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越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(謙信)の年代記 【元亀元年10月〜同年12月】

2014-06-23 01:17:00 | 上杉輝虎の年代記

元亀元年(1570)10月 越後国(山内)上杉謙信(不識庵)【41歳】


〔謙信、上野国沼田の城衆に対し、人数が二手、三手と重ねて上田の近くまで到着したので、近日中に関東へ入ることを伝えるとともに、地下人の15歳から60歳までの者たちを駆り集めることを命ずる〕

10月10日、越後国上田陣から、上野国沼田城の在城衆の河田伯耆守重親・小中彦右兵衛尉・竹沢山城守・発智右馬允長芳、番手の新発田右衛門大夫、先衆の本庄清七郎・栗林次郎左衛門尉房頼・板屋修理亮へ宛てて返状を発し、(甲州武田)信玄が(利根川)を越河したとの(沼田からの)注進が届き、それを承知したこと、前々から飛脚をもって申し遣わした通り、身(謙信)の受領する人数が、(越後国魚沼郡波多岐庄)河治の地まで二手、三手と重ねて打ち着いたので、明後日のうちの越山を合議で決めたこと、その庄(沼田領)の至る所へ馬乗(馬上)に触れを廻らされ、地下人の15歳から60歳までの者たちを招集するべきこと、無禄の者であるならば、言うに及ばず、たとえ扶助されている者であろうとも、このたび心懸けて駆け回るにおいては、身の程に応じて附属させること、このくだりを皆々へ申し聞かせるのが何より重要であること、越山が遅延することはないにより、いかにも安心してほしいこと、これらを謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』946号「新発田右衛門大夫殿・本庄清七郎殿・河田伯耆守殿・小中彦右兵衛尉殿・竹沢山城守殿・発智右馬允殿・栗林次郎左衛門尉とのへ・板屋修理亮とのへ」宛上杉「謙信」書状写)。


〔謙信、越山して関東に入る〕

10月20日、越山して関東へ入ったところ(『上越市史 上杉氏文書集一』948号 上杉謙信条書)、上野国沼田・厩橋城を攻撃していた甲州武田軍は落居を諦めて、武蔵国鉢形領の攻撃に向かっている(『戦国遺文 武田氏編三』1743号 武田家朱印状写、1744号 武田信玄書状)。


〔謙信、関東代官の北条高広に対し、越・相両軍が同陣して甲州武田領へ攻め入るので、手配りすることを命ずるとともに、信濃・越中口の差配を任せた上杉景虎を関東へ呼び寄せるため、越府へ使者を遣わしたことを伝えている〕

10月24日、上野国沼田城から、上野国厩橋城に駐在させている関東代官の北条丹後守高広(上野国群馬郡の厩橋城の城代)へ宛てて条書(朱印状)を発し、覚、一、(甲州武田)信玄が(上野国東郡へ)出張してきて、これにより、去る20日に越山したところ、程なく敵は退散してしまい、このうえはまたとない相・越両軍が同陣を催し、(北条高広は)その手配に及ぶべき事、一、(上杉三郎)景虎に信・越(信濃・越中)両口の差配を任せるため、越府に差し置いたこと、さりながら、ようやく(降雪期を迎えて)越山を許したにより、まずは愚老(謙信)が(越府へ)使者をもって申し届けた事、一、いかにも戦陣においては、思い極めている事、これらの条々を申し伝えた。以上、さらに追伸として、右は、風雪の激しい時分の越山であり、路次中(露営)に寒風が吹き付け、手が震えるので、書状を(花押ではなく)印判にて申し届けたこと、已上、これらを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』948号 上杉謙信条書【印文「摩利支天 月天子 勝軍地蔵」】)。


結局、越・相両軍の同陣は合意に達せず、謙信は帰国の途に就き、遅くとも11月下旬までには帰府した。そして、上杉景虎は関東へ入ったとしても、元亀2年正月に在府しているのは確かであるから、関東に残るようなことはなく、謙信と一緒に帰府したのであろう。



こうしたなか、越後国上杉家からの使僧である玄正が、同盟相手である三州徳川家康(遠江国敷知郡の浜松城に本拠を置く)の許に到着したことを受け、家康が起請文を認めている。これから遠くないうちに、起請文を携えて玄正が越後国へ戻り、越・三同盟が正式に成立した。

10月8日、遠江国浜松城において三州徳川家康(三河守)が、越府春日山城の輝虎(越後国上田で滞陣中)へ宛てた起請文を調え、敬白 起請文、右は、このたび愚拙(徳川家康)の心腹の通りを、権現堂(叶房光播)をもって申し届けたところ、御啐啄(互いの心が投合)は本望である事、一、(甲州武田)信玄への手切れを、家康は深く思い定めているので、いささかも嘘偽りない正直な思いは確かな事実である事、一、(濃州織田)信長と輝虎(謙信)が御入魂の間柄であるように、力の及ぶ限り意見するつもりであること、甲(武田家)と尾(織田家)の縁談の件も、立ち消えとなるように、それとなく忠告するつもりである事、もしこの旨を偽るにおいては、諸神の御罸を蒙るものであること、よって、前記した通りであること、これらの条々を誓約している(『上越市史 上杉氏文書集一』942号「上杉殿」宛徳川「家康」起請文)。

10月8日、三州徳川家康が、越後国上杉家側の取次である直江大和守景綱(越後国上田で滞陣中の輝虎に従っているであろう)へ宛てた初信となる書状を調え、これまで申し上げてこなかったとはいえ、このたび幸便を得たので申し入れること、もとより輝虎が御内意の条々を書き載せられたこと、一つ残らず納得できたこと、その一編ごとを河田豊前守(長親。輝虎の最側近で、越中国代官を任されている)へも申し達したこと、(河田長親は)越中在国ゆえ、貴辺(直江景綱)から承ることになったそうであり、祝着に存ずること、今後は(直江へ)申し入れること、力の及ぶ限り(取り成しに)駆け回られるのが肝心であること、貴国(越後国上杉家)から仰せ越された条々を、もれなく御使僧(玄正)に附与したので、かならずや深く申し述べられるであろうこと、委細は再便の時を期すること、これらを恐れ謹んで伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』943号「直江大和守殿」宛徳川「家康」書状写)。


10月8日、三州徳川家康の使僧である権現堂光播が、直江大和守景綱へ宛てた書状を調え、この秋中に参上したところ、御世話に預かり、過分の極みであったこと、よって、このたび御使僧が到来されたのは、此方(徳川家)においても、祝着であると申されていること、それからまた、(秋中に)委細の言上の旨をもれなく酒井左衛門尉方(忠次。三河国吉田城を本拠とする譜代の重臣)ならびに石川日向守方(家成。遠江国懸川城の城代を任されている)・同伯耆守方(数正。家成の甥)が申し入れたところ、とりもなおさず(直江景綱が謙信へ)御取り成しに預り、 その御屋形様(謙信)の御意次第に落着し、ますます御入魂の趣は、よくよく御貴所(直江)の御取り成しが肝心であるとのこと、何はともあれ(家康は)御誓約の件を、確実に進められたので、諸事は来春中に愚僧が仰せ越される旨であり、このたび其方(越後国上杉家)から御馬を下されたこと、格段に遠路を行くので、此方の名誉といい、あちらこちらで言広めていること、諸事万端に関しては、玄正の口上に頼み入るにより、この紙面は省略したこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、返す返すも、 上様(謙信)へ様態の御披露を願うところであること、ことさら御鷹などを御手配して下されたこと、(家康は)祝着であると申されていること、酒井左衛門尉方へ下された御鷹も誉れ高いとの評判であること、これらを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』944号「直江大和守殿 参御宿所」宛「権現堂 叶」書状)。


10月8日、遠江国浜松城に滞在している酒井忠次が、越後国上杉家側の取次である村上源五国清(越後国上田で滞陣中の輝虎に従っているであろう)へ宛てた書状を調え、御意の通り、これまで申し交わしていなかったところ、御札に預かり、本望の極みと存じ上げること、よって、輝虎様と家康の間で格別な御入魂を遂げ、拙者(酒井忠次)のような下輩の者まで、大慶に勝るものはないこと、いかようにも疎意には思われないので、御取り成しを頼み入ること、それからまた、(謙信からの)御書、ことさら御鷹を下されたこと、過分の極みであり、感謝してもしきれないこと、なお、こちらから重ねて申し入れるにより、(この紙面は)省略したこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』945号「村上源五殿 御報」宛酒井「忠次」書状)。




同じく、10月22日、美濃国岐阜城の濃(尾)州織田信長から書状(謹上書)が発せられ、弟鷹(大鷹の雌)二聯山廻・青を据えて給わったこと、祝着の極みであること、珍重して大切に扱っていること、毎度、このような次第で、御懇慮は感謝してもしきれないこと、条々で示された入魂が成就するための趣は、大慶であること、なお、これより申し述べるつもりなので、筆を置くこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』819号「謹上 上杉弾正少弼殿」宛織田「弾正忠信長」書状【封紙ウハ書「謹上 上杉弾正少弼殿 弾正忠信長」】)。



この間、敵対関係にある甲州武田陣営では、10月12日、上野国西郡へ出陣した甲州武田信玄(法性院)が、下野国唐沢山に在城している佐野昌綱(下野国安蘇郡の唐沢山城に拠る下野国衆)へ宛てた条書を使者に託し、一、このたび催す戦陣の模様(計画)の事、この補足として、藤田(武蔵国榛沢郡。鉢形藤田氏領)・秩父(武蔵国秩父郡。同前)・深谷(武蔵国幡羅郡。深谷上杉氏領)領域の耕作を薙ぎ払う事、一、利根川の増水ゆえ、この時節に越河できず、途方もなく心残りである事、この補足として、漆原(上野国群馬郡桃井郷)に陣取り、厩橋領(上野国群馬郡厩橋郷)を放火するつもりである事、一、越後衆が(下野国)へ出張したならば、(信玄は)ためらわずに当国(下野国)へ出馬する事、この補足として、(信玄が下野国へ出馬した場合の)手立ての模様(計画)の事、これらの条々を申し合わせている(『戦国遺文 武田氏編三』1743号「佐野殿」宛武田家朱印状写)。

10月27日、武蔵国在陣中の甲州武田信玄が、関東某所の一色 某へ宛てて書状を発し、去る20日以前にも申し上げたこと、参着したのかどうか気になっていること、よって、上州沼田(利根郡沼田庄)・厩橋を残らず撃砕し、去る19日から昨日に至るまで、武州秩父郡に在陣し、彼の領域の人民を分断させるような手立てに及んだこと、かならずや御安心してほしいこと、この時節に鎌倉(相模国東郡)の地に着陣し、御意見を得るつもりであったとはいえ、十分な戦果を得られたので、まずは帰陣し、来月中旬にすぐにも小田原(相府)へ攻め懸かるので、江戸(武蔵国豊島郡)の辺りにおいて面談したいこと、委細は使者をもって申し述べるにより、(この紙面は)省略したこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編三』1744号「一色殿」宛武田「信玄」書状)。


この一色氏は、鎌倉公方足利義氏の重臣である幸手一色八郎義直(下総国葛飾郡の幸手城を本拠とする)とされている。幸手一色氏は、信玄に通じていたということなのだろうか。


※『戦国遺文 武田氏編』等は1743・1744号文書を元亀2年に比定しているが、柴辻俊六氏の論集である『戦国期武田氏領の形成』(校倉書房)の「第一編 権力編成と地域支配 第七章 越相同盟と武田氏の武蔵侵攻」に従い、元亀元年の発給文書として引用した。


※ 同じく1743文書の解釈については、鴨川達夫氏の著書である『武田信玄と勝頼 ―文書にみる戦国大名の実像』(岩波新書)の「第二章 文書はこう読め 一 正確な読解 ―小さな不注意から文意が正反対に」を参考にした。



元亀元年(1570)11月 越後国(山内)上杉謙信(不識庵)【41歳】


〔謙信、上田衆の栗林房頼に対し、甲州武田軍がまた出陣してきたそうなので、上野国沼田領へ攻め込んでくるのならば、迅速に沼田城へ加勢に向かうことを命ずる〕

関東で越年することなく、帰府していたところ、甲州武田軍が上野国へ出陣したとの報に接し、11月24日、越府春日山城から、やはり関東から越後国坂戸城(魚沼郡上田庄)に戻っている上田衆の栗林次郎左衛門尉房頼へ宛てて書状を発し、倉内(上野国沼田城)へ飛脚を遣わすのを頼んだところ、とりもなおさず、(飛脚を)立ててくれたそうであり、祝着であること、よって、信玄が重ねて上州へ出張したそうであり、信・越国境から伝わってきた情報なので、沼田の庄内へ攻め込んでくるにおいては、迅速に来援するのが肝心であること、これらを賢みて申し伝えた(『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』950号「栗林次郎左衛門尉とのへ」宛上杉「謙信」書状【花押a4】)。



元亀元年(1570)12月 越後国(山内)上杉謙信(不識庵)【41歳】


〔謙信、来春に越中国へ出馬する折には、留守中の越後・関東が平穏無事で、越中を思いのままに平らげたならば、明けて一年間は経文を員数の通りに読誦することを宝前に誓う〕

12月13日、越府春日山城(越後国頸城郡)の御宝前(看経所)に看経の次第を納め、一、阿弥陀如来の真言三百遍・念仏千二百篇・仁王経一巻、一、千手観音の真言千二百篇・仁王経二巻、一、摩利支天の真言千二百篇・摩利支天経二巻・仁王経一巻、一、日天子の真言七百遍・仁王経二巻、一、弁才天の真言七百遍・仁王経二巻、一、愛宕勝軍地蔵の真言七百遍・仁王経二巻、一、十一面観音の真言七百遍・仁王経二巻、一、不動明王の真言七百遍・仁王経二巻、一、愛染明王の真言七百遍・仁王経二巻、いづれも来春の二・三月に、越中へ馬を出し、留守中に、当国・関東が何事もなく無事にて、越中が存知のまま一遍(一挙)に謙信の手に入ったならば、明けて一年間は、かならず日々看経(読誦)することを誓った(『上越市史 上杉氏文書集一』953号「御ほう前」上杉「謙信」願書【花押a4】)。


秋中に志賀の陣で苦境に立たされていた将軍足利義昭から救援を求められたこともあって、何とかして上洛したい謙信は、相州北条家との盟約は放っておいても、越中国を安定させなければならなかったのであろう。



12月21日、越府の奉行衆である飯田長家・河隅忠清・五十嵐盛惟が、越後国平林に在城している色部弥三郎顕長(揚北衆。越後国瀬波(岩船)郡の平林(加護山)城を本拠とする外様衆)へ宛てて年貢請取状を発し、納めた頸城郡内の大貫村山の御年貢を受け取ったこと、都合六貫文、というわけで、右を、御蔵において御百姓がすべて納めたこと、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』955号「色部弥三郎殿 参」宛「飯田長家・河隅忠清・五十嵐盛惟」連署請取状)。



この間、分国の越中国魚津領では、12月10日、越中国魚津城に駐在させている越中国代官の河田長親(豊前守)が、重臣の山田平左衛門尉に証状を与え、(越後国)古志郡給分の替地として、(越後国頸城郡)保倉北方へ出し置くこと、知行をするものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』952号「山田平左衛門尉殿」宛河田「長親」知行宛行状)。


12月13日、河田長親が、伊勢神宮へ宛てて証状を発し、一、(越中国新川郡)上条の保飯坂村のうちの八拾俵一斗五の所、ただし、このうち引物は前々の通り、一、同保同村のうち六十八俵の所、ただし、このうち引物は前々の通り、一、(越中国新川郡)小出の保高寺村のうち三俵の所、一、(越中国新川郡)佐味郷浦山本光院方の内屋敷(以下、一部の文字が欠損している)武十在の所、一、(越中国新川郡)藤の保折立村のうち禅徳寺の所、以上、右の所を寄進申し上げるものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』954号 河田「長親」寄進状)。



この間、同盟関係にある相州北条陣営では、12月18日、相府小田原城の相州北条氏康(相模守)が、駿・相国境の相模国足柄城(西郡)に在番する岡部和泉守(今川氏真の旧臣)・大藤式部丞政信(諸足軽衆の筆頭。相模国西郡の田原城を任されている)へ宛てて書状を発し、今18日付の(玉縄北条善九郎康成からの)注進状が夕暮れ時に到着したこと、敵(甲州武田軍)は本陣を構えていた瀧之瀬(駿河国駿東郡鮎沢御厨須走の滝之沢)から阿多野原に打ち出してきたそうであること、これにより、(氏政は)善九郎・孫二郎兄弟(北条康成・康元)を小足柄(相模国西郡足柄峠)に上らせたそうであること、これは前々から(氏政は両名を)留め置く考えであり、萱野の地より後方に下がらせるつもりはないらしいこと、ただし、諸人の言う話はそのたびに内容が変わるので、今のところは善九郎(康成)の見解は筋が通っていること、あのような高所に敵が執着するとは考え難いこと、いずれにせよ、今は五・六百名ほどを加勢されるのが適切であること、ただ今は第一の初口(防衛線)は(小足柄)になったと、聞いて理解したこと、一、(康成ら)大将陣はどの場所に構えるのが適切であるかということ、峠には陣庭がないので、地蔵堂辺りが適切ではないかと、(小田原からは)地形が見えないので、推測したまでであること、よくよく(様子を)見届け、早々に知らせるべきこと、また、大手(氏政)へも取り急ぎ使いをもって派遣して申し上げられるべきこと、一、深沢城(駿河国駿東郡御厨地域)へ後詰めを向かわせるとしたならば、坂の中腹に一千・三千も配備できる地形があるかどうか、ここを聞き届けたいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』1358号「岡部和泉守殿・大藤式部少輔殿」宛北条「氏康」書状)。

12月24日、別して岡部和泉守へ宛てて書状を発し、敵陣の様子を頻繁に知らせるのが肝心であること、今日の様子を重ねて知らせるべきこと、(深沢城の)後詰めの催しを敵陣へ悟られてはならないこと、(城将の)四郎(氏光。氏康の弟である左衛門佐氏堯の子で、父の死後、兄の六郎氏忠と共に氏康の養子となったらしい)にもこの筋目を言い含めるべきこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文後北条氏編二』1363号「岡部和泉守殿」宛北条「氏康」書状)。


※ 『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』は1358・1363号文書を永禄12年に置いているが、黒田基樹氏の論集である『戦国期東国の大名と国衆』(岩田書院)の「第Ⅰ部 第四章 北条氏の駿河防衛と諸城」に従い、元亀元年の発給文書として引用した。 



この間、敵対関係にある甲州武田陣営では、12月7日、甲府の甲州武田信玄(法性院)が、下総国関宿に在城している簗田洗心斎道忠(中務大輔晴助。下総国葛飾郡の関宿城を本拠とする下総国衆)へ宛てて起請文を発し、敬白起請文の事、一、相馬(下総国衆の相馬治胤)遺跡ならびに要害(下総国相馬郡の守屋城)を、貴辺(簗田道忠)が御本意(領有)の件については、(武田信玄が)里見義弘と相談し合い、(簗田の本意が遂げられるように)精励すること、特には一国の内であったとしても、(彼の遺跡ならびに要害を)誰人にも干渉させず、末代まで任せ置くつもりであること、つまりは、房州(里見義弘)へ御入魂を示すのが肝心である事、一、腹黒い人物がいて、図らずも(簗田の讒言を)申し立てたならば、(相手に)何度でも糊付けの書状をもって問い質すつもりであること、また、(簗田にも)承るつもりである事、一、(簗田からは)証人を所望しない事、一、(簗田が)苦境に陥った際には、見放さず、念入りに引き立てるつもりである事、一、信玄が(関東へ)戦陣を催した時に、洗心斎も相馬の一件が落着したうえで、同陣してくれるのならば、馬を納める折には、即座に帰宅してもらう事、以上、右を偽ったならば、諸神の御罰を蒙るものであること、よって、起請文に前記した通りであること、これらの条々を誓約している(『戦国遺文 武田氏編三』1630号「洗心斎」宛武田「信玄」起請文)。


このあと甲州武田信玄は、駿河国深沢城を攻めるために出陣し、同国御厨地域の瀧之瀬(滝之沢)に本陣を構えると、12月18日には同国阿多野原へ進陣している。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『戦国遺文 武田氏編 第三巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』(東京堂出版)

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