お屠蘇気分が抜けなくて、松花堂弁当みたいな花を遊んでみました。
おつまみか、お重みたいでしょ。
何事も
する気がなくて
寝正月
そんな感じ。
A(^_^;
いや、無気力というのではないのだ。
ただただのんべんだらりんと、正月を過ごしてしまった。
冬の日は良い。
キリリとして気持ちが良い。
勤勉だけが取り柄なら蟻と変わるところがない。
なんのためにせっせと働くかが問題だ。
ヘンリー・デイビッド・ソロー
散歩の道すがら冬の花を眺め、庭に遊ぶ鳥を眺め、流れる雲を眺め、白い日差しを浴び、凛とした寒気を呼吸する。
心の休息、ですね。
ところで、上の句、一茶にそんなのがあったと思うのだけれど、見つけられない。
一 茶 発 句 全 集って所で4句見つかったけれど、子どもの頃から聞かされてきたこの句は、紹介されてなかったなぁ。
ま、いいけど。
ちなみに、こんなのが出てました。
霞む日も寝正月かよ山の家
正月を寝てしまひけり山の家
正月を寝て見る梅でありしよな
正月やごろりと寝たるとつとき着
最後の句が良くわからなくて、もう一度検索してみる。
あった。
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正月やごろりと寝たるとつとき着
(しやうぐわつや ごろりとねたる とつときぎ)
とっとき(とっておき)の、よそ行きの着物だけど・・・まあいいか 。(1768)
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なるほど、なかなか良いね。
それにしても、冬の日差しの白いこと。
「影白し」と言う、冬の季語の美しさ。
物陰も人影も、儚げに白い。
街角のすべてが、パントマイムを演じている。
そんな、現実感に乏しい光。
と、不意に、現実が虚構の世界に滑り落ちてしまった。
いつの間にか、僕は懐中時計をぶら下げたせわしげな兎に変身して、場末のアリスを追いかけている。
世間は、なぜだか、寺山修司の状況劇場へと変質してしまっていた。
現実というのは、どうしてまたこうも、非現実的展開を臆面もなく繰り広げるのだろう?
フィクションの方が、遙かにリアリティーというものを保ち続けて居るではないか。
ついでに言わせてもらうと、ウィキペディアの記述ってのは、どうしてまたこうも寒~いのが多いんだろうねぇ。書いてはいけないような技量のない人に限って書きたがるというのが、世間の常という物なのかしらん?>ぼかっ!
A(^_^;
まぁね、どれもこれも書きかけなんだろうから、手を出す気にもなれない僕みたいな人間がとやかく言うべきでは無いのだけれど、過度に重宝がったり鵜呑みにするのはアホよね。
とは言え、1月にもなってまだ青々としている街中のプラタナスなんか見ると、虚構も現実も、再びその輪郭が曖昧になってしまうのだった。
歩いていると汗ばんできて、コートなんか羽織っていられない。
冬は、いったい都会の冬はいつになったらホントにやってくるのか?
そんなことは、もうイイ。
今日は初仕事をしてきたのだった。
新たしき年の、「水」のほとばしり。
「水」に見えるかな?
もちろん、それは隠されたイメージなのだけれど。
メインを紅白の水引に付け替えてきたのだ。
眠い。
「血は立ったまま眠っている」
そんな気分だ。
赤い水引の束の垂直性を調整しながら、そんなフレーズを思い出していた。
あのころのみんなは、どうしてるのかなぁ?
タリさんとかシーザーさんとか、懐かしいなぁ。
きっともう忘れられてるよなぁ......。
まぁ、いいか。
ひとしきり仕事を終えて、コーヒーブレイク。
またもや視界の端を、都会のアリスが駆け抜けていったけれど、もうそんなことはどうでも良かった。
眠い。
そしていつの間にか、血は立ったまま眠っているのだから。
一本の
樹にも
流れている血がある
こゝでは血は
立ったまま眠っている
寺山修司
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