越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(謙信)の年代記 【元亀元年10月〜同年12月】

2014-06-23 01:17:00 | 上杉輝虎の年代記

元亀元年(1570)10月 越後国(山内)上杉謙信(不識庵)【41歳】


越後国上杉家からの使僧である玄正が、同盟の交渉相手である遠(三)州徳川家康の許に到着したことを受け、同盟成立のための起請文を認めている。これから遠くないうちに、起請文を携えて玄正が越後国へ戻っていったであろう。

8日、同盟関係にある遠(三)州徳川家康(三河守)が、起請文を認め、敬白 起請文、右の通り、このたび愚拙(徳川家康)の心腹のうちを、権現堂(叶房光播)をもって申し届けたところ、御啐啄(互いの心が投合)は本望であること、一、(甲州武田)信玄への手切れを、家康は深く思い定めているので、いささかも偽りはなく、正直な思いであるのは間違いないこと、一、(濃(尾)州織田)信長と輝虎(謙信)の間が御入魂であるように、力の及ぶ限り意見すること、甲(武田家)と尾(織田家)の縁談についても、立ち消えとなるように、遠回しに忠告すること、もしこの旨を偽るにおいては、諸神の御罸を蒙るものであること、よって、前記した通りであること、これらの条々を誓っている(『上越市史 上杉氏文書集一』942号「上杉殿」宛徳川「家康」起請文)。

同日、越後国上杉家側の取次である直江大和守景綱(輝虎の最側近)へ宛てて、初信となる書状を認め、これまで申し付けていなかったこと、このたび幸便を得たので申し入れること、もとより輝虎が御内意の条々を書き載せられたこと、一つ残らず納得できたこと、その一編ごとを河田豊前守(長親。輝虎の最側近で、越中国代官を任されている)へも申し届けたこと、(河田長親は)越中在国ゆえ、貴辺(直江景綱)から承ることになったそうであり、祝着の思いであること、今後は(直江へ)申し入れること、力の限り周旋されるのが肝心であること、貴国(越後国上杉家)から仰せ越された示された条々については、もれなく御使僧(玄正)に附与したので、かならずや詳しく申し述べられるであろうこと、委細は再便の時を期すること、これらを恐れ謹んで伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』943号「直江大和守殿」宛徳川「家康」書状写)。

同日、徳川家康の使僧である権現堂光播が、直江大和守景綱へ宛てた書状を認め、この秋中に参上したところ、手厚い御もてなしに預かり、過分の極みであったこと、よって、このたび御使僧が到来されたのは、此方(徳川家)においても、祝着であると申されていること、それでまた、(秋中に)もれなく酒井左衛門尉方(忠次。三河国吉田城を本拠とする)ならびに石川日向守方(家成。遠江国懸川城の城代を任されている)・同伯耆守方(数正。家成の甥)が申し入れたところ、とりもなおさず御取り成しあり、そちらの 御屋形様(謙信)の御意により、一部始終が落着し、ますます御入魂の趣は、よくよく御貴所(直江)の御取り成しが肝心であろうこと、何はともあれ(家康は)御誓約の件については、紛れもなく進められたので、諸事は来春中に愚僧が仰せ届けられる旨であり、このたび其方(越後国上杉家)から御馬を下されたこと、遠路をものともしない逸物なので、此方にとっても名誉であり、あちらこちらで言広めていること、諸事万端は、玄正の口上に頼み入るにより、この紙面は省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、返す返すも、 上様(謙信)へ様子の御披露を願うところであること、ことさら御鷹などを御手配して下されたこと、(家康は)祝着であると申されていること、酒井左衛門尉方へ下された御鷹も誉れ高いとの評判であること、これらを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』944号「直江大和守殿 参御宿所」宛「権現堂 叶」書状)。

同日、酒井忠次が、取次の村上源五国清(一家衆に準じる信濃衆)へ宛てた書状を認め、仰せの通り、これまで申し交わしていなかったところ、御札に預かり、本望極まる思いであること、よって、輝虎様と家康の間で格別に御入魂となり、拙者(酒井忠次)のような下輩の者まで、大慶に勝るものはないこと、いかなるようにも疎かにはしない所存なので、御取り成しを頼み入ること、それでまた、御書、ことさら御鷹を下されたこと、過分の極みで、感謝してもしきれないこと、なお、こちらから重ねて申し入れるにより、(この紙面は)省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』945号「村上源五殿 御報」宛酒井「忠次」書状)。



まだ越後国上田の地に留まり続けているなか、10日、上野国沼田(倉内)城(利根郡沼田荘)の沼田城衆である河田伯耆守重親・小中彦右兵衛尉・竹沢山城守・発智右馬允長芳、在番中の新発田右衛門大夫、先遣隊の本庄清七郎・栗林次郎左衛門尉房頼・板屋修理亮へ宛てて書状を発し、信玄が(利根川)越河したとの注進があり、それを承知したこと、前々から飛脚をもって申し遣わした通り、身(謙信)の許へ合流する人数は、河治(上・越国境の越後国魚沼郡上田荘)の地まで二、三手が続けざまに着陣してくるので、明るいうちの越山を合議で決めたこと、その庄(沼田領)の至る所へ馬乗を廻らされ、十五歳から六十歳までの者の動員を告げ知らせるべきこと、無禄の者はであるならば、言うに及ばず、たとえ誰人に扶持されている者でも、このたび積極果敢に奮闘したならば、務めて(そのまま)所属させるべきこと、このところを皆々に言って聞かせるのが適切であること、越山が遅れることはないので、いずれにしても安心してほしいこと、これらを謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』946号「新発田右衛門大夫殿・本庄清七郎殿・河田伯耆守殿・小中彦兵衛(尉)殿・竹沢山城守殿・発智右馬允殿・栗林次郎左衛門尉とのへ・板屋修理亮とのへ」宛上杉「謙信」書状写)。


● 新発田右衛門大夫:実名は綱成か。外様衆。やはり外様衆の新発田尾張守忠敦の一族。沼田城衆の中心人物である上野中務丞家成の名が見えないので、何らかの理由により、一時帰国していた可能性があるため、上野家成が戻るまでの間、以前に沼田城衆の一員であった右衛門大夫が在番していたのかもしれない。

● 本庄清七郎:実名は綱秀か。旗本部将。先遣隊の一員として、上田衆・小木松本衆と共に沼田城へ入った。

● 河田伯耆守重親:旗本部将。上野国沼田城の城将。越中国代官の河田豊前守長親の叔父に当たる。

● 小中彦右兵衛尉:実名は清職か。旗本部将。沼田城衆。

● 竹沢山城守:実名不詳。旗本部将。沼田城衆。もとは下野国衆の佐野氏に仕えていた。

● 発智右馬允長芳:旗本部将。沼田城衆。もとは上田長尾氏の同心であった。

● 栗林次郎左衛門尉房頼:上田長尾氏の重臣。謙信の甥である上田長尾喜平次顕景の陣代。先遣隊として、本庄・小木衆と共に沼田城へ入った。

● 板屋修理亮:実名は光胤か。旗本衆の松本氏の重臣。幼年の当主である松本鶴松の陣代。先遣隊として、本庄・上田衆と共に沼田城へ入った。
 

20日、関東に入る。


こうしたなか、22日、友好関係ある濃(尾)州から書状(謹上書)が発せられ、弟鷹(大鷹の雌)二聯山廻・青を据えて給わったこと、祝着の極みであること、珍重して大切に扱っていること、毎度、このような次第で、御懇慮は感謝してもしきれないこと、条々で示された入魂が成就するための趣は、大慶であること、なお、これより申し述べるつもりなので、筆を置くこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』819号「謹上 上杉弾正少弼殿」宛織田「弾正忠信長」書状【封紙ウハ書「謹上 上杉弾正少弼殿 弾正忠信長」】)。



24日、関東代官を任せている北条丹後守高広(上野国群馬郡の厩橋城の城代)へ宛てた条書(朱印状)を使者に託し、覚、一、信玄が(関東へ)出張し、これにより、去る20日に越山のところ、敵(甲州武田軍)は程なく退散したので、このうえは相・越両軍が同陣する必要がなく、(北条高広は)その対応に当たるべきこと、一、(上杉三郎)景虎に信(信濃国奥郡)と越(越中国)の警戒を指図させるために、越府に留め置いていたこと、そうではあったがようやく(降雪期を迎え)、越山を許すにより、まずは愚老(謙信)が使者をもって(相府へ)申し届けること、一、何としても戦陣においては、ひたすらに決心していること、以上、これらの条々を申し伝えた。右については、風雪の厳しい時分の越山し、路次中(露営)で寒風が吹き出し、筆を執る手が震えるので、書状には(花押の代わりに)印判を捺したこと、已上、これを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』948号上杉謙信条書【印文「摩利支天 月天子 勝軍地蔵」】)。


その後、帰国の途に就き、遅くとも11月下旬までには帰府している。景虎は関東へ入ったとしても、元亀2年正月には在府していることは確かなので、この時、関東に残るようなことはなく、謙信と共に帰府したであろう。



この間、敵対関係にある甲州武田信玄(法性院)は、10月12日、下野国佐野の佐野昌綱(下野国安蘇郡の唐沢山城に拠る)へ宛てた条書を使者に託し、一、このたび催す戦陣の模様(計画)のこと、この補足として、藤田(武蔵国榛沢郡。鉢形藤田氏領)・秩父(同国秩父郡。同前)・深谷(同国幡羅郡。深谷上杉氏領)領域の耕作を薙ぎ払うこと、一、利根川の増水ゆえ、この時節に越河できず、途方もなく心残りであること、この補足として、漆原(上野国群馬郡桃井郷)に陣取り、厩橋領(同郡厩橋郷)に火を放つこと、一、越後衆が(下野国)へ出張したならば、(信玄は)ためらわずに当国(下野国)へ出馬すること、この補足として、(信玄が下野国へ出馬した場合の)手立ての模様(計画)のこと、これらの条々を示している(『戦国遺文 武田氏編三』1743号「佐野殿」宛武田家朱印状写)。

27日、一色 某へ宛てて書状を発し、去る20日以前にも申し上げたこと、参着したのかどうか気になっていること、よって、上州沼田(利根郡沼田荘)・厩橋を残らず撃砕し、去る19日から昨日に至るまで、武州秩父郡に在陣し、彼の領域の人民を分断させるような手立てに及んだこと、かならずや御安心してほしいこと、この時節に鎌倉(相模国東郡)の地に着陣し、御意見を得るつもりであったとはいえ、十分な戦果を得られたので、まずは帰陣し、来月中旬にすぐにも小田原(相府)へ攻め懸かるので、江戸(武蔵国豊島郡)の辺りにおいて面談したいこと、委細は使者をもって申し述べるにより、(この紙面は)省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編三』1744号「一色殿」宛武田「信玄」書状)。


この一色氏は、鎌倉公方足利義氏の重臣である幸手一色八郎義直(下総国葛飾郡の幸手城を本拠とする)とされている。幸手一色氏は、信玄に通じていたということなのだろうか。


※『戦国遺文 武田氏編』等は1743・1744号文書を元亀2年に比定しているが、柴辻俊六氏の論集である『戦国期武田氏領の形成』(校倉書房)の「第一編 権力編成と地域支配 第七章 越相同盟と武田氏の武蔵侵攻」に従い、元亀元年の発給文書として引用した。


※ 同じく1743文書の解釈については、鴨川達夫氏の著書である『武田信玄と勝頼 ―文書にみる戦国大名の実像』(岩波新書)の「第二章 文書はこう読め 一 正確な読解 ―小さな不注意から文意が正反対に」を参考にした。



元亀元年(1570)11月 越後国(山内)上杉謙信(不識庵)【41歳】


関東で越年することなく、帰府していたところ、甲州武田軍が上野国へ出陣したとの報に接し、24日、やはり関東から越後国坂戸城(魚沼郡上田荘)に戻っている上田衆の栗林次郎左衛門尉房頼へ宛てて書状を発し、倉内(上野国沼田城)へ飛脚を遣わすのを頼んだところ、とりもなおさず、(飛脚を)立ててくれたそうであり、祝着であること、よって、信玄が重ねて上州へ出張したそうであり、信・越国境から伝わってきた情報なので、沼田の庄内へ攻め込んでくるにおいては、迅速に来援するのが肝心であること、これらを畏んで伝えた(『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』950号「栗林次郎左衛門尉とのへ」宛上杉「謙信」書状【花押a4】)。



元亀元年(1570)12月 越後国(山内)上杉謙信(不識庵)【41歳】


10日、越中国代官を任せている河田長親(豊前守。越中国新川郡の魚津城の城代)が、重臣の山田平左衛門尉(に証状を与え、古志郡給分の替地として、保倉北方(頸城郡)へ出し置くこと、相違なく知行するべきものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』952号「山田平左衛門尉殿」宛河田「長親」知行宛行状)。


13日、府城である春日山城(越後国頸城郡)の御宝前(看経所)に看経の次第を納め、一、阿弥陀如来の真言三百遍・念仏千二百篇・仁王経一巻、一、千手観音の真言千二百篇・仁王経二巻、一、摩利支天の真言千二百篇・摩利支天経二巻・仁王経一巻、一、日天子の真言七百遍・仁王経二巻、一、弁才天の真言七百遍・仁王経二巻、一、愛宕勝軍地蔵の真言七百遍・仁王経二巻、一、十一面観音の真言七百遍・仁王経二巻、一、不動明王の真言七百遍・仁王経二巻、一、愛染明王の真言七百遍・仁王経二巻、いづれも来春の二・三月に、越中へ馬をいだし、留守中に、当国・関東が何事もなく無事にて、越中が存知のまま一遍(一挙)に謙信の手に入ったならば、明けて一年間は、かならず日々看経(読誦)するべきことを誓った(『上越市史 上杉氏文書集一』953号「御ほう前」上杉「謙信」願書【花押a4】)。


秋中に志賀の乱で苦境に立たされていた将軍足利義昭から救援を求められたこともあって、何とかして上洛したい謙信は、相州北条家との盟約は放っておいても、越中国を安定させなければならなかったのであろう。


同日、河田長親が、伊勢神宮へ宛てて証状を発し、一、(越中国新川郡)上条の保飯坂村内の八十俵一斗五升の所、ただし、このうち引物は前々の通り、一、同保同村内の六十八俵の所、ただし、このうち引物は前々の通り、一、(越中国新川郡)小出の保高寺村内の三俵の所、一、(同前)佐美郷浦山本光院方の内屋敷(以下、一部の文字を欠損している)武十在の所、一、(同前)藤保折立村の禅徳寺、以上、右の所を寄進奉るものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』954号河田「長親」寄進状)。


21日、越後国上杉家の奉行衆である飯田長家・河隅忠清・五十嵐盛惟が、外様衆の色部弥三郎顕長(揚北衆。越後国瀬波(岩船)郡の平林(加護山)城を本拠とする)へ宛てて年貢請取状を発し、納めた頸城郡内の大貫村山の御年貢を受け取ったこと、都合六貫文、というわけで、右を、御蔵において御百姓がすべて納めたこと、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』955号「色部弥三郎殿 参」宛「飯田長家・河隅忠清・五十嵐盛惟」連署請取状)。



この間、同盟関係にある相州北条氏康(相模守)は、12月18日、駿・相国境の相模国足柄城(西郡)に在番する岡部和泉守(今川氏の旧臣)・大藤式部丞政信(諸足軽衆。相模国西郡の田原城を本拠とする)へ宛てて書状を発し、今18日付の(玉縄北条善九郎康成からの)注進状が夕暮れ時に到着したこと、敵(甲州武田軍)は本陣を構えていた瀧之瀬(駿河国駿東郡鮎沢御厨須走の滝之沢)から阿多野原に打ち出してきたそうであること、これにより、(氏政は)善九郎・孫二郎兄弟(北条康成・康元)を小足柄(相模国西郡足柄峠)に上らせたそうであること、これは前々から(氏政は両名を)留め置く考えであり、萱野の地より後方に下がらせるつもりはないらしいこと、ただし、諸人の言う話はそのたびに内容が変わるので、今のところは善九郎(康成)の見解は筋が通っていること、あのような高所に敵が執着するとは考え難いこと、いずれにせよ、今は五・六百名ほどを加勢されるのが適切であること、ただ今は第一の初口(防衛線)は(小足柄)になったと、聞いて理解したこと、一、(康成ら)大将陣はどの場所に構えるのが適切であるかということ、峠には陣庭がないので、地蔵堂辺りが適切ではないかと、(小田原からは)地形が見えないので、推測したまでであること、よくよく(様子を)見届け、早々に知らせるべきこと、また、大手(氏政)へも取り急ぎ使いをもって派遣して申し上げられるべきこと、一、深沢城(駿河国駿東郡御厨地域)へ後詰めを向かわせるとしたならば、坂の中腹に一千・三千も配備できる地形があるかどうか、ここを聞き届けたいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』1358号「岡部和泉守殿・大藤式部少輔殿」宛北条「氏康」書状)。

24日、別して岡部和泉守へ宛てて書状を発し、敵陣の様子を頻繁に知らせるのが肝心であること、今日の様子を重ねて知らせるべきこと、(深沢城の)後詰めの催しを敵陣へ悟られてはならないこと、(城将の)四郎(氏光。氏康の弟である左衛門佐氏堯の子で、父の死後、兄の六郎氏忠と共に氏康の養子となったらしい)にもこの筋目を言い含めるべきこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文後北条氏編二』1363号「岡部和泉守殿」宛北条「氏康」書状)。


※ 『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』は1358・1363号文書を永禄12年に置いているが、黒田基樹氏の論集である『戦国期東国の大名と国衆』(岩田書院)の「第Ⅰ部 第四章 北条氏の駿河防衛と諸城」に従い、元亀元年の発給文書として引用した。 



この間、敵対関係にある甲州武田信玄(法性院)は、12月7日、下総国衆の簗田洗心斎道忠(中務大輔晴助。下総国葛飾郡の関宿城を本拠とする)へ宛てて起請文を発し、敬白起請文のこと、一、相馬(下総国衆の相馬治胤)遺跡ならびに要害(下総国相馬郡の守屋城)を、貴辺(簗田道忠)が御本意(領有)の件については、(武田信玄が)里見義弘と相談し合い、(簗田の本意が遂げられるように)精励すること、特には一国の内であったとしても、(彼の遺跡ならびに要害を)誰人にも干渉させず、末代まで任せ置くつもりであること、つまりは、房州(里見義弘)へ御入魂を示すのが肝心であること、一、腹黒い人物がいて、図らずも(簗田の讒言を)申し立てたならば、(相手に)何度でも糊付けの書状をもって問い質すつもりであること、また、(簗田にも)承るつもりであること、一、(簗田からは)証人を所望しないこと、一、(簗田が)苦境に陥った際には、見放さず、念入りに引き立てるつもりであること、一、信玄が(関東へ)戦陣を催した時に、洗心斎も相馬の一件が落着したうえで、同陣してくれるのならば、馬を納める折には、即座に帰宅してもらうこと、以上、右を偽ったならば、諸神の御罰を蒙るものであること、よって、起請文に前記した通りであること、(『戦国遺文 武田氏編三』1630号「洗心斎」宛武田「信玄」起請文)。


これからしばらくして駿河国深沢城を攻めるために出陣し、同御厨地域の瀧之瀬(滝之沢)に本陣を構えると、18日、同阿多野原へ進陣している。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『戦国遺文 武田氏編 第三巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』(東京堂出版)

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