その昔、大学の真正面にあったロイホ~で、遅めのランチをとっていたときのことを不意に思い出した。
それは、次第に客もまばらになる日曜日の昼下がりのこと。
隣のボックスに腰を据えたおばさま連中、いわゆる世田谷婦人。
その中の一人の身綺麗な年増が、僕の方を見ながらはっきりと聞こえるように言ったのを。
「この頃、そそる男が居ないのよねぇ......」
あの、そう言う感想を独りごちるのは結構なんですが、けだるそうにアスパラガスを唇でもてあそびながら言うのはやめて欲しいのだ。
あの映画、「日曜日はダメよ」の台詞を連想してしまうではないか。
「アンタ達、男なの?羊なの?」
ヒロインの娼婦・イリヤ(メリナ・メルクーリ)が冒頭でパッと全裸になって海に飛び込み、水兵を挑発する。
いや、そう言う台詞は、メリナ・メルクーリだから良いのであって、あ~た、「団地妻 隣のあえぎ」がやっとな感じのおばはんに「そそる男が居ない」言われてもねぇ、挑発にもなりゃしない。
ましてアタイはホモなんだし、気色ばむはずもない。
「アタシは羊。よくって?」
自信たっぷりに、そう答えてあげたいくらいだったりする。
あ、そんな話しではないのだ。
A(^_^;
この頃、ホント、日曜はダメダメよって思うのだ。
先日も、コンサートに行ってきたのだけれど、日曜日の街の人混みはウイークデーのそれとはまた違った、独特の鬱陶しさがあるのだ。
何という無統率、理不尽、不条理、無目的、烏合の衆を地獄の釜に放り込んでかき回したら、きっとこんなカオスが立ち現れるんだろうと思わせる人混み。
一体どんな地の底から、このおびただしい阿呆の群れは湧いて出てくるのかと眉をひそめたくなる。
が、しかし、僕自身もその一人だ。
避けた方避けた方によろけてくるアホ。
混雑の路上で円陣を組み、迷惑そうにすり抜ける人に「やだちょっと、ありえなくなぁ~い?変な人ぉ~!」とか罵倒の言葉を浴びせかけるバカ女ども。
雑踏の真ん中でやおら立ち止まり、携帯メールを打ち始めるタワケ。
避けてもぶつかっていくトンチキ。
女王様然とかまえて道を譲らぬブス。
歩きづらいこと、この上ない。
ウイークデーの一種整然とした人の歩みとは、やはり明らかに異質な構成員から成っていると思わざるを得ない。
我慢することも大切なんだ。
我慢を失ったら、世界はカオスだ。
映画「サイモン・バーチ」より
我慢できる人間は、我慢しない人を避けて歩くしかない。
そんな雑踏を、ロールプレイングのようにすり抜ける。
こんな時にぴったりのバックミュージックは、チャイコフスキーの「悲愴」の3楽章。
あのやけっぱちで狂騒的なスケルツォ。
A(^_^;
そう、実は、「悲愴」を聞きに行ってきたのだった。
いや、正確に言うと、マーラーの9番を聞きに行くはずだったのだ。
9番がどんな曲かって?
ちょっと引用してみようかな。
以下抜粋
*****************
シェーンベルク曰く
「彼の≪第9番≫はきわめて異例です。そこでは作曲者はほとんどもはや発言の主体ではありません。まるでこの作品にはもう一人の隠れた作曲者がいて、マーラーを単にメガフォンとして使っているとしか思えないほどです。この作品がもたらすものは、動物的な温もりを断念することができ、精神的な冷気のなかで快感を覚えるような人間のもとにしかみられない美についての、いわば客観的な、ほとんど情熱というものを欠いた証言です。…≪第9番≫はひとつの限界であるように思われます。そこを越えようとする者は、死ぬ他はないのす。」(酒田健一訳:『マーラー頌』)
*****************
そう、天界からマーラーのところへ舞い降りてきた音楽を彼が書き留めた、そんな風情の曲。
ところが、予定していた指揮者が倒れ、急遽差し替えられた曲が、なんと「悲愴」だというのだ。
何というひどい話し。
辞世の句を差し替えられたような出来事だ。
限りなく浄化されていく辞世の歌を聴きに行くはずが、ヒステリックなドラマクイーンの愁嘆場につきあわされる羽目になった。
全く救いの無い曲。
せめて、ブルックナーの9番にして欲しかった。
あれだったら、十分すぎるほど魂の救済を堪能できるのに。
Adagio:Langsam, feierlich
ブルックナーのこの旋律の冒頭は、あのワーグナーの「愛の死」の断末魔に始まるけれど、苦しみととまどいの中で、しかし着実に天の高みを目指す。
何と、2オクターブ半の音域を、ゆっくりとした足取りで上り詰めていくのだ。
日曜日の客層が、ひときわマナーに問題があるってな話しは、前にもちょっと書いた。
悪魔の日曜日。
いつもは運転しない人が車に乗り、「あらまぁ事故」を起こす日。
至る所で、悪ガキが放し飼いにされる日。
コンサート会場だって例外ではないのだよね。
墓穴からはい出してくるような「悲愴」の陰惨な出だし。
切ない憧れのメロディーも、ヒステリックなむずかりの前では色を失う。
2楽章の、悪酔いするワルツ。
そして、3楽章のやけっぱちな行進曲。
老練な指揮者は、ホントに心憎いほどこの曲の嫌な側面を強調する。
もう不気味なほどの狂騒状態まで、オーケストラを駆り立てる。
そして、息詰まる沈黙。
と、客席前列中央に陣取った数人から盛大なる拍手が。
緊張の糸は、カンダタのぶら下がる蜘蛛の糸よろしく、プツリと切れてしまった。
無知の暴力。
老練な指揮者は、おもむろに客席を見回し、なだめるように手をひらひらさせ、オーケストラへと振り向きざまに、4楽章のあの身も氷る弦の響きを引きずり出した。
えぇ、お客様、これはアンコールではないのことよ。
いままでの人生が如何に嘘っぱちなものだったかを、いまわの際に気がついた人間の嘆きだ。
オーケストラは、絶望の中でヒステリックに燃えさかり、やがてまた地の底へと引きずり込まれて消えてしまう。
安部公房の読後感よりも最悪。
ただ、今回、ちょっとした人の悪い楽しみもあった。
僕の隣に座ったやつが、いかにもな音楽オタクで、僕がちょっとでも身じろぎしようなら、舌打ちしそうな勢いで睨みつけてくる。
あら、完璧主義者でいらっしゃるのね?
でしたら、このホールを貸し切ればよろしいのに。
日曜日にあかじみた黒いスーツを着て、ベートーベンよろしくぼさぼさの髪。
襟元から肩にかけて、フケのトッピング。
考える人のまねをして、しかめっ面で聞いている。
世界中の受難を、彼が一手に引き受けているとでも言いたげだ。
......あぁ、鬱陶しい。
が、この完璧君のテンションも、間抜けな拍手と共にぷっつり切れたらしい。
目に見えて自堕落な風情にと転落した。
あはは、ざま~みさらせ。
僕もまた、あの誰よりも早く拍手したいという自己顕示欲丸出しな連中の失態のおかげで、
耐え難い程まで高まっていた音楽的緊張が打ち破られて、一番救いのない終楽章も何とか聞くことが出来た。
帰りの地下鉄のドア口に、そこが先祖伝来の土地だと言わんばかりに死守して、人の出入りを妨げるバカがいた。
と、僕の頭の中で、あのほほ笑ましくもお気楽な曲、「日曜日はダメよ」の主題歌が鳴り始めた。
誰が歌ってたんだっけ?
誰だっけ?
ダリダ?
そうだ、ダリダ!
あぁ~ん、ホントに日曜日はダメよ。
ダメダメでホントに素敵。
それは、次第に客もまばらになる日曜日の昼下がりのこと。
隣のボックスに腰を据えたおばさま連中、いわゆる世田谷婦人。
その中の一人の身綺麗な年増が、僕の方を見ながらはっきりと聞こえるように言ったのを。
「この頃、そそる男が居ないのよねぇ......」
あの、そう言う感想を独りごちるのは結構なんですが、けだるそうにアスパラガスを唇でもてあそびながら言うのはやめて欲しいのだ。
あの映画、「日曜日はダメよ」の台詞を連想してしまうではないか。
「アンタ達、男なの?羊なの?」
ヒロインの娼婦・イリヤ(メリナ・メルクーリ)が冒頭でパッと全裸になって海に飛び込み、水兵を挑発する。
いや、そう言う台詞は、メリナ・メルクーリだから良いのであって、あ~た、「団地妻 隣のあえぎ」がやっとな感じのおばはんに「そそる男が居ない」言われてもねぇ、挑発にもなりゃしない。
ましてアタイはホモなんだし、気色ばむはずもない。
「アタシは羊。よくって?」
自信たっぷりに、そう答えてあげたいくらいだったりする。
あ、そんな話しではないのだ。
A(^_^;
この頃、ホント、日曜はダメダメよって思うのだ。
先日も、コンサートに行ってきたのだけれど、日曜日の街の人混みはウイークデーのそれとはまた違った、独特の鬱陶しさがあるのだ。
何という無統率、理不尽、不条理、無目的、烏合の衆を地獄の釜に放り込んでかき回したら、きっとこんなカオスが立ち現れるんだろうと思わせる人混み。
一体どんな地の底から、このおびただしい阿呆の群れは湧いて出てくるのかと眉をひそめたくなる。
が、しかし、僕自身もその一人だ。
避けた方避けた方によろけてくるアホ。
混雑の路上で円陣を組み、迷惑そうにすり抜ける人に「やだちょっと、ありえなくなぁ~い?変な人ぉ~!」とか罵倒の言葉を浴びせかけるバカ女ども。
雑踏の真ん中でやおら立ち止まり、携帯メールを打ち始めるタワケ。
避けてもぶつかっていくトンチキ。
女王様然とかまえて道を譲らぬブス。
歩きづらいこと、この上ない。
ウイークデーの一種整然とした人の歩みとは、やはり明らかに異質な構成員から成っていると思わざるを得ない。
我慢することも大切なんだ。
我慢を失ったら、世界はカオスだ。
映画「サイモン・バーチ」より
我慢できる人間は、我慢しない人を避けて歩くしかない。
そんな雑踏を、ロールプレイングのようにすり抜ける。
こんな時にぴったりのバックミュージックは、チャイコフスキーの「悲愴」の3楽章。
あのやけっぱちで狂騒的なスケルツォ。
A(^_^;
そう、実は、「悲愴」を聞きに行ってきたのだった。
いや、正確に言うと、マーラーの9番を聞きに行くはずだったのだ。
9番がどんな曲かって?
ちょっと引用してみようかな。
以下抜粋
*****************
シェーンベルク曰く
「彼の≪第9番≫はきわめて異例です。そこでは作曲者はほとんどもはや発言の主体ではありません。まるでこの作品にはもう一人の隠れた作曲者がいて、マーラーを単にメガフォンとして使っているとしか思えないほどです。この作品がもたらすものは、動物的な温もりを断念することができ、精神的な冷気のなかで快感を覚えるような人間のもとにしかみられない美についての、いわば客観的な、ほとんど情熱というものを欠いた証言です。…≪第9番≫はひとつの限界であるように思われます。そこを越えようとする者は、死ぬ他はないのす。」(酒田健一訳:『マーラー頌』)
*****************
そう、天界からマーラーのところへ舞い降りてきた音楽を彼が書き留めた、そんな風情の曲。
ところが、予定していた指揮者が倒れ、急遽差し替えられた曲が、なんと「悲愴」だというのだ。
何というひどい話し。
辞世の句を差し替えられたような出来事だ。
限りなく浄化されていく辞世の歌を聴きに行くはずが、ヒステリックなドラマクイーンの愁嘆場につきあわされる羽目になった。
全く救いの無い曲。
せめて、ブルックナーの9番にして欲しかった。
あれだったら、十分すぎるほど魂の救済を堪能できるのに。
Adagio:Langsam, feierlich
ブルックナーのこの旋律の冒頭は、あのワーグナーの「愛の死」の断末魔に始まるけれど、苦しみととまどいの中で、しかし着実に天の高みを目指す。
何と、2オクターブ半の音域を、ゆっくりとした足取りで上り詰めていくのだ。
日曜日の客層が、ひときわマナーに問題があるってな話しは、前にもちょっと書いた。
悪魔の日曜日。
いつもは運転しない人が車に乗り、「あらまぁ事故」を起こす日。
至る所で、悪ガキが放し飼いにされる日。
コンサート会場だって例外ではないのだよね。
墓穴からはい出してくるような「悲愴」の陰惨な出だし。
切ない憧れのメロディーも、ヒステリックなむずかりの前では色を失う。
2楽章の、悪酔いするワルツ。
そして、3楽章のやけっぱちな行進曲。
老練な指揮者は、ホントに心憎いほどこの曲の嫌な側面を強調する。
もう不気味なほどの狂騒状態まで、オーケストラを駆り立てる。
そして、息詰まる沈黙。
と、客席前列中央に陣取った数人から盛大なる拍手が。
緊張の糸は、カンダタのぶら下がる蜘蛛の糸よろしく、プツリと切れてしまった。
無知の暴力。
老練な指揮者は、おもむろに客席を見回し、なだめるように手をひらひらさせ、オーケストラへと振り向きざまに、4楽章のあの身も氷る弦の響きを引きずり出した。
えぇ、お客様、これはアンコールではないのことよ。
いままでの人生が如何に嘘っぱちなものだったかを、いまわの際に気がついた人間の嘆きだ。
オーケストラは、絶望の中でヒステリックに燃えさかり、やがてまた地の底へと引きずり込まれて消えてしまう。
安部公房の読後感よりも最悪。
ただ、今回、ちょっとした人の悪い楽しみもあった。
僕の隣に座ったやつが、いかにもな音楽オタクで、僕がちょっとでも身じろぎしようなら、舌打ちしそうな勢いで睨みつけてくる。
あら、完璧主義者でいらっしゃるのね?
でしたら、このホールを貸し切ればよろしいのに。
日曜日にあかじみた黒いスーツを着て、ベートーベンよろしくぼさぼさの髪。
襟元から肩にかけて、フケのトッピング。
考える人のまねをして、しかめっ面で聞いている。
世界中の受難を、彼が一手に引き受けているとでも言いたげだ。
......あぁ、鬱陶しい。
が、この完璧君のテンションも、間抜けな拍手と共にぷっつり切れたらしい。
目に見えて自堕落な風情にと転落した。
あはは、ざま~みさらせ。
僕もまた、あの誰よりも早く拍手したいという自己顕示欲丸出しな連中の失態のおかげで、
耐え難い程まで高まっていた音楽的緊張が打ち破られて、一番救いのない終楽章も何とか聞くことが出来た。
帰りの地下鉄のドア口に、そこが先祖伝来の土地だと言わんばかりに死守して、人の出入りを妨げるバカがいた。
と、僕の頭の中で、あのほほ笑ましくもお気楽な曲、「日曜日はダメよ」の主題歌が鳴り始めた。
誰が歌ってたんだっけ?
誰だっけ?
ダリダ?
そうだ、ダリダ!
あぁ~ん、ホントに日曜日はダメよ。
ダメダメでホントに素敵。
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