紅旗征戎

政治、経済、社会、文化、教育について思うこと、考えたこと

ボードレール「窓」(『パリの憂鬱』から)

2005-02-21 16:14:27 | 
窓 

開いている窓を通して外を見る者は、決して閉ざされた窓を見る者ほど多くを見はしない。一本の蝋燭に照らされた窓にもまして、深みがあり、不可思議で、豊饒で、暗黒で、眩いものはまたとない。陽光の下で見ることのできるものは、常に一枚の窓ガラスの後ろに起こることよりも興味に乏しい。この暗い、あるいは明るい穴の中に、生命が生き、生命が夢み、生命が悩んでいるのだ。屋根また屋根の波の向こうに、私は見かける、中年の、もう皺の寄った貧しい婦人が、いつも何かの上に身をかがめて、決して外へ出ずにいるのを。その顔から、その衣服から、その身振りから、ほとんど何でもないものから、私はこの婦人の物語を、というかむしろ彼女の伝説を作り上げたのだし、ときおり私は、それを自分に語り聞かせては涙を流す。もしそれが哀れな年老いた男であったとしても、同じように造作なく私は彼の伝説を作り上げたことだろう。そして私は、自分自身が他の人々の中に入って生き、悩んだことに誇りを覚えながら床に就く。ひょっとしてきみたちは私に言うかもしれない。「その伝説が本物だときみは確信しているのかね?」と。だが、私の外に置かれた現実がどうあり得ようと、何のかまうことがあろう。もしもそれが、私の生きることを助けてくれ、私が在ることを、そして私が何で在るか感じることを助けてくれたのであれば。

(阿部良雄 訳-『ボードレール全詩集Ⅱ』ちくま文庫所収)

小学校ではじめて詩を習ったとき、詩は「短いことばで感情を表現すること」だと教わった。しかし6年生になったとき、散文詩という、普通の文章のような詩があることを知った。長文なのに、「詩」と称している奇妙なジャンルに子供ながらにもたちまち心惹かれた。ボードレールの散文詩は日本では『パリの憂鬱』というタイトルで出版されていることが多いが、英語では単にProse Poems(散文詩集)という題で出版されていることが多い。アメリカで探したときもたいていそうだった。上の詩はその中でも有名なものの一つだが、象徴詩人ボードレールの面目躍如というべきか、安直なリアリズムを排して、詩人の魂で現実を再構成していこうという強い意思と自負が感じられる。芸術至上主義であるともいえよう。しかし我々が専攻してる社会科学の世界でも、できる限り社会の現実を捉えようと苦闘するが、現実そのものをフィルターなしで捉えることはできない。ボードレールのように「自分自身が他の人々の中に入って生き、悩」まなければならないのだろう。逆に言えば、そうした他者に対する共感的な想像力を欠如している人は詩人にもなれなければ、社会科学者にもなれないだろう。閉ざされた窓からどこまで現実に迫れるだろうか、そんなことをいつも考えさせられる、示唆的で味わい深い作品である。
(イメージは19世紀のパリのモンマルトル大通りを描いたピサロの絵画)


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