越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(旱虎)の年代記 【永禄13年3月】

2013-12-09 12:41:25 | 上杉輝虎(謙信)の略譜

永禄13年(1570)3月 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎。弾正少弼)【41歳】


5日、同盟交渉中の相手である北条相模守氏康・北条左京大夫氏政父子へ宛てて条書を発し、覚、一、三郎殿(氏康の末男。久野北条三郎。武蔵国橘樹郡の小机領を管掌する)の御支度が整うまでの間、氏邦(藤田新太郎氏邦。氏康の五男。武蔵国男衾郡の鉢形領を管掌する)を(下野国佐野陣へ証人として)寄越されるそうであり、これについて、柿崎父子(柿崎和泉守景家・同左衛門大夫。準一家に相当する重臣)のどちらか一人を(証人として)御所望されたこと、あれこれ考えあぐねていたのでは、つまりは他意を抱いているように捉えられかねないこと、ここまできたら、氏邦が(佐野に)在陣している間に、鉢形まで(柿崎左衛門大夫を)差し越すつもりであること、一、氏邦と柿崎の息子を取り替えられてから、(越後国上杉家は)西上州(甲州武田信玄)へ手切れ(越・甲和与の破談)を通告されて、柿崎の息子は(鉢形に)置かれたまま、三郎方を氏邦と取り替えて寄越されたいとの要望を承ったうえは、柿崎の息子は末代まで相府小田原に留め置かれるつもりであること、そのような手順を取るのであれば、三郎方の養子入りは徒労に終わってしまう恐れがあるのではないかと思われ、(北条)御父子に御支障がなければ、氏邦と柿崎の息子を取り替えられ、(甲州武田)信玄に対して(輝虎が)手切れを通告する以前に、御当陣で三郎方を氏邦と取り換えられてほしいこと、それならば、御父子の御真実は紛れもないものであること、詳細は篠窪(治部。北条家中)と須田(弥兵衛尉。輝虎旗本)が説明すること、愚老のめい(姪)を(三郎に)娶わせる約束については、いささかも違える考えはないこと、この補足として、柿崎の息子は、当陣にて氏邦と取り替えられ、なおかつ三郎方を寄越してくれれば、愚老にとって来世まで面目が施されること、以上、これらの条々を申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』888号「北条相模守殿・北条左京大夫殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a4】)。


同日、越中国魚津城(新川郡)の城衆の番替えに伴って該当者の三名のうち、二名が越後国府内(頸城郡)へ、一名が同藪神郷(魚沼郡上田荘)へと下るにあたり、諸領主が彼らの通交を妨げることがないように手配するところとなり、越中国代官を任せている河田豊前守長親(魚津城の城代でもある)が過書を発し、番替えの者三人、府内へ弐人、藪神へ壱人を下すこと、諸役所は相違があってはならないこと、よって、前述の通りであること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』889号「所々 領主中」宛河田「豊前守」長親判物)。


8日、相州北条氏康から、上野国沼田城(利根郡沼田荘)の城将である河田伯耆守重親(大身の旗本衆)へ宛てて条書が発せられ、覚、一、新太郎(藤田氏邦)と替わるため、柿崎左衛門大夫方が(相府へ)御越しになるわけで、本望であること、この補足として、(氏邦迎えの)御乗物一両を月内に(佐野陣へ)送らせるので、(柿崎左衛門大夫が)相府に御着きになるまでは(氏邦を)逗留させてほしく、(氏康の)愚存はこの一点に尽きること、一、(北条)父子はいよいよ(輝虎と)浮沈を共にする無二の間柄となるため、誓句をもって申し入れること、同じくは、血判を据える際に見届ける証
人を寄越してもらいたく、その眼前で誓詞に身血を染めて渡しておくこと、また、このたび未来永劫の御誓句を給わるための案文を送っておくこと、一、武・上の面々(武蔵・上野両国の国衆)には、後日に禍根を残さないように、(帰属関係を)いよいよ定め置かれるのが肝心であること、一、房・相和融の交渉状況については、先頃に申し入れたこと、かならず(房州との間を)御策媒(調停)されるのが適切であること、一、先だって太石惣介方(大石芳綱。輝虎旗本)に申し届けた通り、西上州の御戦陣については、このたび(越後国上杉軍は)御労兵であり、(武田領の)村々を制圧するのは難儀と思われるので、次回の御戦陣に期待していること、ただし、御思案(作戦の概要)のところは、早々に承りたいこと、この補足として、駿州の処置のこと、これらを申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』891号「河田伯耆守殿」宛 北条氏康条書案)。


9日、常陸国太田の佐竹義重の客将である太田美濃入道道誉(三楽斎。俗名は資正。常陸国新治郡の片野城主)の許へと再派遣した大石右衛門尉(輝虎旗本)へ宛てて書状を発し、取り急ぎ申し遣わすこと、先だって太田美濃守かたへ内密の輝虎書中を送ったところ、(道誉は)東方の味方中に開示し、その写しが(巡り巡って)由信かた(由良成繁)から河田伯耆守かた(重親)へ届いたこと、なるほど美濃守への信頼は失われたこと、あのように手を分けて申し遣わしたのは、一つには、味方中を離反させたくない意趣から、一つには、美濃守に再起してもらいたいとの真意から、申し届けたところ、あの通りにひろげ物にしてくとは、前日に言い含めた件をも、様子によって申し聞かせるべきこと、今後のためなので、しっかりと問い詰めるべきこと、今日の申刻(午後4時前後)に沼田から書状写(由良成繁が河田重親へ届けた輝虎が太田道誉に送った内密の書状の写し)を持たせた飛脚に、(大石右衛門尉を)追い駆けさせたこと、ひとえに美濃守の事は天罰者であること、今日までは(道誉を)頼もしく思っていたが、この先は諦めて放っておかれること、よって、このところをまずは源太方(梶原政景。太田道誉の子)に申し聞かせるべきこと、なお、めでたく万事が調ったあかつきに、また申し届けること、これらを恐れ謹んで申し伝えた。さらに追伸として、彼の意趣をくれぐれも大美父子に言い聞かせ、誓詞なりとも差し出させて覚悟を見届け、その本心を明らかにさせるべきこと、以上、これらを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』892号「大石右衛門尉殿」宛上杉「輝虎」書状写)。

同日、相州北条氏政から書状が発せられ、このたび証人として藤田新大郎(氏邦)を(越陣へ)参陣させるのに伴い、柿崎方(左衛門大夫)を寄越されるので、本望極まりないこと、これから越・相両国が未来永劫に浮沈を共にしていくにあたり、遠山左衛門尉(実名は康光。氏康の側近。小田原衆)をもって愚意を申し届けるので、十分に耳を傾けてもらい、御同意を得られれば、ひたすら喜ばしいこと、これらを懇ろに伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』893号)。

13日、相州北条氏政から書状が発せられ、このたび敢えて飛脚をもって申し届けること、西上州へ向かわれて武田領の村々を制圧してもらいたいところ、このたびは御労兵であるために難儀と思われたので、来る七月に挙行したい合同の大軍事作戦について、合否の判断となる事項を余さず申し届けたところ、藤田新太郎を通じ、西上州への大進攻を明言されたので、心から満足し、大いに喜んでいること、これにより、内々に拙者(北条氏政)も御戦陣を心掛けて人衆を集め、近日中に出陣したならば、敵地に向かって城塞を築くつもりであること、明言された通り、来月上旬中に西上州のうちに御馬を立てられるならば、なおいっそう満足であること、詳細については、御返答が寄せられ次第、その内容に則して申し届けること、これらを懇ろに伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』895号)。

15日、陸奥国白河の結城七郎義親へ宛てて、初信となる書状を発し、今まで申し交わしてこなかったこと、(それでもこのたび)一翰を馳せた意趣は、(常陸国太田の)佐竹義重とは長年にわたって相談し合う仲であり、(それにもかかわらず)このたびの同陣の習いにおいて、悉く言行不一致の態度を取り、これまでの交誼を台無しにしたこと、されば、(白河義親は下野国烏山の)那須資胤と格別に懇意にしているそうであり、輝虎も今後は(佐竹ではなく、白河と)申し合わせていきたいこと、これに御同意してもらえれば本望であること、(奥州会津の蘆名)盛氏父子(止々斎・盛興)との関係についても、おろそかにはしない考えであること、なお、詳細は北条丹後守(高広。関東代官を任されている)が申し届けること、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』503号「白川七郎殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a4】)。


当文書は、諸史料集において、永禄9年に仮定されていたり、翌10年に置かれていたりするが、前者の時期には、輝虎と佐竹義重は協議したうえで、2月の佐竹による小田城攻略に続き、3月の輝虎よる総州経略が行われていたこと(佐竹は義重の小田の戦後処理を見越して参陣は免除されており、代官が率いる佐竹軍が参陣した)、佐竹の小田城攻略が同陣を巡って対立するような状況ではなく、後者の時期には関東代官を任されていた北条高広が相州北条・甲州武田陣営に寝返っていたことから、別の年次にほかならず、それは、永禄12年6月の越・相同盟の成立により、輝虎の度重なる同陣要請に佐竹が応じようとしなかった当年の発給文書となろう。


同日、山吉豊守・河田重親が、相府に滞在中の進藤隼人佑家清へ宛てて条書を発し、一、遠左(遠山康光)と対談した須弥(須田弥兵衛尉)から、遠左は13日に、(藤田)氏邦は14日に参陣するとの連絡が寄せられたにも係らず、由信(由良成繁)からは17日であるとの連絡が寄せられており、(輝虎は)現状からすれば何れも御表裏と考えられているようであること、一、このように彼の国を信用できない以上は、西上州(甲州武田家)との対話を考えられていること、一、このほど全軍に対して、下野国佐野陣から上野国厩橋城への帰陣と南・越御一和の成就を表明されるが、今を判断の分かれ目と考えられており、佐野陣を解かれたあとには、(武田)信玄との和与の継続を選択されるかも知れないこと、これらについて説明している(『上越市史 上杉氏文書集一』896号「進隼 参御陣下」宛山吉「豊守」・河田「重親」連署条書写)。

16日、相州北条氏政が、藤田新太郎氏邦へ宛てて、去る10日付の注進状への返書を発し、すぐにでも遠左(遠山康光)を越陣へ派遣するべきところ、三郎が養子縁組にあれこれ難色を示したので、自ら丹念に説き勧めて三郎を納得させるに至り、今日漸く遠山を出立させたこと、彼の者が越陣に参向するからには、万事落着すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』1392号「新太郎殿」宛北条「氏政」書状)。


22日、このたび帰参を認めた上野国衆の赤堀上野介(上野国勢多郡の赤堀城主)へ宛てて証状を発し、(山内上杉家)譜代としての筋目を避けられないとの思いから、取り分け誓詞をもって帰参を申し出てきたのは神妙であること、これにより、上野国波志江郷・蓮村・小保方郷・田部井村・国定村(何れも佐位郡)・鹿田村(新田郡新田荘)の知行地を宛行うこと、しかしながら、以上の土地のうちで厩橋領・惣社領・白井領(何れも群馬郡)に含まれる場合は除外すること、これらを通達した(『上越市史 上杉氏文書集一』899号「赤堀上野守殿」宛上杉「輝虎」安堵状【花押a4】)。


これ以前に、下野国安蘇郡佐野荘の佐野陣(唐沢山城攻め)を撤収し、上野国佐位郡(西荘)の
赤堀領における五目牛の地に移陣した。


26日、相州北条氏康・同氏政父子から条書が発せられ、一、このたび宝印を翻されて当方が望んだ案文通りの誓詞に、招き寄せられた遠左(遠山左衛門尉康光)の眼前で御血判を据えてもらい、心から恐縮し、満足していること、一、来る5日に三郎は、どのような天候であろうとも当地小田原を出立すること、この補足として、彼の日程は巷間に広く知れ渡っているため、これに乗じた(武田)信玄が出張ってくる事態を心配しており、利根川端までの護送部隊を強固に編成し、向こう岸から引き渡す手筈を整えているので、必ず倉内(沼田)衆・厩橋衆を手配してほしいこと、一、先頃に示した通り相・房一和については、御存意に従って交渉を進め、その様子を逐一報告していくので、彼の国へ御使者を派遣されて、是非とも落着へと導いてほしいこと、一、初秋の御戦陣については、ともかく御談合する旨を御約束されたので、心から本望満足であること、但し、すでに御労兵のため、そろそろ御帰国の頃合であり、御在国中の信玄への御対策を講じてもらいたく、進藤方(隼人佑家清。旗本衆)と垪和(刑部丞康忠。氏政の側近)が詳述するので、その計画内容を御提示してほしいこと、一、先頃に愚老父子が呈した条書のなかで、武蔵・上野国衆の帰属関係に禍根を残さないでほしいとの要望を申し入れたところ、そのような事柄は聞かされていないとの仰せについては、当方は間違いなく左衛門尉(遠山康光)に言い含めたので、上聞に達しなかったのは明らかに彼の者の失態であること、しかしながら、御奏者から示された二つ三つの要求を妨げるつもりはないので、こうして弁明を尽くしていること、よって、懸案の二ヶ所の地である忍(武蔵国衆の成田氏)と松山(同上田氏)には、越・相一和の成立に伴う関東の御秩序を破るつもりはなく、越軍に攻撃されるどころか、越・相両国が御骨肉の間柄になるからは、越・相両軍に攻撃される事態を深く憂慮し、その場合には信玄と提携するほかない意思を示しており、彼らが信玄と数回でも交渉に及べば、取り込まれてしまうのは必然なので、これを阻止するためには、先ず彼の両人から御誓詞と証人を提出させてから、細かな御誓句を検討されるべきこと、これについては事情に通じた垪和(康忠)に詳述させること、一、新太郎(藤田氏邦)へ宛てられた御条書によれば、愚老父子が言行不一致であるとして、不信感を抱かれている件については、以前の誓詞の各事項を大幅に見直し、ただ一ヶ条のみを持ち越して練り上げる旨を、再び宝印を翻して血判を差し出したからには、今さら虚偽を述べるわけもなく、もとより以前の誓句から一点に於いても道義に外れた意趣を抱いてはおらず、御不審な点は何度でも追求されて構わないこと、また、実子二人(氏邦と三郎)を差し出した事実は、大山よりも高く、大海よりも深いと心得ており、それでもなお愚(北条父子)への疑心を振り払えないと思われるのならば、もはや万策尽きて仕方がないこと、よって、妄言を触れ回る輩が現れたり、御意に合わない事態が生じた場合には、即座に問い合わせてもらい、意思疎通を図りたいこと、更には、こうして結束を固めたからには、互いに道理を外れてはならないのであり、そのため当方も疑問が生じた際には、遠慮なく問い合わせるつもりなので、若しも反論があれば、何度でも問い質してもらいたく、これこそがこのたび御血判を取り交わした趣旨であること、一、三郎を受け渡し後の道中の諸事万端については、由信(由良信濃守成繁)に手配を指示してほしいこと、以上、これらを申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』900号「山内殿」宛北条「氏康」・北条「氏政」連署条書)。


同日、相州北条氏政が、北条源三氏照(氏康の三男。武蔵国滝山城主と下総国栗橋城主を兼務する)へ宛てて、当日付の書簡への返書を発し、越陣に派遣した垪和かた(刑部丞康忠)に示された貴意は道理にかなっていること、病間ゆえに本日中の参府が無理であるならば、先書で示したように、早くも三郎を越陣へ護送する期日が迫っており、その責任者である貴所には、もはや参府する猶予はないので、中途で三郎に合流するべきこと、よって、これらを進藤(氏照の側近・近藤綱秀ではないか)が詳述することを伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』1396号「源三殿」宛北条「氏政」書状)。


28日、常陸国衆・佐竹次郎義重の一家衆である佐竹北義斯(又七郎)から、取次の柿崎和泉守景家・山吉孫次郎豊守へ宛てて書状が発せられ、この上旬に協議が不調に終わって以来、相互に一致した課題がなかったので、交信が途絶えてしまったのは不本意であること、今だに上州御在陣が続き、御陣労も極限に達しているようなので、はなはだ気掛かりであること、輝虎に対せられて義重は異心を抱いてはいない意趣を示したにも係わらず、輝虎は義重の対応に御憤慨されていると、世間では取り沙汰されているようなので、ひとえに嘆かわしい状況であること、こうした事情を理解してもらうため、使僧を派遣して詳説するので、このところを斟酌してもらえれば、義重はもとより自分としても恐悦極まりないこと、つまるところ御両所の御力添えに期待を寄せており、北丹(北条丹後守高広)と十分に御談合して御取り次いでほしいこと、詳細については使僧の策首座が口上すること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』901号「柿崎和泉守殿・山吉孫次郎殿」宛佐竹北「義斯」書状写)。



この間、同盟交渉中の相手である相州北条氏康(相模守)は、3月5日、上野国衆の由良信濃守成繁へ宛てて書状を発し、(越後国上杉家が)後藤左京亮(勝元)・須田弥兵衛尉をもって仰せ出されたのに伴い、(由良成繁から使者の)大沢下総守を差し越され、このたび唯一無二の入魂を取り成すにおいて、適切な趣の意見に預かったこと、いかにも愚意と同前であること、(輝虎との交渉の)真実の様子を詳しく申し届けること、息子の三郎は、この五日から六日のうちに番明けとなるはずであったこと、そうではあったが、(予定を早めて)昨日に迎えの者を遣わしたこと、(上杉家へ引き渡す)支度が整うまでの間は、新太郎(藤田氏邦)を彼の陣下へ差し越す約束を定めたこと、なお、様子は(大沢)下総守の口上に申し含めたこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』890号「由良信濃守殿」宛北条「氏康」書状写)。



同じく、敵対関係にある甲州武田信玄(法性院)は、5日、西上野先方衆の浦野新八郎へ宛てて書状を発し、昨年(10月6日)の相模国三増坂(中郡)での相州北条軍との戦いにおいて、奮戦して討ち死にした親父(民部左衛門尉)の忠功を称えること、今後も民部左衛門尉の在世時と変わらず、(浦野新八郎を)懇切に処遇すること、香典として緞子(紋織物)五反を贈ること、詳細については永昌和尚が御演説すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編三』1519号「浦野新八郎殿」宛武田「信玄」書状写)。

17日、西上野先方衆の小幡一党である小幡弁丸(のち信定。小幡弾正左衛門尉信高の嫡男)へ宛てて書状を発し、昨年(12月6日)の駿河国蒲原城(庵原郡)の攻略戦に於ける弾正左衛門尉(上野国甘楽郡の国嶺城主・小幡上総介信実の弟)の討死は、無双の戦功であること、父の在世時と変わらず、永代にわたって知行・被官の相伝を認めること、いよいよ相続して忠節を励むべきこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編三』1521号「小幡弁丸殿」宛武田「信玄」判物)。

19日、常陸国衆・佐竹次郎義重の使者である江間対馬守(実名は重氏か)へ宛てて証状を発し、たびたびの往来に満足しており、武州を制圧したあかつきには、彼の国で相当の一所を謝礼として宛行うことを約束するとともに、(佐竹)義重と無二の御交誼を結びたいので、取り成しに奔走するべきこと、よって、前述の通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 武田氏編三』1523号「江間対馬(守)殿」宛武田「信玄」判物)。

20日、西上野先方衆の原孫次郎(漆原氏。永禄9年に滅亡した箕輪長野氏の旧臣)へ宛てて、自筆の書状を発し、取り急ぎ一筆を染めたこと、南北(相・越)和融が落着したのに伴い、上野国厩橋城の利根川西岸に城砦を構築するつもりであること、いよいよ当家の興亡を賭けて越・相両国と決戦に臨むこと、各々は抜かりなく準備に着手するべきこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編三』1525号「原 孫次郎殿」宛武田「信玄」書状)。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 武田氏編 第三巻』(東京堂出版)

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