くまドン旅日記

写真が趣味です。自然の風景、旅行、歴史に興味を持って撮影を続けています。

名所江戸百景115 第40景 せき口上水端はせを庵椿やま 紅葉の関口芭蕉庵

2013年12月03日 12時25分54秒 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、文京区(ぶんきょうく)の神田川(かんだがわ)沿いにある関口芭蕉庵(せきぐちばしょうあん)と、その周辺の話です。現代の俳句の流れを作りだした松尾芭蕉(まつおばしょう)の自宅があった場所です。
 下の写真は、神田川の下流側から関口芭蕉庵の方向を撮影した写真です。
(絵画調)

 撮影日は平成24年の11月中頃で、関口芭蕉庵に1回目に訪問した時の写真です。すでに神田川の桜の紅葉は終わっていて、落葉の状態です。そして、右側にある椿山荘(ちんざんそう)の木は紅葉しており、奥にある関口芭蕉庵は全く紅葉しておらず、緑の葉のままでした。
 関口芭蕉庵付近の紅葉の進み方はバラバラで、おまけに平成24年は暖かく、紅葉が全く進みませんでしたので、11月に1週間おきに3回、12月中頃に4回目の撮影に行く事になってしまいました。
 下の写真は、11月末に3回目の訪問した時の関口芭蕉庵の写真です。やっと紅葉してくれました。この付近の神田川の川床は石があったり、一枚岩だったりするので、なんとなく、川らしく感じます。

  さて、前回の「名所江戸百景114 井の頭の池弁天の社 ・・・」でお話ししましたが、井の頭の池は神田川の水源であり、江戸の町に飲み水を供給する神田上水の水源でもありました。
 江戸時代には、関口芭蕉庵の下流の文京区・関口2丁目にある江戸川公園の近くにある大滝橋の所に関口大洗堰があり、この関口大洗堰は、神田川と神田上水の水を分ける場所でした。
 この関口大洗堰は、神田川の水を石堤で堰(せ)き止めて、水位を上げて、神田上水に分流させます。残った水は洗堰(あらいぜき)の上を越流して、神田川下流に流していました。

 関口芭蕉庵の門は普段は閉め切りで、下の写真は門の裏側から撮影しています。
(絵画調)

 最後の4回目(12月中頃)の時ですから、紅葉のピークは過ぎていました。かなり落葉しています。

【神田上水】
 神田上水の歴史は、安土桃山(あづちももやま)時代の天正18年(西暦1590年)まで時代が戻ることになります。この頃は豊臣秀吉(とよとみひでよし)が天下人の時代でした。豊臣秀吉が関東一帯を支配していた小田原の北条氏(ほうじょうし)を滅ぼすと、代わりに徳川家康が東海・甲信150万石から関東(関八州)250万石に領地替えになります。
 徳川家康は、石高だけ見れば大加増ですが、長年の生活地盤であった東海地方から切り離され、関東の中央部にある江戸城を中心に領内の整備を行う事が必要なりました。
 下の地図は、現代の江戸城(皇居)周辺の地形図です。
 「国土地理院ホームページ掲載のデジタル標高地形図画像データ(図名等)を使用しました。」

 徳川家康が江戸城に入った頃の江戸城の東側(地形図の水色の部分)は、日比谷入江(ひびやいりえ)と呼ばれる海と湿地帯が広がっていました。当時の江戸城は海に面した小さな海城だったのです。
 そして、その先には江戸前島と呼ばれる神田から日本橋・京橋・銀座・新橋と続く半島状の陸地(地形図の黄緑色の部分)があり、海運業を中心とした町の人達が住んでいました。
 当時の神田川(当時は平川と呼んでいた)もこの日比谷入江に流れ込んでいました。江戸城北東側の水色エリアは平川の河口部にあたり、湿地や葦原(あしはら)、砂州が広がっていました。(地形図右側の神田川や日本橋川は後年になって掘られたものです。)
 地形図を見ての通り、江戸城は、武蔵野台地(地形図の黄色の部分)の東端にあたり、東・南・北は台地の崖で、周囲は海・池・谷・川・湿地帯に守られている天然の城でした。江戸城の守りは西側のみとなり、連れてきた多くの家臣を住まわせる為、江戸城の領域は大幅に拡張となり、現在の四ッ谷(よつや)~赤坂(あかさか)間(現在の外濠)に城の防御ライン造ったようです。
 こうして、江戸城に入った同年に徳川家康は、城の防御は最低限にして、領内の整備・発展を優先させます。
 その一つが江戸前島への上水(飲み水)の整備でした。この場所は、海の近くの低地のため、井戸を掘っても塩水で飲料には向きませんでした。ここに町人を多く住まわせ、領内を発展させる為には、飲料水の確保は絶対不可欠でした。
 徳川家康は、家臣の大久保忠行(おおくぼただゆき)に上水の建設を命じます。

下の写真は、関口芭蕉庵の左(上流)側にある水神社です。ここのイチョウ(銀杏)も黄葉が遅く、4回目の12月中頃になって、黄葉している有様です。(黄葉のピークが過ぎて散り始めぐらいですが)

 創建された年は不明ですが、「江戸砂子(えどすなご、江戸時代中期の地誌)に「上水開けてより関口水門の守護神なり。」と記載されているように、神田上水が開かれて当時から関口水門(上水の入口の水門)の守護神として祀(まつ)られています。一説には、水神が八幡宮社司(つかさ、神官)の夢枕に立ち、「我水伯(水神)なり、我をこの地に祀らば堰の守護神となり、村民を始め江戸町ことごとく安泰なり」と告げたので、ここに水神を祭ったと伝えられます。

 関口芭蕉庵のあった場所の付近の地形図です。
 「国土地理院ホームページ掲載のデジタル標高地形図画像データ(図名等)を使用しました。」

 地図を左右に流れる青い線が神田川(江戸時代初期は平川)です。地図の真中左にある赤い★印は、関口芭蕉庵のあった場所です。そのすぐ上流(左)に新江戸川公園(幕末は熊本藩・細川家の下屋敷)、すぐ下流(右)側に椿山荘(江戸時代は久留米藩・黒田家の下屋敷)があります。地形図の黄色の部分は武蔵野台地の部分ですが、この付近の神田川は、すぐ北(上)側に台地の崖が迫っていることが分かるかと思います。
 さらに、そのすぐ東に関口大洗堰(オレンジ色の線、現在の大滝橋付近)がありました。北岸には江戸川公園があり、神田上水の取入口が復原されています。地形図の水色の部分は、標高が3m未満の場所ですが、神田川の周辺高さは、関口大洗堰の付近まで水色の領域が伸びていて、海面の高さとそれほど変わらない事が分かります。江戸時代は、関口大洗堰のすぐ下まで、潮が入る汽水域でした。
 江戸の町に飲料用の塩分のない真水(まみず)を供給する為には、関口大洗堰の所で川を堰き止めて、海水を遮断して、真水を確保するのが最適と判断したようです。
 右下にピンク(桃)色の□がありますが、徳川御三家の徳川水戸家の上屋敷のあった小石川後楽園のある所です。江戸時代初期のころは、関口大洗堰と小石川後楽園との間に、白鳥池と呼ばれる大きな汽水池があったことが知られています。

 下の絵は、徳川家康にお菓子を献上している大久保忠行(藤五郎)の絵です。次回に話をする水道歴史館にあった絵です。家康の三河時代からの家臣ですが、三河の一向一揆(いっこういっき)との戦いで受けた鉄砲傷が原因で歩行が困難になった為、戦役を免除され、家康の菓子(駿河餅)職人として働く事になります。

 最初の神田上水は、関口大洗堰から現在の小石川後楽園付近まで続く上水として開通しましたので、、「小石川上水」と呼ばれました。大久保忠行は、その功績により、「主水(もんと)」の名を与えられました。飲料用の水ですから、水が濁ることを嫌って「もんど」ではなく、「もんと」と呼ぶように命じられたそうです。(ちなみに、神田川の水源である「井の頭の池」も、「いのかしらのいけ」と濁点がありません。)

 下の写真は、文京シビックセンター(文京区役所)の展望台から西方向を見た景色です。左側の木の多い所が小石川後楽園(旧・水戸藩下屋敷)です。真ん中の線路(地下鉄・丸ノ内線)の右側が小石川の台地の端(富坂)です。神田川(当時の平川)はその少し後方を右奥から左に流れていました。
(絵画調)

 写真の真ん中奥の高いビルの右側に、富士山と新宿の高層ビル群が見えています。
 高い建物が無かった江戸時代は、この付近の台地に上がると富士山が良く見えたのでしょう。

 その後、小石川上水は、日本橋方面まで延長されて行き、「神田上水」として江戸の町に飲料水を供給していくことになります。当然、飲料用の水ですから、関口大洗堰に番人を置いて、毎日水量・水質の検査や清掃していました。
 また、関口大洗堰より上流の水質保全の為、立札(たてふだ)を立てて、
 「上水で水浴をしてはならない、魚鳥を取ってはならない、ごみを棄ててはならない、物を洗ってはならない」
と厳重に管理されていました。
 当然のことながら、何十年も使用していると、神田上水も老朽化して、大がかりな改修工事が必要になります。

 下の写真は関口芭蕉庵の入口付近の風景です。11月下旬の2回目の訪問の時は、まだ紅葉が中途半端でした。

 左の建物は管理室ですが、中でのんびり資料も見れます。
 元々は芭蕉庵のありましたが、昭和13年に火災焼失・再建、昭和20年に戦災で焼失しています。
 それから数十年の月日が過ぎ、4代将軍・家綱(いえつな)の延宝5年(西暦1677年)になると、この関口の地に松尾芭蕉が「龍隠庵(りゅうげあん)」という庵(いおり)を構えます。
 この当時の松尾芭蕉は、俳号「桃青(とうせい)」を名乗り、当時、流行していた談林派(だんりんは)の影響を受けていました。しかし、他の人と異なり、俳句の点取り競争を嫌って、俳句採点の仕事を好まず、収入が無い為、経済的に困っており、神田上水の改修工事の仕事(アルバイト)をすることになります。
 下の写真は、現在の関口芭蕉庵の案内図です。

 芭蕉庵には、芭蕉堂や瓢箪池(ひょうたんいけ)が整備されていました。
 下の写真は、関口芭蕉庵にある現在の芭蕉堂です。 芭蕉の三十三回忌で芭蕉の木像が作られて、安置されたお堂です。(8代将軍・吉宗(よしむね)の享保年間の時代の話です。)
(絵画調)


 下の写真が、関口芭蕉庵の瓢箪池(ひょうたんいけ)です。11月末の3回目の訪問で、やっと紅葉してくれました。

 12月半ばの4回目の訪問では、紅葉のピークを過ぎていたので、
 この写真を、広重の名所江戸百景「第40景 せき口上水端はせを庵椿やま」の景(確定・秋景)とさせていただきます。
 (このプログは、名所江戸百景の現代版である「くまドン版」を作ることを第一目標としています。)

 談林派の影響を受けた松尾芭蕉(当時は桃青の俳号)でしたが、関口芭蕉庵に住んでから3年後の延宝8年(西暦1680年)に、隅田川(当時の荒川)の東にある深川(ふかがわ)の地に移り住む事になります。
 その理由は、俳句の世界の喧騒(けんそう)や批評(現在のコンテスト審査員みたいな感じ?)など仕事を避け、新たな俳句の境地を求めての移住と考えられています。
 ただし、一般社会の俳句の世界から遠ざかった松尾芭蕉には一切収入がありません。このような松尾芭蕉を助けたのは、それまでの俳句の世界での名声の高さと、その中で知り合った多くの門人・友人・後援者でした。
 下の写真は、関口芭蕉庵の瓢箪池です。

 こうして、多くの人に支えられた松尾芭蕉は、俳号を「桃青」から「芭蕉」へと改め、深川芭蕉庵において、「侘び・寂び(わび・さび)」を中心とした俳句の流れ(蕉風)を作り出し、「奥の細道」などの後世に残る俳句・紀行文の名作を作りだして行くのでした。

 下の絵は、広重の名所江戸百景「第40景 せき口上水端はせを庵椿やま」(春景)です。

 「せき口上水端」は、関口の神田上水の上流側の端(はし)に当たる関口大洗堰を指します。画面を流れる川は、神田川の流れであり、関口大洗堰の上流側に当たる為、水を満々と蓄えています。
 この付近は、神田川の右(北)側に武蔵野台地の崖が近接していて、右側は椿山と呼ばれる景勝地となっていました。そして、その先には「奥の細道」を始めとする俳句で有名な松尾芭蕉(まつおばしょう)が住んだ芭蕉庵のある所でした。「はせを庵」は芭蕉庵のことです。
 絵の構図としては、画面を右奥から左手前に流れる神田川をS字構図に配置して、素直な遠近法と俯瞰(ふかん、上から下を見下ろす)構図で描かれています。広重特有の近景構図(近くの物を大きく一部分のみ描く)は使用されていませんが、右側の椿山(つばきやま)の急斜面にある芭蕉庵と、左奥に広がる早稲田(わせだ)方面の田園風景が旅情を感じさせます。

 下の写真は、関口芭蕉庵にある「さみだれ塚」があります。9代将軍・家重(いえしげ)の寛延年間になると、松尾芭蕉の友人である山口素堂(やまぐちそどう)の弟子・馬光らによって建てられた塚です。

 松尾芭蕉は庵から見える早稲田の田んぼの風景を、滋賀県の琵琶湖(びわこ)に見立てて愛したと伝わります。
 「五月雨にかくれぬものや瀬田の橋」と書かれた芭蕉自筆の短冊(たんざく)を埋めて、芭蕉の墓としたものです。
 この句は、「笈の小文(おいのこぶみ)」の旅の途中に、琵琶湖湖畔の大津(おおつ)で詠んだ句です。
 その後、芭蕉を慕う俳人が多く訪れるようになり、「芭蕉庵」と呼ばれ、江戸時代の観光名所となっていきました。

 関口芭蕉庵の北側には武蔵野台地がすぐ近くにせまっていて、急な崖になっていました。崖の上部は椿山(つばきやま)と呼ばれ、椿の名所でした。下の写真のように、関口芭蕉庵の庭の大半は、急な崖になっています。

 以前、王子(おうじ)の石神井川(しゃくじいがわ)でも話をしましたが、武蔵野台地の地層の上部には、火山灰の関東ローム層が10m程厚さで積っています。その下には、武蔵野台地が多摩川(たまがわ)の扇状地(せんじょうち)だった頃の水を通し易い層が10m程あり、ここに浅い層の地下水が流れています。
 武蔵野台地の端(はし)や谷間の深い所は、地下水の流れる層が崖面や川底に露出して、湧水の豊富な場所となっていました。この関口芭蕉庵付近の地も、そのような場所でした。
 下の写真は、関口芭蕉庵の瓢箪池です。
(絵画調)

 関口芭蕉庵も、庭園の片隅に湧水があります。現在の都心はコンクリートとアスファルトに覆われ、地下水の量も減りましたが、江戸時代は豊かな水に恵まれていたのでしょう。

【新江戸川公園】
 関口芭蕉庵の上流(西)側には、新江戸川公園があります。ここも、湧水が豊富な所で、湧水を生かした回遊式泉水庭園を主体とした公園になっています。

 雪吊りもあって、紅葉もいい雰囲気の公園です。正直、関口芭蕉庵の紅葉が、思うように赤くならなかったので、新江戸川公園の方を名所江戸百景「くまドン版」に選びたかったぐらいです。
 この場所は、江戸時代中期頃までは、幕臣の邸宅がありましたが、幕末頃には熊本藩・細川家下屋敷の庭園になっていました。明治時代になると、細川家の本邸だったそうです。左に見えるのは、松声閣(大正時代に建築)です。細川家の勉強所だったそうですが、老朽化が激しく、現在は使用禁止となっています。
 新江戸川公園の入口付近にあるカエデの枝振りはすごいです。

 この枝振りを見て、下の広重の名所江戸百景「第89景 上野山内月のまつ」の絵を思い出しました。


【椿山荘(ちんざんそう)】
 関口芭蕉庵の下流(東)側には、椿山荘があります。ここは、南北朝時代から椿が自生する景勝地で、「つばきやま」と呼ばれていた所です。江戸時代は千葉県の久留里藩(くるりはん)の黒田氏の下屋敷でした。
 この黒田氏は徳川家康の三河時代からの譜代の家臣です。今年のNHK大河ドラマの主役・黒田官兵衛(くろだかんべえ、孝高)とは関係なしです。(念のため)
 明治時代は、山縣有朋(やまがたありとも)が自宅として購入、「椿山荘」と名付けています。
 下の写真が現在の椿山荘です。

 大正7年に藤田財閥の所有となり、藤田観光が経営する「ホテル椿山荘東京」となっています。ホテルや結婚式場、レストラン、スパ、宴会等の経営ですが、このブログを書いている現時点では、庭園は一般公開されています。(イベント時には入れない時もあるみたいです。)
 関口芭蕉庵から神田川沿いに歩いて行くと、椿山荘の庭への入口があります。「くまドン」が撮影に行った時は入れる時で、入口に「そば屋」のメニューがありましたので、中に入る事にしました。
 椿山荘の庭園にも「古香井」と呼ばれる湧水があります。その他に人工滝や本物の史跡まであり、驚きました!


 庭園を見終わった所で、食事です。店の入口までの雰囲気がすごく良かった所です。

 関口芭蕉庵の周りを歩きまわった後は、お腹もすいていましたし、食事は格別でした!

 そういえば、文京シビックセンター(文京区役所)の展望レストランも、ホテル椿山荘東京のグループレストランです。

 最後は、関口芭蕉庵の入口付近にあるカエデ(楓)の黄葉です。

 地元の方に関口芭蕉庵は日だまりで暖かいので、紅葉が特に遅いと聞きました。(ありがとうございます。)

 一応、各施設の情報です。(変更になる場合もありますで、インターネットなどで、お調べください)
 関口芭蕉庵 10:00~16:30、休園日:月・火・年末年始、入園無料
 新江戸川公園 9:00~16:30、休園日:月・火・年末年始、入園無料
 椿山荘の庭園 ???(不明)

 過去に作成したブログは以下の通りです。
 (ブログの最上部にあるメニューをクリックしても、前後のブログに移動できます。)
(1)関口芭蕉庵付近の他の話は、
 「名所江戸百景172 第116景 高田姿見のはし俤の橋砂利場」
 「名所江戸百景096 第115景 高田の馬場 流鏑馬(やぶさめ)」
(2)松尾芭蕉に関する話は、
 「名所江戸百景054 第56景 深川萬年橋 響け江戸風鈴 泳げ江戸川の金魚」
 「名所江戸百景105 第103景 千住の大はし 千住大橋と水上バス」
(3)文京シビックセンター(文京区役所)の話は、
 「名所江戸百景028 第49景 水道橋駿河台 鯉のぼり」
 「名所江戸百景104 第49景 水道橋駿河台 雪化粧の富士山」
(4)紅葉(黄葉)に関する話は、
 「名所江戸百景107 第34景 待乳山山谷掘夜景 待乳山聖天の黄葉」
 「名所江戸百景108 第75景 神田紺屋町 東京駅とイチョウ並木」
 「名所江戸百景109 第18景 王子稲荷の社 北とぴあ 夕暮れ」
 「名所江戸百景110 第95景 鴻の台とね川風景(1) 国府台と朝の富士山」
 「名所江戸百景111 第95景 鴻の台とね川風景(2) 国府台と朝の富士山」
 「名所江戸百景112 第94景 真間の紅葉手古那の社継はし 真間の紅葉と手古那伝説」
 「名所江戸百景113 第112景 愛宕下藪小路 旧芝離宮庭園の紅葉」
 「名所江戸百景114 第87景 井の頭の池弁天の社 井の頭の池のかいぼり」
 「名所江戸百景115 第40景 せき口上水端はせを庵椿やま 紅葉の関口芭蕉庵」 (今回分)
 「名所江戸百景116 ・・・・・」 (次回分)
(5)江戸城の外濠西側の話は、
 「名所江戸百景038 第119景 赤坂桐畑雨中夕けい 江戸城の外濠(1)」
 「名所江戸百景039 第85景 紀ノ国坂赤坂溜池遠景 江戸城の外濠(2)」

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 「くまドン旅日記」のブログを見ていただきありがとうございました。

 かなり手間取りましたが、名所江戸百景の残分の1景が作り終わりました。残りは4景+(景確定なし2回分)です。
 東京でも紅葉が始まりました。所々で赤や黄色に変わり始めた木々を見かけます。
 次回の紅葉の残1景もスローペースになりそうですが、この場所も紅葉するのが遅く、今年も11/9現在で全ての木が緑の葉のままです。中間に葛西臨海公園で撮影した写真の短いブログを入れるかもしれません。
 (このブログは番号整理の為、1カ月程過ぎましたら、昨年・平成25年11月に移動させます。)

 日本プログ村に参加しています。良ければ、「ポチッ」応援お願いします。(携帯からは無効ですので、不要です。)
にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ