くまドン旅日記

写真が趣味です。自然の風景、旅行、歴史に興味を持って撮影を続けています。

名所江戸百景113 第112景 愛宕下藪小路 旧芝離宮庭園の紅葉

2013年12月01日 07時55分07秒 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、港区(みなとく)の旧芝離宮恩賜庭園(きゅうしばりきゅうおんしていえん、都営公園)の風景です。
 JR浜松町駅(はままつちょうえき)のすぐ隣にあるので、駅北口を出て右に進むと、線路の下を通り過ぎると入口があります。

 紅葉の景ですので、昨年11月にブログを作成する予定でしたが、「くまドン」のブログ作成スピードを超えてしまったので、後に回した紅葉の残4景の一つです。
 このブログを作った時は、すでに5月の新緑の頃ですが、アヤメやランの咲く季節でもありますので、今回の作成となりました。
 (番号整理の為、後日に日付を昨年11月に移動させますので、話が合わなくなりますが、ご理解ください。)

 旧芝離宮庭園の周辺は高層ビルに囲まれています。


(1)江戸時代の初めの頃は、旧芝離宮恩賜庭園のあった所は江戸湾(東京湾)の海でした。
 4代将軍・徳川家綱(とくがわいえつな)の明暦年間にあった「明暦の大火」により焼失した江戸の町を再建するに当たり、人口過密になった江戸の町を周辺地域に広げる計画となりました。その影響は、以前お話ししました築地(つきじ)などの埋め立てのように江戸湾側にも広がり、旧芝離宮庭園のある土地も埋立により造成されました。
 4代・家綱の延宝年間に、老中・大久保忠朝(おおくぼただとも)が芝金杉の地を拝領して上屋敷となったことが始まりです。


(2)この大久保忠朝は、初代将軍・家康(いえやす)に仕えた大久保忠隣(おおくぼただちか)の孫にあたります。
 大久保忠隣は小田原藩(おだわらはん、6万5千石)・大久保家の藩主であり、講談(こうだん)や三河物語(みかわものがたり)で有名な大久保彦左衛門(おおくぼひこざえもん、大久保 忠教(おおくぼただたか))の甥(おい)にあたります。
 2代・秀忠(ひでただ)の側近の一人でしたが、徳川幕府内の勢力争いに巻き込まれて、家康の不興を買い、失脚・改易になってしまいました(大久保長安事件)。
 大久保家類代の功績もあり、孫の大久保忠職(おおくぼただもと)は、騎西藩2万石で蟄居(ちっきょ、自宅謹慎)処分となります。3代・家光の寛永年間なると、忠職は罪を許され、最後は肥前唐津藩(ひぜんからつはん、長崎県)・9万3千石の藩主となっています。


(3)大久保忠職には子がいなかったので、同じく忠隣の孫にあたる大久保忠朝が跡を継ぐ事なります。その後、佐倉藩(さくらはん、現在の千葉県)の藩主を経て、5代・綱吉(つなよし)の貞享年間に祖父・忠隣の領地であった小田原藩(この当時は10万3千石)に復帰する事になります。
 同じ年に、小田原から庭師を呼び、潮入りの回遊式築山泉水庭「楽壽園(楽寿園)」を造営しました。江戸初期の大名庭園の一つであり、汐入(しおいり)庭園でもありました。江戸時代の庭園東側は芝浦の海に面し、石垣は波に洗われ、潮の満ち干によって池の水位が変わる様に作られていました。


(4)それから130年程の年月が過ぎ、11代・家斉(いえなり)の文政年間に小田原藩主だった大久保忠真(おおくぼただざね)が上屋敷(現在の旧芝離宮庭園)を幕府に返上します。
 5代・綱吉の時代に富士山の宝永大噴火(西暦1707年)が発生し、小田原領内の広い範囲で農業が困難となり、領地半分の復旧を小田原藩の替わりに幕府が負担するというほどでした。
 また、小田原藩主となってからの大久保家・歴代藩主の多くが、幕閣として活躍することになりますが、そのために出費も重なり、財政難となっていきました。
 この時の藩主・大久保忠真は、藩の財政立て直しの為、藩政改革を行い、農村復興を行った二宮尊徳(にのみやそんとく、たかのり、二宮金次郎)を登用した人物です。

 庭園内には築山(つきやま)もあります。


(5)小田原藩が屋敷を返上した後、次は佐倉藩の堀田家が屋敷を家斉から拝領しますが、当時の佐倉藩も借金で苦しんでいた為、短い年数で幕府に邸を返上します。
 佐倉藩が邸を返上した文政4年には、陸奥白河藩(むつしらかわはん・現在の福島県)の松平定信(寛政の改革で有名)・定永親子が江戸湾警備の負担に耐え切れないことを理由に、江戸湾に近い同規模の佐倉への転封希望が出されましたが、白河藩の桑名藩(くわなはん、現在の三重県)移封に移封になる代わりに佐倉藩・堀田家は白河藩に替わって江戸湾警備に当たる事になりました。佐倉藩の財政の負担は増して行きました。その結果、佐倉藩は財政再建に取り組む事になっていきます。
 その後、佐倉藩の藩主になった堀田正睦(ほったまさよし)は、水野忠邦(みずのただくに)の天保の改革や、ペリーの黒船来航後の幕府の政局にかかわっていく事になります。


(6)佐倉藩が屋敷を返上した数年後の同じく文政年間に、現在の旧芝離宮庭園の邸は、徳川御三卿(ごさんきょう)の一つである清水家(しみずけ)の下屋敷となります。この時の清水家当主は、11代・家斉の11男・徳川斉明(とくがわなりのり)ですが、19歳で亡くなった為、同じく家斉の21男・徳川斉彊(とくがわなりかつ)が跡を継ぎます。
 ところが、12代・家慶(いえよし)の弘化年間に清水家・斉彊が徳川御三家の紀州藩(きしゅうはん、現在の和歌山県)を継ぐことになり、現在の旧芝離宮庭園の邸も紀州徳川家の別邸になります。以後は「芝御屋敷」と呼ばれるようになりました。なお、以後20年間、清水家は当主不在となります。


(7)江戸時代が終わり、明治時代になると、庭園の所有者は、有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)の邸(やしき)を経て、皇室の所有となり、明治9年には「芝離宮」となります。明治24年に、この旧芝離宮にも洋式の迎賓館(げいひんかん)が建てられたそうですが、大正12年の関東大震災(かんとうだいしんさい)の時に焼失したそうです。

 翌年の大正13年に東京市(現在の東京都)の所有となり、旧芝離宮恩賜庭園が開園となり、現在に至っています。
 昭和54年に文化財保護法により名勝指定を受けて、この年から入園が有料となったそうです。
 (入園料:大人150円、小学生以下無料、開園時間:9:00~17:00、年末・年始休)
 弓道場(和弓用、有料)もありますが、道具は自己持参、指導員はいないそうです。


 現在の旧芝離宮庭園は、周囲の埋め立てとビル群により海の眺望は無くなり、また庭園の一部が鉄道の増設用地に提供され面積が狭くなっているそうですが、これも江戸時代から残る大名庭園の現代の風景です。
 現代の東京(江戸)のランドマーク・東京タワーも見えています。

 この写真を、広重の名所江戸百景「第112景 愛宕下藪小路」の景(確定・秋景)とさせていただきます。
 (このプログは、名所江戸百景の現代版である「くまドン版」を作ることを第一目標としています。)
 なお、同じJR浜松町駅の隣に世界貿易センタービルがあります。ここビル内に展望ルーム(有料)があり、旧芝離宮恩賜庭園を眼下に見下ろせます。そちらの写真は、以前のブログ「名所江戸百景130 第80景 金杉橋芝浦(1) 世界貿易センタービルからの眺め」を参照ください。

 下の絵は、広重の名所江戸百景「第112景 愛宕下藪小路」(冬景)です。

 場所は、東京メトロ・虎ノ門駅(とらのもんえき)から愛宕山に向かう道路を北から愛宕山(南)方向に眺めた絵です。通りの右奥に見える小高い所が愛宕山の付近です。絵の題名は藪小路は絵の手前右外にあり、絵の右端に小路の竹が描かれているだけです。
 雪が降り積もる中、愛宕山、芝増上寺へと続く雪道を歩く人達の様子と右に流れる桜川の青が生き生きと描かれています。
 この場所は、現在ではビル街の通りになっているため、撮影には向きませんので、自由に使用できる景として使用させていただきます。

(1)同じJR浜松町駅にある世界貿易センタービルの話は、以下のブログです。
 「名所江戸百景130 第80景 金杉橋芝浦(1) 世界貿易センタービルからの眺め」
(2)同じく、江戸湾(東京湾)を埋め立て後に作られた浜離宮恩賜庭園の話は、以下のブログです。
 「名所江戸百景137 第108景 芝うらの風景 浜離宮恩賜庭園の鷹(1)」
 「名所江戸百景138 第108景 芝うらの風景 浜離宮恩賜庭園の鷹(2)」
(3)広重の絵に題名になっている芝・愛宕山については、以下のブログです。
 「名所江戸百景047 第21景 芝愛宕山 ほおずき市」

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 「くまドン旅日記」のブログを見ていただきありがとうございました。

 このブログは5月9日頃に載せましたが、上にも書きましたように、紅葉景ですから、5月の終わりごろに番号整理の為、11月に移動させることになりますので、話が合わなくなります。
 「くまドン」も4月のGWの疲れも大分なくなりましたので、やっとブログ作成再開ですが、
 次回は、名所江戸百景の別の景、または、お城周りの続きです。(今後もスローペースです。)

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