越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

新発田駿河守と新保駿河守について

2014-06-05 23:59:15 | 雑考
 
 『上杉家御年譜』の【御家中諸士略系譜】によると、新保駿河守盛喜は、上杉景勝に対して反乱を起こした越後奥郡国衆の新発田因幡守重家の弟であり、天正15年10月25日に兄の新発田重家が敗死したのち、景勝に降って許されると、新発田苗字を憚って母方の新保苗字に改めたという。

 ところが、新発田駿河守は、天正10年5月24日に上杉景勝から、このたび先忠に復した恩賞として、新発田因幡守重家を滅亡させたあかつきには、佐々木加地一族の宗家である加地氏の一跡のうち、先ずは越後国蒲原郡の沼垂と新潟の地を宛行うことと、先代である新発田尾張守長敦の娘に相応しい婿を迎えた上で名跡を立てさせ、その後見に据えることを約束されており、新発田重家が敗死するかなり前から上杉景勝に降っているのである。またそればかりか、【越後三条山吉家伝記之写】所収の慶長8年7月7日付水原常陸介宛山吉景長御奉公書によると、再び兄の重家に味方した新発田駿河守は、山吉勢に新潟・沼垂両城を乗っ取られた際に戦死しており、天正14年7月に新発田攻略の最前線を担う甘糟近江守長重(越後国三条城代)と山吉玄蕃允景長(同木場城将)の攻撃を受けて敗死してしまったことになる。

 その一方では、【覚上公御書集】所収の「御陣営備定覚」によると、新保駿河守が、新発田駿河守の敗死した直後である天正14年8月に上杉景勝の新発田攻略に従軍しているのである。この新保駿河守は【御家中諸士略系譜】の新保氏系図の流れからすると、明らかに、かつて上杉謙信から「景」の一字を付与された譜代衆の新保孫六であり、とても新発田駿河守と新保駿河守が同一人物であるとは思えない。

 これらの通り新発田駿河守と新保駿河守が別人であるならば、【文禄三年定納員数目録】に記載された新保四郎左衛門(色部氏の同心で平林城の在番衆)の注記によると、四郎左衛門は新保駿河守と新発田駿河守の娘の間に生まれた子であるから、こうした事実が誤って伝えられたのではないだろうか。

※ 本来ならば、色部氏には根本被官の新保氏がいたことから考えて、記載から漏れてしまったらしい新保駿河守の子に付されるべき注記であったろう。


『上杉家御年譜 第23巻 上杉氏系図 外姻譜略 御家中諸士略系譜1』◆『三条市史 資料編 第二巻 古代中世編』410号 笹堀御陣営御備定覚(写)、〔参考史料1〕米沢上杉家之藩山吉家伝記之写 ◆『新潟県史 通史編2 中世』◆『新潟県史 資料編4 中世二』2026号 色部長倫申状写 ◆『新潟県史 別編3 人物編』 一 文禄三年定納員数目録 ◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』1433号 上杉謙信名字状(写)、1434号 上杉謙信一字書出(写) ◆『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2383号 上杉景勝判物(写)、3122号 上杉景勝書状、3200号 豊臣秀吉直書、3201号 石田三成・増田長盛連署状、3202号 豊臣秀吉朱印状
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