わたしのいえ・プロジェクト

マイホーム新築の記録と、それにまつわる、アレやコレ。

11/06/18(土)震災ボランティア備忘録

2011-06-18 21:20:16 | ちょっと寄道

備忘録

5月 
友人Aからメール。
一週間の東北での震災ボランティア活動から帰ってきた彼に、震災ボランティアに誘われる。
およそ、ボランティア活動など興味のなかったわたしだが、「1000年に一度の地震の被害を生で体験する意味でも、現地に行く価値があり、友としてお誘いします。ただ行くだけではなく、ボランティアとして行きましょう。」という誘い文句に参加を即断する。
参加は友人A、大学時代を仙台で過ごした友人H、そして、わたしの3人。


5月21日(土)
近所の福祉センターで、震災ボランティア保険に加入。
http://www.tcsw.tvac.or.jp/info/report/saigai.html

週末の天気が悪く、予定を順延しつつ、機を伺う。


6月9日(木)

22:00 友人H宅に立ち寄り、ピックアップ、一路東北道で気仙沼市を目指す。
Aは急用で金曜日の有休がとれず、金曜日の夜行バスで陸前高田に向かい、土曜日の朝に合流することに。


6月10日(金)

02:20 東北道一関IC到着。
高速道路を降り、IC周辺にある24時間営業のガソリンスタンドで給油。
地道で気仙沼市を目指す。

夜が明ける。

04:10 気仙沼市災害ボランティアセンター到着。
http://msv3151.c-bosai.jp/group.php?gid=10247
ボランティアセンターの駐車場で仮眠。

08:30 ボランティア受付、登録。
申し込み用紙に必要事項を記入し、ボランティア登録を済ませる。
青いガムテープの切れ端に自分の名前を書いて腕に貼り付ける。

しばらくすると、ボランティアの案内が始まる。
活動内容と、募集人員が読み上げられる。
活動の内容は、主に、個人宅の泥かき、泥だし。
手を上げて、活動に申し込む。
学生時代にかよったアルバイト斡旋センターを思い出す。

わたしと、友人Hは、8人の募集があった個人宅の泥かきに申し込んだ。
他6名は、単独参加の若者が一人、単独参加の同年代が一人、わたしと同年代かちょっと年上の3人組、そして現地気仙沼市に住んでいる初老の男性が一人。
もと漁師だという初老の男性は、できる限り、毎日ボランティアに参加しているそうだ。
「泥のにおいが染み付いて取れんのよ。」と笑う。

経験者である若者が、我々グループのリーダーとなる。
ボランティアセンターから、必要な道具を割り当てられる。
スコップ、つるはし、クワ、熊手、土嚢、半人前、猫車・・・。
ボランティアセンターから、作業場所までは、ボランティアセンターの車で送迎してくれる。
道具を軽トラックの荷台に積み、われわれは、ワンボックスカーに詰め込まれて、作業宅に向かう。

港の方に進むにつれて、道路わきに半壊の家が現れ始める。
ひっつぶれた車が山積みになっている。
道路に埃が舞っている。


目的地に到着。

車を降り、家の庭に向かう。
悪臭が鼻をつく。
重油と、魚の腐った臭いだ。
こんな臭いのなかで、もう3ヶ月も暮らしているのか。
おばあさんが一人家から出てくる。
おばあさんから、どうして欲しいのか要望を聞く。
庭の油泥を取って欲しいとのこと。
かなりの量だが、8人で頑張ればなんとかなるだろう。

1時間ごとに適当に休みながら、泥をかき出し続ける。
スコップや、つるはし、クワで泥を土嚢に詰める。
猫車に土嚢を乗せて、道路まで運び出す。
この作業を繰り返す。
汗を滴らせて作業をする。
重労働だが、皆、黙々と作業を続ける。

休憩のたびに、おばあさんは差し入れをしてくれる。
申し訳ない。
おばあさんの話を聞く。
おじいさんは、泥に漬かっていない2階で寝たきりだということ。
津波の時には、近所の若い人に手伝ってもらって、命からがら、2階におじいさんと一緒に避難して助かったこと。
親戚が何人、知り合いが何人、死んだこと。
お向かいさんの廃墟になった家の知り合いは、津波では助かったが、その後に、心労で自殺したこと。
訥々と話すおばあさんの目に涙がたまっていた。
でも、わたしは絶対に泣かないことを心に決めていたので、なんとか耐えて、ただただ、うなずいて話を聞いた。

15:00 作業終了。
庭の泥を全部かき出した。
見た目にも綺麗になったし、なにより漂っていた悪臭が消えた。
ボランティアセンターの車が迎えに来た。
おばあさんが一人、道路わきに立って見送ってくれた。
少しは役に立てたか。


15:30 ボランティアセンターに戻る。
道具を洗って返却し、グループは解散。
テントでお茶をいただく。

16:00 ボランティアセンターの近所のスーパーで、買出し。
明日は陸前高田で活動する予定なので、今日の夜、明日の朝、昼の食料をスーパーで調達しておく。
ボランティアセンターの近所は、津波の影響はまったくない。
人々がスーパーで買い物をする光景は、東京のスーパーで見る光景と何も変わらない。
品物も普通に流通しているように見える。
生鮮食料品だって、魚だって売っている。
弁当や、お菓子、ビールなどなど買い込む。

さっきのおばあさんの家の周りと、このスーパーの差に驚く。

地震が来たのはどの地域も同じ。

津波が来たか、来なかったか。

それが分かれ目。

食料を調達してから、気仙沼港の方に車を走らせる。
港の被害を見ておきたかった。
港に近づく。
悪臭が漂ってくる。
交差点には信号機はないので、ゆっくりと走る。

ガレキの山が目に飛び込んでくる。

友人と二人、何も話す言葉もなく、ただただ、車窓からの眺めに唖然とする。

津波が来たのだ。

17:50 まきばの湯到着。
風呂に入いりたいので、まきばの湯へ向かう。
気仙沼市街から一時間ほど山道を走ると到着。
湯船につかり、汗を流す。
自分の体から漂っていた、油と魚の臭いがやっととれた。

19:30 陸前高田市災害ボランティア住田町基地到着。
http://sumitavc.blog.fc2.com/blog-category-3.html
住田町基地は、現在は地域のコミュニティーセンターとして使用されている、廃校された小学校。
すでに、体育館に他のボランティアがたくさん居て、思い思いに時間をすごしている。
買っておいた弁当と、台所でなべを借りてお湯を沸かし、東京から持参してきたチキンラーメンを食べる。
布団を借り、体育館の床に広げ、横になってくつろぐ。
握力のなくなった腕が痛い。

10:00 消灯、眠りにつく。
女性には、専用の別部屋あり。


6月11日(土)

06:30 起床
雨が降っている。

07:00 住田町基地出発
友人Aが夜行バスで、避難所になっているサンビレッジ高田に到着したとのメールを受ける。
カーナビで住所を入力し、友人のピックアップに向かう。
田んぼの中を走る道路で市内に向かう。
市内に入りしばらく走ると、なんの予告もなく、突然に、右手の川の土手に、ガレキの山が現れる。

津波が来たエリアに入った。

07:55 サンビレッジ高田到着。
東京からのバスが到着している。
中から、ネパール人がたくさん降りてくる。
サンビレッジ高田に避難する人のための、カレーの炊き出しだそうだ。
友人Aと合流。

再び、来た道を戻り、市内を抜け、ボランティアセンターに向かう。

08:20 陸前高田市災害ボランティアセンター到着。
http://rikutaka.ti-da.net/
駐車場で作業着に着替え、身支度を整える。
今日は雨具着用。
全体朝礼の後、ボランティア登録し、本日の作業の申し込みを行う。


気仙沼市ボランティアセンターと比べると、組織的な運営力がまだまだ弱い印象を受ける。

挙手して申し込んだ作業は、田んぼのガレキ撤去、必要人員30名、といざっくりとしたもの。
必要な道具は、各人が自分で判断して、借り出していく。
昨日の経験から、スコップ、クワ、土嚢袋、猫車を借りる。
移動も自分の車で、配布された地図をたよりに、自力でおこなう。
わたしの車に道具を積み込み、カーナビに住所を入力し、3人で目的地に向かう。

市内に再び入り、さらに沿岸部まで車を進める。

目の前に、まっ平らになった、茶色一色の陸前高田市が広がる。

沿岸の道路、倒れた堤防沿いを走り、目的地に到着。

今日の作業は、この区域一帯のガレキ撤去。
特に誰の家のどこを綺麗にする、というのでなく、目の間に広がる広い区域の中、自分で作業場所を選んで、散らばっているガレキを集めて、重機で撤去しやすいようにまとめる、という作業。
あまりの作業範囲の大きさ、茫漠とした作業内容、に気力が萎える。
そして、はたして、自分の作業に成果と意味はあるのか?という自問。
しばし、作業区域を眺めならが唖然とする。

たたずんでいても仕方ないので、やれることから始めようということで、泥濘の田んぼに散らばるガレキの撤去作業にかかる。
昨日ほどではないが、下水の臭いがただよっている。
油断すると、田んぼに脚がはまる。
危うく長靴の淵から泥が入ってきそうになる。
家の柱や鴨居、いろんな木材の破片を泥からかき出し、田んぼの淵の道路際まで運んで積み上げる。
大きなガレキは数人で協力して、掘り起こして、運ぶ。
もってきた道具は一つとして役に立たない。
手で掘り出し、手で運んで、手で積み上げる。


雨が上がる。

昼になり、昼食の休憩をとる。
もってきた水で、手を洗う。
道路わきに座って、黙って弁当を食べる。

午後は、場所を変えて、またまたガレキの撤去作業をつづける。


あまりにガレキの量が多く、範囲が広く、個人の顔も見えない現場で、はっきりとした成果の見えない作業に疲れがたまる。

14:46 黙祷
今日は、3回目の月命日。
すでに震災から3ヶ月が過ぎた。
放送が流れる。
鉢巻にしていたタオルを頭から取る。
長いサイレンが鳴り、皆で頭を垂れて黙祷する。
作業中の重機もエンジンを切り、静寂の中に、長いサイレンだけが鳴り続ける。

黙祷が終ると、また重機のエンジン音がうなりを上げる。
黙って作業を再開する。

15:00 作業終了
できることはやった。
作業を終了させ、ボランティアセンターに戻る。
ボランティアセンターで殆ど使わなかった道具を返却し、うがい薬をもらってうがいをし、どろどろに汚れた作業着を脱ぎ捨てて着替える。

再び、沿岸部に車で戻る。
先ほどは車で通り過ぎた場所に降り立って、被害を目の当たりにする。
半壊の家が見当たらない。

全て流されて、なにもなくなっている。
酷い。

陸前高田市を後に、本日の宿、薬師堂温泉に到着。
温泉にゆっくりつかり、美味しいものを食べて、冷たいビールを飲み、自分の境遇に感謝する。


6月12日(日)

平泉中尊寺に観光に行く。

その後、友人Hが大学生時代に過ごした仙台の街を見に行きたいということで、仙台市内に向かう。

市内に到着。
友人お勧めの店で、牛タンをいただく。
油が染み出るぶ厚い牛タン。
美味い。

仙台市内の閖上(ゆりあげ)地区に向かう。

市内を沿岸部に向かい、そして、突然、景色が変わる。
ここも被害が大きかった場所だ。

その後、友人が多くの時間を過ごしたボート部の合宿所に向かう。
友人にとっては慣れ親しんだ土地のはずなのに、景色が変わり果てていて、道案内が心もとない。

あった!

助手席の友人が叫ぶ。
仙台空港のすぐ横に、まっ平らになった震災の土地に、コンクリートで作られた合宿所が建っていた。
人の気配はない。
車から降りて、合宿所に向かう。
誰もいない。
破れて千切れたシャッター越し、何列何段もある架台に、たった3艇のボートが据えられているのが外から見える。
静かに中に入ってみる。
本当は、架台一杯に、たくさんのボートがあったんだけどなぁ・・・友人はつぶやいた。
合宿所の壁には、自衛隊から
災害前線基地として合宿所を使用した感謝を記した紙が、ガムテープでしっかりと貼り付けてあった。


22:00 東京 自宅到着
肉体的にも、精神的にも、疲れた。
でも、行って良かったと思う。



皆が、現地にボランティに行ったほうがいい、とは思わない。

自分の日常生活をまず大切にして、できることを、できる範囲で、気長に、やればいいと思う。

でも、現地行けば必ず役に立てる、とも思う。

 

ボランティア募集される作業の種類はいろいろあります。
ガレキ撤去となると力仕事がメインですが、細かなガラス片を拾ったりなど、力に頼らないガレキ撤去もあります。
日ごとに募集される作業内容は様々、異なるようですが、まだまだ人手を必要としているようです。
ボランティアに参加する心構えや、必要な持ち物は、ネットに全て書いてあります。
絶対にいるものだけ書いておきます。

震災ボランティア保険・・・1年間有効。
かっぱ・・・どろどろになっていいものがいいです。
長靴・・・作業靴よりも、長靴がいいです。
釘踏抜き対策の鉄入りインソール・・・釘の突き出たガレキ対策、怪我防止に絶対に必要です。長靴のサイズにあったもの。
耐油手袋・・・軍手ではだめ。作業用手袋がいいです。
防塵マスク・・・塵のほか、アスベスト対策として必要です。




11/06/05(日)ベランダ・バーベキュー

2011-06-05 20:46:04 | HouseからHomeへ

略してBBBQ

別に略す必要もないのですが。


夕刻の気持ちのいい時間帯、ウッドデッキでバーベキューをしました。

いつもは、炭をおこしてやるのですが、今回はジンギスカンなので、ホットプレートを使ってお気軽バーベキューです。


市販のタレは甘ったるいので、タレは手製のこだわりの一品です。

たまねぎ、りんご、ピーマン、にんにくをすりおろし、日本酒、醤油を加えて、少々寝かせれば出来上がり。


ラム肉とキャベツをタップリいただきました。

お腹がふくれて、大満足。


ビールを飲んでもいないのに、上機嫌な娘二人。

踊りだしたら止まらない。


そんなに美味しかったか。

ヨカッタ、ヨカッタ。