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名所江戸百景116 第47景 昌平橋聖堂神田川 お茶の水の秋

2013-12-04 12:25:55 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、千代田区と文京区の間を流れるお茶の水(おちゃのみず)付近の話です。前回からの神田川や神田上水の話の続きにもなります。偶然にも、JRお茶の水駅に行く時があり、近くにある水道資料館にも寄りましたので、そちらの写真も載せておきます。ここの黄葉は遅く、今年・平成26年も11/16現在で、やっと神田川沿いが紅葉し始めた感じです。
 下の写真は、JRお茶の水駅と神田川です。
(絵画調)

 この付近の神田川は深い谷になっていて、崖の途中から地下鉄・丸の内線(まるのうちせん)が地中からいきなり外に出て、神田川を渡る風景が現代の風景になっています。
 神田川の奥には、JR総武線の橋が見えています。この部分を拡大したのが、下の写真です。
 左手に見える白い壁は湯島聖堂の壁です。特に湯島聖堂付近の紅葉は遅く、撮影日も平成24年の11月半ばから12月中頃まで何度も行くことになりました。
 この付近の紅葉の進み方はバラバラで、「くまドン」の名所江戸百景の中でも思うように撮影できない難所でした。
 下の神田川には、昌平橋(しょうへいばし)が架り、左側には秋葉原の電気街のビルが見えています。


 さて、前々回の神田川の源流の一つ「井の頭の池」と、前回の神田川と神田上水を分ける「関口の大洗堰」からの続きになります。
 「名所江戸百景094 第3景 山下町日比谷外さくら田 日比谷公園 秋の花」で作成した地形図を再利用します。
 現代の地形図で、黄色の部分が台地、水色が低地、緑色が中間の高さとなっています。
 「国土地理院ホームページ掲載のデジタル標高地形図画像データ(東京東部地形図)を使用しました。」

(1)現代の東京(江戸)と異なり、徳川家康が関東に入府した頃は、江戸城の東側は、日比谷入江と呼ばれる海でした。地形図の江戸城右側の水色の部分が日比谷入江のあった付近です。その東側の黄緑色(微高地)エリアの神田-日本橋-京橋-銀座-新橋ラインが江戸前島と呼ばれる岬になっていました。
 この頃は、現代の地形図で横に流れている神田川や日本橋側は無く、神田川(当時は平川と呼びました)が地形図の[日本橋川]と書かれているエリアを流れて、日比谷入江に注いでいました。
 その後、江戸の町を発展させる為に、神田上水の建設を始めたりします。
 輸送ルートと江戸城の防衛線の確保の為、日比谷入江(現在の竹橋付近)に注いでいた神田川(平川)の流れを東寄りに変更し、さらに江戸前島を横切るような運河を掘ることにより、現在の日本橋川の流路ができあがります。

(2)その後、慶長5年(西暦1600年)の関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、慶長8年に江戸幕府を開き、江戸城の天下普請(てんかぶしん)を行います。神田山を切り崩した土で、日比谷入江を埋め立て行きました。埋め立てた土地には、全国の大名の屋敷が建ち並びました。
 (天下普請とは、江戸幕府が全国の諸大名に命令し、行わせた土木工事のことです。)

 下の写真は、JRお茶の水駅の西口側に架かるお茶の水橋から東口側の聖橋を眺めた写真です。
(絵画調)


(3)2代将軍・徳川秀忠(ひでただ)の元和4年(西暦1618年)にも、天下普請で神田川の開削が行われ、現在の飯田橋(日本橋川と分岐点)~水道橋~お茶の水~秋葉原~浅草橋~隅田川までの神田川下流部が生まれます。
 現在のJRお茶の水付近の神田川の両側は切りたった高い崖になっていますが、昔は両岸の台地がつながっていたわけです。飯田橋~秋葉原間工事の総責任者は仙台藩の初代藩主・伊達政宗(だてまさむね)です。このため、江戸時代にこの区間は「仙台堀」とか「伊達堀」とも呼ばれました。
 ただし、当初の仙台掘は川幅が狭かったので、船の通行を可能にする為、4代将軍・家綱(いえつな)の万治年間に、仙台藩第4代藩主・伊達綱村(だて つなむら)が仙台掘の拡幅工事が命じられることになります。

 JR御茶の水駅付近は最も深い谷で、崖の木の紅葉は、お茶の水付近では早い方です。(11月下旬でしたが・・・)

 この付近の「御茶ノ水」と呼ばれる地名は、北側にあった高林寺に湧きだす水を徳川将軍のお茶用の水として献上したことからついた地名です。この切り立った谷は渓谷を思わせ、江戸時代の観光の名所として、茗溪(めいけい)と呼ばれることもありました。「茗」は茶を意味し、「茗溪」は「お茶の谷」という意味です。

 JRお茶の水駅の西側にJR水道橋駅がありますが、この水道橋という地名は、神田上水が江戸の町に水を送る為に造られた水道用の橋があったことからついた地名です。
 下の絵は、水道歴史館にあった広重の東都名所「御茶之水之図」です。お茶の水方向から神田上水の懸樋(かけひ、水を通す為のとい。今回の場合は水道を通す橋です。)を望んだ風景です。

 関口の大洗堰から分水した神田上水は、この当時は、神田川の南北、さらには日本橋川の南側まで町人や武家屋敷に飲料用の水を供給する巨大な水道網として発展していました。

(4)3代将軍・家光(いえみつ)の寛永年間にも天下普請が行われ、飯田橋(いいだばし)から四ッ谷(よつや)へと西に伸びる神田川の支流の谷を利用して造られた外濠が神田川下流部とつながります。神田川の終点にある隅田川と共に、江戸城外濠の北側の防衛線の役割を果たすようになります。
 (実際には、明治維新を迎えるまで、一度も使用されることなく終わりましたが・・・・・・・・・)

 水道歴史館の前にあった江戸時代に神田上水の水を利用する町人の風景です。

 江戸の各町に供給された神田上水の水を、井戸からくみ上げて利用していました。

(5)神田川の開削に伴い、日本橋川は洪水対策のため、三崎橋(神田川との分岐点)から堀留橋までの約500mが埋め立てられ、江戸時代の神田川から切り離されていました。 結果として、江戸時代の日本橋川は流れも安定していて、物資の輸送い便利であったため、江戸の町の中心地として、日本橋の町が賑わって行くことになってきます。

 下は水道歴史館にあった江戸時代の上水道ルートの地図です(北方向がやや左に倒れています)。
 左上を横に走る黒い太線が神田上水で水戸藩の下屋敷まで伸びています。この先で神田上水(黒い細線)は、道(黄色)の下を通って右上の神田方面や右下の江戸城内の大名屋敷は、画面右外の日本橋方向に分水されていました。

 地図の上部を横に走る水色が神田川(お茶の水付近は台地なので描かれていません)、右下から左上に向かう川のラインが日本橋川です。日本橋川の上流部が途中で切れていますが、神田川とつながる部分を埋め立てた結果です。
 この区間が再び開削されて、現在のように日本橋川が神田川につながるの明治36年になります。

 下の絵は、広重の名所江戸百景「第47景 昌平橋聖堂神田川」(夏景)です。

 題名のように昌平橋(しょうへいばし)から聖堂(昌平坂学問所、現在の湯島聖堂)と神田川を望む景色です。
 台地を切り開いて開削した川だけあって、両側は切り立った崖でした。景観も良かったので、江戸時代は「名渓」と呼ばれ、江戸の名所の一つとなっていました。
 広重は左側の崖の急な斜面を手前に大きく描くことにより、広重らしく高さを強調する表現をしています。
 右岸には、うっとしい様な暗い雨雲の下に昌平坂学問所(現在の湯島聖堂)の白壁と、道行く人達の姿が描かれて、夏の雨の日(梅雨?)の雰囲気を漂わせています。

 下の写真は湯島聖堂(ゆしませいどう)ですが、ここは特に黄葉遅く、12月半ばでも、まだ黄葉しています。

 現代でも、広重の絵に描かれた白壁があります。この白壁は「練塀(ねりべい)」で、瓦(かわら)と土が交互に積み上げられた土塀です。特に湯島聖堂の壁は、土の部分に白漆喰(しっくい)が使用されているので、白い壁になっています。。

 湯島聖堂の白壁を横方向から見た写真です。正面の下り坂を下って、真っ直ぐ坂を下りた所が昌平橋のある所、その先が秋葉原の電気街(今は別の街か?)です。


(6)湯島聖堂の始まりは、5代将軍・綱吉(つなよし)が元禄年間に、林羅山(はやしらざん)が上野に建てた私塾と聖堂を、湯島の地に移すように命じたの始まりです。以後、「聖堂」と呼ばれることになります。

 その後も、林家による私塾が続いたのですが、11代・家斉(いえなり)の頃に、寛政異学の禁(かんせいいがくのきん)により、古文辞学や古学を学ぶことを禁じてしまい、林家の私塾は無くなり、幕府直轄の昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)に変わってしまいました。寛政異学の禁を進めた人が昌平坂学問所の教官だった分けですが、林家から見れば全く迷惑な話でした。


 湯島聖堂の黄葉と神田川、丸の内線などを入れて、撮影しましたが、どうしても黄葉のタイミングがばらばらで、この時が最善でした。

 この写真を、広重の名所江戸百景「第47景 昌平橋聖堂神田川」の景(確定・秋景)とさせていただきます。
 (このプログは、名所江戸百景の現代版である「くまドン版」を作ることを第一目標としています。)
 撮影した時は、丸の内線の奥に見える船のある所で護岸工事中でしたが、平成26年・11月現在は、右手前の神田川沿いが補強工事中なので、今年は、さらに思うようには撮影できないような・・・

 比較として、2週間後の12月半ばに行った時は、左端の黄葉はピークでしたが、内側の黄葉は枯れ木になっていました。

 撮影した年は暖かく、湯島聖堂内は、12月半ばでも黄葉の撮影が可能でした。


 江戸時代は幕府により厳重に管理・補修されてきた神田上水ですが、明治時代になると幕末の混乱もあり、上水の管理が難しくなり、汚染が進みます。明治以降のコレラ流行により死亡者が多数発生した事により、近代水道の歴史が始まります。
 下の絵は、水道歴史館にあった明治時代のコレラ予防の絵です。ほとんど、もののけ(妖怪)です。

 こうして明治31年に、現在の新宿西口の高層ビル群のあった所に、近代水道の初の淀橋浄水場(よどばしじょうすいじょう)が完成し、本郷にも配水池が完成したことにより、明治34年に神田上水は、その長い役目を終え、給水は完全に停止となりました。

 今回、撮影に行きました東京都水道資料館です。(毎月第4月曜日(祝日の場合は翌日)と年末・年始は休日)

 JRお茶の水駅の北西側(神田川の北側)にある順天堂大学の裏手付近にあります(徒歩8分程度)。結構、展示も豊富で見ていて楽しいです。隣の「本郷給水所公苑」には神田上水の石樋(せきひ)を移築・復元したものがあります。

 行く途中のJRの駅で手に入れたパンフレットに、お茶の水クルーズの期間限定イベントを見つけました。
【岩本町・東神田ファミリーバザール】 (イベント側の都合などで変更になる場合もあります)
 期間: 平成26年11/28(金)~11/30(日)、12/5(金)~12/7(日) (少雨決行)
 場所: 秋葉原の東側にある和泉橋~美倉橋間の神田川南側の道路(岩本町3丁目と東神田2丁目)
 イベント本体は、衣料品や食料品のバザールで、その他に「ご当地グルメ☆屋台祭り」もやっていますが、
 土・日曜日に限り、和泉橋から晩秋のお茶の水渓谷までの往復クルーズ(800円、同伴の小学生以下は無料)があるようです。乗船希望者は、当日に和泉橋南東側公園にあるバザール本部へ申し込みと書いてありました。
 11:00~12:00、12:30~13:30、14:00~15:00 各便先着60名まで(荒天中止) だそうです。
 (ただし、秋葉原で有名な所もグルメ祭りに参加していますから、どんな人達が来るのか想像できませんが・・・・・)

以前に作成したブログは以下の通りです。
(1)お茶の水付近の他のブログは、
 「名所江戸百景006 第10景 神田明神曙之景 桜」
 「所江戸百景123 第9景 筋違内八ツ小路 秋葉原電気街」
(2)神田川沿いのブログは、
 「名所江戸百景114 第87景 井の頭の池弁天の社 井の頭の池のかいぼり」
 「名所江戸百景172 第116景 高田姿見のはし俤の橋砂利場」
 「名所江戸百景115 第40景 せき口上水端はせを庵椿やま 紅葉の関口芭蕉庵」
 「名所江戸百景002 第41景 市ヶ谷八幡」
 「名所江戸百景028 第49景 水道橋駿河台 鯉のぼり」
 「名所江戸百景057 第59景 両国橋大川ばた 両国橋・柳橋の夜景」
 「名所江戸百景056 第60景 浅草川大川端宮戸川 柳橋と屋形船」

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 「くまドン旅日記」のブログを見ていただきありがとうございました。

 かなり手間取りましたが、名所江戸百景の残りは3景+(景確定なし2回分)です。
 名所江戸百景も残りわずかなので、量が重くなりがちになってしまいました。
 あまり、文章を書けないので、次回もスローペースになりそうですが・・・・(汗)
 (このブログは番号整理の為、1カ月程過ぎましたら、昨年・平成25年11月に移動させます。)

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