやるんかい?」
「たまにね」
立花先生はそう言って微笑みました。
漫画ならば、背後で花が咲き乱れるような笑顔です。
先生はその年に大学を卒業したばかりの新人教師でした。
色白で髪は長く、知的で艶っぽい雰囲気を漂わす彼女は、
当然のごとく男子生徒の人気の的でした。
中学生のぼくたちにとって立花先生はとても大人の女に見えましたし、
それに彼女は当時人気を博していた清純派女優に似ているとの噂が立つほど、
美人先生だったのです。
「あなたたちも打ちっ放しに来たの?」
先生は耳をくすぐるような声でそう言います。
「ううん、釣りしにきたんだ」
「釣り?」
先生は小首を傾げました。
長い黒髪がサラサラと流れ、柔らかくていい匂いが鼻先を掠めます。
「ここでずっと釣りしてたの?」
「この場所じゃあ怒られるがね。ゴルフ場の端っこだよ」
「何が釣れるの?」
「ブラックバス」
「へえ、お魚がいるんだ。今日は釣れた?」
「全然駄目。ちっとも釣れねえんだに」
スズヤンは少し照れくさそうに言いました。
その顔は心なしか赤くなっています。
彼もまた立花先生に憧れる男子生徒のひとりでした。
すると先生は突然ぼくに顔を向けました。
「テスト勉強はしなくて大丈夫なの?」
ぼくは脈拍がどんどん上がっていくのを感じます。
先生とまともに顔を合わせたのは初めてのことでした。
しかもそこは学校の外。
ぼくの頬はみるみる赤くなっていったと思います。
「だ、だいじゅぶです」
「ずいぶん余裕ね。明日は国語よ」
「国語、大好きです」
先生はクスクス笑いました。
彼女が担当している教科は国語でした。
男子生徒の間で国語の授業が一番人気だったことは言うまでもありません。
国語テストのクラス平均点数がほかの教科より上だったのは、
先生の影響のほかならないでしょう。
「先生はいつからここに居たったん?」と、スズヤンが訊きます。
彼女の視線がぼくから離れます。
その途端ぼくは金縛りが解けたみたいに、ようやく息をつけるのでした。
「いま来たばかりよ」
「よくここには来るんかい?」
「嫌なことがあったら打ちにくるの」
「それでストレス解消になるん?」
「気持ちいいわよ。あなたも打ってみる?」
そのとき自動販売機からお金が落ちる音がしました。
いつまでもボタンを押さずにいたからお金が戻ってしまったようです。
「うん、打つ打つ。前からやってみたかったんだ」
スズヤンは途端に目を輝かせました。
先生は可笑しそうに微笑み、再びぼくを見ました。
「あなたも打ってごらんなさい。すごく気持ちいいから」
彼女の声は官能的に響き、ぼくはボーッとしてしまうのでした。
先生に促され、スズヤンはクラブを持ちます。
そして彼女の言うとおりにゴルフボールを見つめ、
不器用な格好でスイングしました。
鈍い音と共にボールは力なく飛んでいき、
ぼくたちから近い水の上へ落ちていきました。
「ね、気持ちいいでしょう?」
先生はそう言います。
「もう1回打っていい?」
「いいわよ。好きなだけ打って」
スズヤンは続けざまにフルスイングします。
しかし、ゴルフボールは鈍い魚のようにひょろひょろ飛んでいくだけで、
飛距離は全く伸びないのでした。
「そうだ、嫌いな人のことを思って打ってごらん。意外と遠くまで飛ぶかもしれないわよ」
先生はそうアドバイスをします。
「嫌いな人?」
「嫌なことでもいいの。例えば明日のテストとか……」
スズヤンは少し考えてからスイングします。
しかし、やはりボールはすぐ手前に落ちてしまうのでした。
「手本見せてよ」と、スズヤンは先生にクラブを渡します。
立花先生とクラブ。
その組み合わせは違和感の何ものでもありませんでした。
立花先生と言えば運動が苦手で、部屋で静かに本を読んでいるイメージです。
まさか水上ゴルフ場にいるなんて誰も知らないだろうし、想像もしていないでしょう。
例えばこう思って打つの、と先生は言います。
「へえ、どんな?」
「あのハゲ教頭、あたしをエロい目で見てんじゃねぇ!」
目の覚めるような語気に、神がかり的なスイング。
乾いた音が一瞬響いたかと思うと、
ゴルフボールはあっと言う間に遠くへ飛んでいってしまいました。
「どう?」
ぼくは口を半開きにして先生を見ます。
一瞬何が起こったのかわかりませんでした。
ハゲ教頭? エロい目……?
そのときぼくたちは、2人揃って間の抜けた顔をしていたと思います。
「教頭先生ってエロいの?」と、スズヤンは訊ねました。
落ち武者のように髪が薄く、脂ぎった教頭先生の顔が思い浮かびます。
「私が言ったって内緒よ」
先生はいつもの口調に戻り、花のように微笑むのでした。
(「女先生とドジョウ(3)」に続く)
どんなに待っても一向に釣れる気配はありませんでした。
赤い玉浮きはピクリとも動かず、魚影すら見えません。
「入れ食いじゃないんかい?」
と、ぼくはスズヤンに文句を言います。
「おかしいなぁ。この前はよく釣れたんだに」
彼は首を傾げました。
何度かポイントを変え、エサを付け替えるのですが、
玉浮きは沈黙を続けます。
「本当に魚がいるん?」
「そりゃいるさ。ほかに釣っている人もいたったんだに」
そうは言っても、釣れないものは釣れないのです。
ぼくは粘り強く釣り糸を垂らし続けましたが、
玉浮きはときどき波立つ水面にユラユラ揺られるだけで、
引くことはありませんでした。
エサのドジョウも無傷のままぐったりしています。
釣りは短気な人が向いているとよく言います。
ぼくにその自覚はありませんが依怙地になるのは否めなく、
一匹釣るまでは帰らないと、だんだん意地になっていきました。
浮きの深さを変え、ほんの少しポイントをずらします。
もしそこで諦めて、家でテスト勉強をしていたら、
散々な点数を取ることはなかったかもしれません。
しかし、ぼくは釣り竿を握りしめ、長期戦に突入してしまうのでした。
やがて日は傾き、西日が水面に反射しました。
魚は一匹も釣れないままです。
そんなぼくたちを嘲笑うかのように鯉らしき魚が何度か跳びはねましたが、
玉浮きはやはり動く気配はありません。
「なあ、ゴルフ場でジュース買ってこねえ?」
スズヤンがそう言ったのは、その日の見切りをつけたからだと思います。
立ち上がって大きく背伸びをしたあと、尻をはたきました。
ぼくも釣り竿をそのままにして立ち上がります。
関節が鳴り、ずっと長い間座っていたせいか尻が痛みます。
「じゃあ、行ぐべ」
ぼくたちは再びフェンスによじ登り、ゴルフ場まで歩いていきました。
わきの狭い道は舗装されておらず、
ぼくたちが釣りをはじめてから誰一人として通らなかった道です。
すぐそばのゴミ焼却場の煙突からは、相変わらず白い煙が立ち上り、
やや東へたなびいていました。
スズヤンは堂々とゴルフ場のドアを開け、中に入っていきます。
そして勝手知ったる様子で自動販売機まで行くと、
悩む間もなくファンタグレープを買うのでした。
ぼくもそのあとに続き、ひと通り品を見てからお金を投入します。
そして、ファンタオレンジのボタンを押そうとしたとき、
突然背後から聞き覚えのある声がしました。
「あなたたち、こんなところで何やってるの」
スズヤンは飲んでいたファンタを吹きこぼしました。
ぼくは恐る恐る後ろを振り返ります。
するとそこには、つい数時間前に学校で会ったばかりの立花先生が立っていました。
「せ、先生」
「いま、テスト期間中でしょう。どうしてここにいるの?」
立花先生はぼくとスズヤンを交互に見ながら言います。
しかし、怒っている様子ではなく、その目元は笑っていました。
「先生こそこんなところで何やってるん?」
スズヤンは口の周りのファンタを拭います。
「打ちっ放しに来たのよ」
「ゴルフやるんかい?」
「たまにね」
立花先生はそう言って微笑みました。
漫画ならば、背後で花が咲き乱れるような笑顔です。
先生はその年に大学を卒業したばかりの新人教師でした。
色白で髪は長く、知的で艶っぽい雰囲気を漂わす彼女は、
当然のごとく男子生徒の人気の的でした。
中学生のぼくたちにとって立花先生はとても大人の女に見えましたし、
それに彼女は当時人気を博していた清純派女優に似ているとの噂が立つほど、
美人先生だったのです。
「あなたたちも打ちっ放しに来たの?」
先生は耳をくすぐるような声でそう言います。
「ううん、釣りしにきたんだ」
「釣り?」
先生は小首を傾げました。
長い黒髪がサラサラと流れ、柔らかくていい匂いが鼻先を掠めます。
「ここでずっと釣りしてたの?」
「この場所じゃあ怒られるがね。ゴルフ場の端っこだよ」
「何が釣れるの?」
「ブラックバス」
「へえ、お魚がいるんだ。今日は釣れた?」
「全然駄目。ちっとも釣れねえんだに」
スズヤンは少し照れくさそうに言いました。
その顔は心なしか赤くなっています。
彼もまた立花先生に憧れる男子生徒のひとりでした。
すると先生は突然ぼくに顔を向けました。
「テスト勉強はしなくて大丈夫なの?」
ぼくは脈拍がどんどん上がっていくのを感じます。
先生とまともに顔を合わせたのは初めてのことでした。
しかもそこは学校の外。
ぼくの頬はみるみる赤くなっていったと思います。
「だ、だいじゅぶです」
「ずいぶん余裕ね。明日は国語よ」
「国語、大好きです」
先生はクスクス笑いました。
彼女が担当している教科は国語でした。
男子生徒の間で国語の授業が一番人気だったことは言うまでもありません。
国語テストのクラス平均点数がほかの教科より上だったのは、
先生の影響のほかならないでしょう。
「先生はいつからここに居たったん?」と、スズヤンが訊きます。
彼女の視線がぼくから離れます。
その途端ぼくは金縛りが解けたみたいに、ようやく息をつけるのでした。
「いま来たばかりよ」
「よくここには来るんかい?」
「嫌なことがあったら打ちにくるの」
「それでストレス解消になるん?」
「気持ちいいわよ。あなたも打ってみる?」
そのとき自動販売機からお金が落ちる音がしました。
いつまでもボタンを押さずにいたからお金が戻ってしまったようです。
「うん、打つ打つ。前からやってみたかったんだ」
スズヤンは途端に目を輝かせました。
先生は可笑しそうに微笑み、再びぼくを見ました。
「あなたも打ってごらんなさい。すごく気持ちいいから」
彼女の声は官能的に響き、ぼくはボーッとしてしまうのでした。
先生に促され、スズヤンはクラブを持ちます。
そして彼女の言うとおりにゴルフボールを見つめ、
不器用な格好でスイングしました。
鈍い音と共にボールは力なく飛んでいき、
ぼくたちから近い水の上へ落ちていきました。
「ね、気持ちいいでしょう?」
先生はそう言います。
「もう1回打っていい?」
「いいわよ。好きなだけ打って」
スズヤンは続けざまにフルスイングします。
しかし、ゴルフボールは鈍い魚のようにひょろひょろ飛んでいくだけで、
飛距離は全く伸びないのでした。
「そうだ、嫌いな人のことを思って打ってごらん。意外と遠くまで飛ぶかもしれないわよ」
先生はそうアドバイスをします。
「嫌いな人?」
「嫌なことでもいいの。例えば明日のテストとか……」
スズヤンは少し考えてからスイングします。
しかし、やはりボールはすぐ手前に落ちてしまうのでした。
「手本見せてよ」と、スズヤンは先生にクラブを渡します。
立花先生とクラブ。
その組み合わせは違和感の何ものでもありませんでした。
立花先生と言えば運動が苦手で、部屋で静かに本を読んでいるイメージです。
まさか水上ゴルフ場にいるなんて誰も知らないだろうし、想像もしていないでしょう。
例えばこう思って打つの、と先生は言います。
「へえ、どんな?」
「あのハゲ教頭、あたしをエロい目で見てんじゃねぇ!」
目の覚めるような語気に、神がかり的なスイング。
乾いた音が一瞬響いたかと思うと、
ゴルフボールはあっと言う間に遠くへ飛んでいってしまいました。
「どう?」
ぼくは口を半開きにして先生を見ます。
一瞬何が起こったのかわかりませんでした。
ハゲ教頭? エロい目……?
そのときぼくたちは、2人揃って間の抜けた顔をしていたと思います。
「教頭先生ってエロいの?」と、スズヤンは訊ねました。
落ち武者のように髪が薄く、脂ぎった教頭先生の顔が思い浮かびます。
「私が言ったって内緒よ」
先生はいつもの口調に戻り、花のように微笑むのでした。
(「女先生とドジョウ(3)」に続く)