越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

「公方御要害」

2014-06-18 21:40:09 | 雑考
 
【史料1】新津景資起請文
今度雑意前後共、一切不存候処、如此一義出来、 歎ヶ敷奉存候、前々も御後闇事無之候、於向後も争別意可奉存候哉、然者、千田・平賀家風申合、御被官同前可走廻候、万一偽而申上候者、
上梵天・帝尺・四大天王・惣而日本国中大小神祇、別而八幡大菩薩・春日大明神・天満大自在天神・諏方上下大明神、殊当国鎮守関山権現・弥彦・二田大明神蒙御罰、於今生者、請白癩黒癩病、至于来世者、永可令堕罪者也、仍起請文如件、
   大永六      新津上総介
    正月十一日       景資(花押・血判)


 大永6年正月11日、越後守護代の長尾為景から反乱の企てに荷担していることを疑われた越後奥郡国衆の平賀新津上総介景資(越後国新津城主)は、長尾為景に対して起請文を差し出し、このたび糾問された謀議についての一切の関与を否定して、嫌疑をかけられたことへの遺憾の意を表するとともに、いささかも後ろめたい所はなく、今後も反意など抱くことはあり得ないとして、同族の千田・平賀家中と協調して為景の被官同前に奮励することを誓っている。


【史料2】千田憲次・豊島資義連署起請文
就新津別義御尋、忝奉拝候、然而、彼一義毛等不存義候、於向後も、自他国共雑意出来候者、幸公方御要害候間、従府内御人体申請、実城指置申、我等親類共、抽粉骨可走廻候、其外対 殿様申、御後闇事不可存之候、於以後も、非分雑意申懸事可在之候間、飜宝印申上者、
上梵天・帝尺・四大天王・惣而日本国中之、大小神祇、別而八幡大菩薩・春日大明神・天満大自在天神・諏方上下大明神・殊当国鎮守関山権現・弥彦・二田大明神蒙御罰、於今生者、請白癩黒癩病、至于来世者、永可令堕罪者也、仍起請文如件、
   大永六     豊島次郎左衛門尉
    正月十一日         資義(花押・血判)
           千田 蔵 人 佐
                  憲次(花押・血判)


 同日、平賀一族の千田蔵人佐憲次・豊島次郎左衛門尉資義も長尾為景に対して起請文を差し出し、このたび新津景資にかけられた嫌疑については全く関知しておらず、これからも国内外で有事が起こった際には、幸いにして当地は「公方御要害」ゆえ、府内から然るべき指揮官を実城(主郭)に招請した上で、一族結束して忠勤を励むことと、これからは殿様(為景)に疑念をもたれないように注意を払うことを誓っている。

 こうした長尾為景の威圧によって認められた千田憲次・豊島資義の起請文にみえる「公方御要害」とは、平賀氏が拠ったと伝わる越後国蒲原郡金津保の大要害・護摩堂城と考えられ、平賀一族による起請文の内容や、これまでに起こった越後の大乱に於いて、必ずと言って良いほど攻防の地となっていた事実から察するに、同じ蒲原郡内の三条城・黒滝城と並び、越後国守護の上杉氏から有事の城郭に指定されていたようである。

 このように「公方御要害」の護摩堂城は、永正年間に起こった数度の大乱を通じて皮肉にも長尾為景方の一大拠点であり続けたが、享禄・天文の乱では平賀一族が誓詞を反故にして反対勢力を支持したことから、同じく反対勢力に属した揚北衆(阿賀野川以北の越後奥郡国衆)の本庄大和守房長や色部弥三郎勝長らが交替で詰めたのである。

※ 平賀一族の宗家である平賀氏の起請文は残っていないようであるが、平賀氏が揚北衆と共に護摩堂城に拠っていたことは本庄房長の書状によって確認できる。


『日本城郭大系7 新潟・富山・石川』(新人物往来社)◆『新潟県史 資料編3 中世一』233号 新津景資起請文、234号 千田憲次・豊島資義連署起請文 ◆『新潟県史 資料編4 中世二』1094号 本庄房長書状

※『新潟県史』1094号は年次未詳であるが、発給者の本庄房長は享禄4年正月に対馬守から大和守に改称していることと、房長は天文8年に死去したことに加え、受給者の色部勝長は文書上の活動始期が天文4年であるため、天文の乱当時に於ける発給文書として引用した。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする