紅旗征戎

政治、経済、社会、文化、教育について思うこと、考えたこと

関東モンの鎌倉贔屓

2006-01-10 23:24:48 | 歴史
一昨日、母校の高校が全国大会の決勝戦で京都の高校に敗れた。東西対決というのは何かと盛り上がる話題だが、今までブログでは「関西と関東の比較」を話題として取り上げてこなかった。意識的に避けてきたのかもしれない。関東で生まれて30年以上過ごしてきて、関西で暮らすようになってまだ5年ちょっと、親戚縁者がいるわけでもない未知の土地だったが、いつの間にか慣れてしまった。

当初は関西人と関東人の気質の違いとか習慣の違いとかに気付いて興味をもったが、グローバル化や新幹線的な全国画一化が浸透した今日、むしろあまり変わらないなと思うことの方が多かった。関西人が関東に対して偏見をもっているように、東京人もまた関西にステレオタイプを抱いていて、上京した折などに時々、面白おかしく聞かれたりするようになったが、今では心も体も関西に基盤を置いているので、そんな時は関西を擁護している。

それでも時々面白いことに気付く。大学の広報誌に原稿を書く時に参考にバックナンバーを眺めていて、他学部の日本史の教授が寄稿されていた文章が目に留まった。その文章いわく「従来、平安貴族の生活が堕落した退廃的なものとして捉えられてきて、鎌倉以降の武士文化が『質実剛健』などと賛美され、武士道が日本精神の中心だなど賞賛されてきた。慢心した貴族が武士の世に取って代わられたという見方である。しかしベトナム反戦運動を経験した世代としては、そうしたミリタリズム的な歴史観に賛成できない。戦争しないで貴族のような平和な生活を送れるほうが楽しいではないか」。大体、そんな内容だったと記憶している。

ベトナム反戦世代が他の事を議論するのを聞くのは食傷気味だったが、「武士文化」賛美の歴史観が軍国主義だという批判は面白かった。と同時に、貴族・国風文化を支えてきた自負を持つ関西人として、政治経済の中心がいつの間にか江戸・東京に移ってしまったことへの怒りの叫びを上げているようにも読めた。

振り返ってみると、私自身もその先生が批判するような歴史観を小学校~高校くらいまで何の疑問もなく、抱いてきた気がする。先祖が桓武平氏につながるといったような話をいくら聞かされても、驕る平氏を倒して鎌倉に新政権を樹立した源氏の方を好意的に見ていたし、その潜在的な実力を警戒した豊臣秀吉に未開の江戸をあてがわれながらも、苦労に耐えて、江戸を世界都市に成長させる基盤を作った徳川家康は偉いものだと思っていた。知らず知らずに東京で受けた歴史教育の価値観を刷り込まれていた気がする。

自分が育った土地に対する愛着・誇りを涵養することと先人に対する敬意を抱かせるというのは、どこの国のどの社会でも、いつの時代でも「歴史」書や歴史教育が担ってきた、大きな役割の一つであったに違いない。関東・東京で小学生~高校時代を過ごした私と、関西で育った学生たちや同僚が無意識に違った歴史観を抱いていても不思議ではない。同じ国の中でもそれだけ違うのだから、近隣諸国と同じ「歴史観」を共有しようとする試みがいかに無謀であるかはいうまでもないだろう。

武家文化中心主義と同時に何気なく身につけてきた見方は農業の発展を中心に日本の歴史を見る見方だった。奈良時代の租庸調、荘園制、年貢、士農工商、地租改正・・・と高校までの日本史のキータームを並べてみても、農村社会の発展が社会経済の基盤を成してきたとする見方、大部分の「国民」が農民であったという捉え方に何の疑問も抱いていてなかった。こうした従来の日本史学の「農本主義」的なバイアスを批判したのが、故・網野善彦氏で、「網野歴史学」のファンも数多い。網野氏の一般向けの通史である『日本社会の歴史(上)(中)(下)』(岩波新書)にもそうした農民中心史観批判が集約されているし、前述した関東、関西に関する歴史的偏見についても『東と西の語る日本の歴史』(講談社学術文庫)で分かりやすく解説されている。こうした本を読むと、関西人の関東・東国に対する偏見(常識)の一つである「西国=文化的先進地、東国=辺境、文化的後進地」という見方が必ずしも正しくなく、古代以来、東国においてもかなりの程度の文化的発展が見られたことが指摘されている。未開の地・江戸を大都市に改造したのは、家康の手柄だと関東の小学生は習いがちだが、それも家康の神格化をはかった江戸幕府の公式史観によるところが大きく、最近の研究では、江戸開府以前にかなりの程度、江戸も発展していたということである。

多文化主義的な史観に立つ、網野氏の『日本社会の歴史』は、同じく岩波新書から三巻本で出されていた『日本の歴史』(1963-66)の後継本として企画されたそうである。井上氏の本は、唯物論的発展史観にがっちり乗っかって書かれた本である。そのため、例えば明治維新=絶対王政という位置づけがなされているのだが、「西洋の絶対王政と違う点は」として4つも例外項目が挙げられている。4点も重要な点が異なれば、「絶対王政」と位置づけること自体が無理というか、西欧との比較図式に当てはめることにどこまで意味があるのか疑問になるはずだが、マルクス主義史観では、絶対王政→ブルジョワ革命→プロレタリア革命という順番に、歴史が「発展」する法則になっている以上、途中の段階は飛ばせないので、無理にでもそう位置づけなければならなかったのだろう。

「歴史家の仕事は一般理論を否定することである」という格言があったが、細かい例外を捨象し、法則性を発見しようとする社会科学者と違って、歴史学者は詳細な事実を発見していくことを最重要視する。そうなると、一つの社会の発展を一つの見方で見るのは到底無理で、実際の歴史は「例外」の積み重ねにしかならないはずだ。ある歴史観を事実をもって否定することはいとも簡単であろう。しかし「東国に古代政権があったこと」、「江戸が一定の発展を遂げていたこと」、「自由民権運動がブルジョア革命でなかったこと」などなど、「・・・・でなかったこと」を次から次へと明らかにしていくのは簡単だろうが、全ての「神話」を壊した後に何が残るのだろうか?「正しい歴史認識を!」と連呼する、内外の政治家や運動家たちの尊大さに辟易すると同時に、歴史学が発展していく行く先に何が待っているのか、歴史家たちがどう考えているのか、歴史の門外漢としては大いに疑問を抱いている。


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