京都市伏見区鷹匠町3
関連記事 ➡ 神社伏0083 金礼宮
寺院 前回の記事 ➡ 大黒寺 真言宗 九烈士の墓 伏見義民の遺髪塔 西郷・大久保の会談部屋
川柳
ああそうかやせても美人にゃならぬのか /ひつじ
ことわざ
悪銭身に付かず(あくせんみにつかず)
不当な方法で得たお金は大切にしないから、やがてつまらないことに使ってしまい、結局は残らないということ。
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京都市伏見区鷹匠町3
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川柳
ああそうかやせても美人にゃならぬのか /ひつじ
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悪銭身に付かず(あくせんみにつかず)
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薩摩義士碑
宝暦4年(1754),薩摩藩は幕命をうけ木曽・長良・揖斐三川の治水工事を開始したが,予想外の難工事に工費は当初の見積りを大幅に越え,藩士の自刃する者50名,病死者32名を出し,宝暦5年の竣工後,総奉行平田靱負(1703~55)は責任をとり切腹した。遺骸は薩摩藩との縁が深い大黒寺に葬られ,墓碑が現存する。この碑は平田靱負を義士として顕彰する碑である。なお建立者増田伊三郎は伏見の土木請負業者で「任侠の徒」として知られる。
1919年
建立者 増田伊三郎
薩摩藩義士碑【篆額】
木曽の急流濃尾の野に潅ぎて万頃の豊田を作り民其恵沢に頼ると雖時に河水氾濫田圃を流し民屋を倒潰し惨害に苦 しむこと幾年なるを知らず慶長以来洪水殊に甚しく沿岸の民疲労困乏遂に之が救助を幕府に献議す幕府之を容れ大に治水の計を画し宝暦三年十二月廿五日薩摩藩に命じて工事の任に当らしむ蓋一は以て治水の計を大成し一は以て財政上強藩を牽制せむとの政策に他ならず薩藩主之を知ると雖恭順よく其命を奉じ家老平田靱負翁を総奉行とし大目附伊集院十蔵以下約一千の精鋭に用金参拾万両を授けて直に事に従はしむ乃宝暦四年二月廿五日起工五月一旦中止し更に九月工を起して翌五年三月廿八日成を告ぐ工事の地十餘里に亘り堅牢比無く爾来復往時の惨害を見ず田土穰々として黄雲を漲らし沿岸の民鼓腹して生業に安じ今猶其遺沢に浴せり伝へ聞く薩藩の士固より土工に馴れず且陽春山谷の氷雪融けて水量漸く大に夏時豪雨頻に至りて河水屡氾濫し随て修むれば随て毀れ費用膨大事業未半ならざるに資金既に盡き又策の施すべき無し然れども工事は之を阻止すべからず翁深く決する所あり諸士に謀りて曰く事既に此に至る宜しく更に資を求めて工費を辨じ上は君命を果して奉公の誠を致し下は永く百万の生霊を救ふ方途を講じ其独断專行資を得たる罪の如きは成功の後屠腹自決以て謝すべきのみと衆咸之に従ふ因て大阪に至り更に弐百数拾万両を調へ遂に此大難工事を完成し五年五月廿二日無事幕府の検分を終ふるや廿五日拂暁従容自裁せりといふ享年五十有三古人云へるあり慷慨義に赴くは易く従容死に就くは難しと而も生に処し死を択ぶは更に難し藩士の自刃する者前後五十病に斃るゝ者三十二翁能く其間に処して泰然動かず身を以て衆を率ゐ精励恪勤工事の大成を待つ誠に千古の名鑑鬼神をして壮烈に泣かしむるものあり然るに其事蹟永く堙沒して人の知る所とならず遺憾何ぞ堪へむ想ふに藩主深く之を賞して特に遺骸を此山城国伏見大黒寺に葬れりと雖も四囲の事情之を彰する由無く終に今日に迄べるものなるべし伊勢国桑名の人西田芝寿深く之を憾とし美濃国大垣の金森吉次郎と共に之が表彰に努め次で岩田徳義熱心奔走し事遂に天聴に達して大正五年十二月廿八日畏くも従五位を追贈せらる翁死して餘栄ありといふべく天下此より其盛名を嘆慕し其義烈を欽仰せざる者無きに至れり伏見の人増田伊三郎亦其義に感じ瑩域の荒廃を歎き之を修めて石を墓前に建て永く其事蹟を後人に伝へむとし文を余に徴す乃経歴の梗概を叙すと云爾
大正八年十一月二十五日 正四位勲三等公爵島津忠重題額
京都府知事正四位勲二等馬淵鋭太郎撰 出雲路通次郎書
碑の場所 大黒寺 ➡ 寺院伏0308 大黒寺 真言宗 九烈士の墓 伏見義民の遺髪塔 西郷・大久保の会談部屋
石碑 前回の記事 ➡ 石碑伏0101 薩藩九烈士遺蹟表
川柳
亡き母の服の毛玉に触れてみる /いねむり姫
ことわざ
悪女の深情け(あくじょのふかなさけ)
容姿の劣る女ほど愛情や嫉妬心が強いということ。女性の情けは好ましいが、できることなら美人の情けであってほしいということから、ありがた迷惑のたとえにもされる。
注・現代では、「悪女」は性格の悪い女性の意味で使われるが、本来は醜い女性をさす。