ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

謎解き詠花鳥和歌 残菊と白鳥 23 秦氏の野望「皇統へ血を」

2015-10-30 14:31:42 | 日本文化・文学・歴史
平安京という名は現代人にとって雅な王朝文化が花開き美しく着飾った公達や十二単を纏
った女性たちの登場する源氏物語の世界を思い浮かべる方が多いと思いますが、光仁天皇
の世以来皇位を巡る熾烈な争いが続き謀略によって貶められた敗者は怨霊になって祟り、
犠牲者まで出る有様でした。2011.6.4~26までに4回「怨霊に祟られた桓武天皇」を掲載
していますので関心のある方はお読みください。

天武天皇系から天智天皇系の皇統に代わった光仁天皇は聖武天皇の娘である井上皇后と他
戸皇太子を廃し山部親王(桓武天皇)に譲位しました。
桓武天皇は始め山背国の長岡京を造り遷都(783年)しますが、そこは水運の優れた地であ
るが長雨や豪雨にあうと桂川の影響を受け水害が発生するという地形上の欠陥が判明し、
僅か10年で捨て去る事態になりました。

桓武天皇は793年に藤原小黒麻呂を次の新京の地として山背国葛野郡宇太を視察調査させ
新皇都建設を始めます。そして1年後の794年10月に桓武天皇は葛野の大宮への遷都の
詔を発令します。しかしわずか1年で都が出来あがるものでしょうか?
前回のブログで「平安京は秦氏の計画都市ではないか?」と述べましたが渡来人の秦氏らが
何故に都と成り得るような寺社を配した街造りをしていたのかという疑問をもちました。

都造りを担当した人々を調べはじめたところ、長岡京で桓武天皇が怒り、また落ち込んで
しまうような事件が起きていました。
785年のこと桓武天皇が心から信任し、内外の政務の相談にあずかり、また造長岡京使
であった藤原種継(737~785年)が見回り中に矢を射かけられ何者かに暗殺されたのです。


藤原種継は藤原不比等の子息、四兄弟の三男・宇合(馬養・うまかい)の子・清成の子です。
藤原清成は不比等の孫ですから当時のサラブレットであるが、婚姻の相手は渡来系秦氏族の
秦朝元の娘でした。藤原氏は娘たちを皇室に嫁がせ多くの皇妃を出してきた家柄です。
秦氏が式家の御曹司に娘を嫁がせ、その娘に子が生まれれば藤原氏の血に秦氏の血が混入さ
れるのです。そして、その子が女子であれば皇室に嫁ぐ可能性は大でしょう。
これは面白い事になりそうです。

秦朝元にはもう一人娘がおり、同じく式家の四男・藤原綱手と婚姻しています。『尊卑分脈』
この時期は光仁天皇や桓武天皇の擁立に式家の藤原百川が貢献したので、その娘の旅子は桓
武妃、帯子は平城天皇妃となるなど、式家と皇室の関係が親密でした。

そこで思い浮かんだのが秦氏は「秦氏の血を皇統に入れ、外戚になる」野望を抱き、その時
のために着々と計画を立て、建設を進めてきて、それが平安京ではないかと思い始めました。

この式家に嫁いだ秦氏の娘たちは朝元女とあるのみで名前さえ判りませんが、種継に嫁した
娘には5人(男3女2)の子が生まれました。

長女と思われる薬子(?~810)は長じて藤原縄主の妻となり3男2女の母となりますが、長
女が皇太子・安殿親王(平城天皇)の後宮に女官として仕えると、母親の薬子も後宮に仕え、
皇太子と不倫の仲となります。それを桓武天皇に知られて追放されますが、安殿親王が天皇
に即位すると呼び戻され、平城天皇(774~824)の寵をたのみに(愛妾の尚侍)兄の仲成と
共に専横をきわめたという。平城天皇が体調がすぐれず賀美能皇太子(嵯峨天皇)に譲位し
ますが、上皇として政治に口をはさみ都を平城京に戻そうとしたため二所朝廷の状態となり、
嵯峨天皇に制圧されました(薬子の乱)。その結果与した仲成は配流、薬子は自害しました。

種継のもう一人の娘(薬子の妹)は藤原東子(?~816)誕生時期は不明ですが、秦氏の期待
通り桓武天皇の後宮に入ります。800年には桓武天皇の第十二皇女甘南備内親王を出産し
ますが、その後桓武天皇の崩御や兄・仲成、姉・薬子がからむ「薬子の変」等藤原式家が大
きく傾いていく中、816年に亡くなりました。
東子の産んだ甘南備内親王(800~817)は桓武天皇の皇后・藤原乙牟漏から生まれた安殿(平
城天皇)の夫人となりますが、子の生まれる事はなく無品のまま18歳で亡くなりました。

秦朝元のもう一人の娘は式家の四男・藤原綱手と婚姻し、菅継という男子が生まれましたが
綱手は藤原広嗣の乱(740年)に加わり大野東人率いる官軍に敗れ誅殺されました。『尊卑
分脈』

私の推量した「秦氏の野望」が的を得ているかもしれないと思われる人物が藤原種継の他に
もう一人いました。平安京の予定地を視察調査したという藤原小黒麻呂(733~794)です。
小黒麻呂は不比等の二男・房前(北家)の長子・鳥飼の子ですが、太秦嶋麻呂の娘と婚姻し
藤原葛野麻呂(755~818)と妹・上子(生没年不詳)が生まれます。

太秦嶋麻呂は秦下嶋麻呂から聖武天皇が恭仁宮行幸の際に大宮垣を造営した功績により太秦
姓を賜り正八位下から一挙に従四位下に特進(十四階級)したことで知られています。
太秦という秦氏一族の長を意味する立場になったことを知らしめる姓を得たのです。それ故
に娘を藤原北家の御曹司・小黒麻呂に嫁がせることが出来たのでしょう。
藤原葛野麻呂は正三位、中納言、平安京造宮使、また安殿親王の東宮大夫、801年には遣唐大
使など桓武天皇の朝廷で活躍した有能な人物です。その妹の上子は藤原北家の姫君ですから
桓武天皇の後宮に入り第七皇女の滋野内親王(806~857)が生まれます。
滋野内親王は『文徳実録』によると「容色妖麗、淇上のそしりをまぬかれなかった」と書かれ
ており、妖しい魅力を発揮し男女の浮き名を流して評判をおとしたのでしょうか?
彼女は生涯独身のまま49歳で亡くなりました。

「急がば廻れ」という諺がありますが、秦氏は皇室に近ずく手段として藤原氏という迂回路
を用いたために<秦氏の野望>に気づいた人はいなかったように思われます。そしてこの時
点では「秦氏の野望」が実現する事はありませんでした。

歴史学では秦氏を「殖産民族」という評価がなされていますが、朝廷を支えた人物の中には
婚姻を通じて隠れ秦氏が多数いたのではないかと思います。
その源となった秦朝元家のヒストリーを次回に




















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