『越佐史料』所収の〔新発田系図〕によると、新発田駿河守の母は、越後奥郡国衆の中条氏の庶族である築地修理亮資豊の娘といい、駿河守は、天正15年7月に甘糟近江守長重・山吉玄蕃允景長の手勢によって討ち取られたとも、同年10月28日に新発田因幡守重家が滅亡した直後に助命されて、同じく越後奥郡国衆の色部修理大夫長真に預けられたともいう。
このように、新発田駿河守の母が築地修理亮の娘であるというのは、築地修理亮が新発田重家の乱に於いて、一旦は誼ある重家に味方していた事実から、十分に納得できる。
そして、駿河守が助命されたのちに色部氏の許に預けられたとの一説(【御家中諸士略系譜】の新保氏系図にも記述されている)については、確かに文禄年間の色部氏の同心衆に新保四郎左衛門がいるものの、前項で述べたように、元々から色部氏の被官には新保氏が存在していたし、更には、新保駿河守の子が四郎左衛門を称した形跡はないので、やはり事実とは考えにくい。
※ 色部氏の同心衆とはいっても、その顔ぶれの殆どは色部氏の一族と被官である。
『越佐史料 巻6』◆『上杉家御年譜 第23巻 上杉氏系図 外因譜略 御家中諸士略系譜1』◆『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2543号 新発田重家書状(写)、2547号 上杉景勝書状