越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

『上越市史 上杉氏文書集』に未収録の謙信関連文書【7】

2023-04-15 23:54:59 | 雑考


【史料1】天正4年6月12日付七里三河法橋宛足利義昭御内書(福岡県 万行寺文書)
至当国移座処、毛利令馳走、既海陸及行候、然者、此節加・越遂無事、其国可抽忠勤肝要候、委細藤安可演説候、猶昭光可申候也、
    六月十二日              (花押)
     七里三河法橋


 備後国鞆の地に移座したばかりの足利義昭が、摂州大坂本願寺の坊官で「加州大将」の七里頼周へ宛てて御内書を発し、加賀国一向一揆が越後国上杉家との無事を遂げて忠勤を励むように下知したもの。側近の大館藤安が使者として加賀国金沢御堂へ遣わされ、やはり側近の真木嶋昭光が副状を送っている。 


【史料2】天正4年7月25日付毛利右馬頭宛足利義昭御内書(毛利家文書)
今度差上〔舟+當〕兵、敵船早速切崩、数多討捕段、喜入候、為其指下一色宮内少輔候、諸士粉骨神妙之旨、褒美肝要候、次輝虎言上之通、委細秀政・昭光可申越候也、
    七月廿五日      (花押)
   毛利右馬頭とのへ


【史料3】天正4年7月25日付吉川駿河守宛足利義昭御内書(吉川家文書)
今度差上〔舟+當〕兵、敵船早速切崩数多討捕段、無比類旨、対輝元可申聞、為其指下一色宮内少輔候、諸士粉骨神妙之由、褒美肝要候、次輝虎言上通、委細秀政・昭光可申越候也、
    七月廿五日      (花押)
   吉川駿河守とのへ


【史料4】天正4年7月25日付吉川駿河守宛足利義昭側近副状(吉川家文書)
  (封紙ウハ書)
  「        上野大和守
           真木嶋玄蕃頭(実名の記入はない)
   吉川駿河守殿      秀政」
至大坂表被差上兵船、敵即時被切崩、数多被討捕之段、無比類被 思食候、仍被成 御内書、被差越一色宮内少輔候、今度被励戦功対諸士、御褒美肝要旨候、将亦、上杉・加州和与之儀、被加御下知処、被及御請、既向越前口、可致出勢由言上候、委細被仰含昭辰候、猶得其意可申由被仰出候、恐々謹言、


 越後国上杉家と加賀国一向一揆の和与が成立したことが足利義昭に伝わり、これを義昭および側近の上野秀政と真木嶋昭光が芸州毛利家に伝えたもの。毛利家には使者として、やはり側近の一色昭辰が遣わされている


【史料5】(天正4年ヵ)7月28日付真木嶋玄蕃頭・一色駿河守宛本願寺顕如書状(龍谷大学図書館所蔵 江戸浄林寺文書 顕如上人文書纂)
急度令啓上候、仍今度芸州警固船早速被相催、歴々衆渡海候、殊為合力、兵粮等厳重之儀申謝候、随而於海上及一戦、敵船悉被打果候事、無比類高名、并上意御威光之故候、当寺門下・紀州兵船相共、抽戦效〔功〕候、可然様御執成専用〔要〕候、其節之儀、加太豊前守存知之事候条、可有言上候、就中御太刀一腰、御馬一疋鹿毛、進上之候、聊表祝儀計候、於此上、播州陸路之、肝要存候、弥可被上意候、北国謙信事、近日越前表可有出張候、猶以三和之儀、此刻候、甲州之儀、八月中尾・濃必定出馬▢▢、一両日已然申越候、諸口之儀▢▢分急申候、吉事近々可申入候、此等之旨、宜有披露候、恐々謹言、
    七月廿八日                光佐(花押影)
     一色駿河守殿
     真木嶋玄蕃頭殿


 本願寺顕如が足利義昭に対し、上意の御威光により、芸州の警固船団が織田軍の船団を破って、兵粮を送り込んでくれたことへの謝意を表するとともに、反信長陣営の上杉や武田が続々と出馬する手筈であること伝えたもの。【史料4】で謙信が「上杉・加州和与」の御下知を承り、すでに「越前口」ヘ向けて出勢するつもりであると言上したのと同じく、この【史料5】でも、顕如曰く「北国謙信」は近いうちに「越前表」へ向けて出馬することを陣営に伝えていたわけで、発給年次は天正4年で問題はないと思われる。


◆『加能史料 戦国16』(加能史料編纂委員会編)262頁 七里三河法橋宛足利義昭御内書、279頁 真木嶋玄蕃頭・一色駿河守宛本願寺光佐書状
◆『戦国遺文 瀬戸内水軍編』(東京堂出版)462号 毛利右馬頭宛足利義昭御内書、463号 吉川駿河守宛足利義昭御内書、464号 吉川駿河守宛足利義昭側近副状

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