越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎の年代記 【永禄11年7月~同年8月】

2013-01-24 22:11:56 | 上杉輝虎の年代記

永禄11年(1568)7月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼)【39歳】


〔足利義昭の入洛へ向けて〕

越前国朝倉義景(左衛門督)の本拠である一乗谷(越前国足羽郡)の安養寺に御座を据えた左馬頭足利義昭(この4月に義秋から義昭に実名を改めた)の許へ、使節として新保清右衛門尉秀種(輝虎旗本)と智光院頼慶を派遣すると、8日、その両名が、年寄衆の河田豊前守長親・鯵坂清介長実へ宛てて書状を発し、爰元(越前国一乗谷)における様子を申し上げるため、あらためて飛脚を差し下すこと、されば、路次中は何事もなく、御鷹・御馬も当月2日に(越府から)参着致したこと、二・三日ほど伏せておき、 上意様(足利義昭)へ御目に懸けること、すこぶる御気に入れられ、御感じ入った旨を仰せ出されたこと、御鷹を贈られた朝倉殿(義景)と各々も、殊のほか大慶そのものであること、有様においては、御安心してほしいこと、前波(藤右衛門尉景当。朝倉家の内衆で一乗谷三奉行のうち)・山崎方(新左衛門尉吉家。同じく奏者衆のうち)のとにもかくにも奔走のたまものであること、それからまた、織尾(織田信長)はどうあろうとも、濃州へ (足利義昭が)御座を移されるにおいては、御入洛の御供を早速に致すつもりであると、しっかりと墨付(判物)をもって丁寧に言上したについて、(朝倉)義景も納得の有様に極まり、今月16日に(足利義昭の)濃州への御動座が合議で決まったこと、従って、(足利義昭は)加州についても、昨年以来は無事(朝倉家と加賀国一向一揆の和睦)の姿でありながらも、今もって互いに一札の往来もないこと、(義昭が岐阜へ)御成りする以前に、何としても(効力の伴った和睦を)取りまとめたいそうであること、現状の有様では、まとまる見込みがないこと、そうであるならば、彼の無事も愚かしいと、批判を各々が口にしていること、されば、(輝虎から)仰せ付けられた御条書の覚えは、 上様(足利義昭)へも朝倉殿(義景)へも事細かに申し上げたこと、なお、適切な御披露を仰ぐところであること、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、返す返すも、其方(越府へも)聞こえているとはいっても、能州(畠山家)から加州(加賀国一向一揆)の杉浦方(壱岐法橋玄任)へ以前の始末(昨年に畠山の仲介によって成立した朝倉と賀州一向一揆の和睦)について、面々から差し越した書状を、とりもなおさず、 上意さまへ供されていたこと、(その書状を)書き写して(越府へ)差し越すこと、これらを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』577号「河豊・鯵清 参御宿所」宛「新保清右衛門尉秀種・智光院頼慶」書状)。


当文書を、諸史料集は永禄10年に置いているが、足利義昭が美濃国へ「御動座」したのは同11年7月であり、次に掲げる足利義昭御内書(『上越市史 上杉氏文書集一』609号)との兼ね合いからしても、当年の発給文書として引用した。



12日、左馬頭足利義昭から御内書が発せられ、入洛の供奉の件を、(織田)信長が(承知する決意を)厳重に言上し、(信長からは)まずは濃州に向かい、御座を移されるようにと言ってきているので、近日中に発足すること、(朝倉)義景もいよいよ支障なく、不退転の心構えであること、(輝虎が)各々と相談したうえでの奔走するのを、ひたすら頼みに思われていること、詳細は智光院(頼慶。輝虎の使僧)が申し述べられること、これらを申し渡されている(『上越市史 上杉氏文書集一』609号「上杉弾正少弼とのへ」宛足利義昭御内書【署名はなく、花押のみを据える】【封紙ウハ書「上杉弾正少弼とのへ」】)。



この間、敵対関係にある甲州武田信玄(徳栄軒)は、7月12日、越中国一向一揆の勝興寺(越中国婦負郡末友の安養寺城郭伽藍に拠る)へ宛てて書状を発し、好便(よいついでの音信)をもって申し上げること、神保(惣右衛門尉長職。越中国婦負郡の増山城を本拠とする)と椎名(右衛門大夫康胤。同新川郡の松倉城を本拠とする)を和睦させて、(越中)国中が一つにまとまり、越後に向かって乱入するように、あちらこちらへ御意見してもらいたく、ひとえに貴寺(勝興寺)の御調略に尽きること、なお、長延寺(実了師慶)が申し述べること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編二』1294号「勝興寺 机下」宛武田「信玄」書状写)。

16日、勝興寺へ宛てて書状を発し、それ以来は申し交わさなかったのは意外であったこと、もとより、椎名右衛門大夫(康胤)が越後に背き
、本願寺門主(摂州大坂本願寺門主の顕如光佐)の高意を得たこと、これにより、当方へも(椎名は)二心のない通交を遂げたこと、このような時節に至ったからには、その国中に静謐の御調略が肝心であること、玄東斎(日向宗立。直参衆)を大坂(本願寺)へ差し上せ、金山(椎名康胤)へは五日のうちに長延寺(実了師慶)を向かわせるので、ますますの御調談が専一であること、本庄弥次郎(繁長)が(盟約通り)輝虎に敵対し、当手は後詰めの戦備を調えたので、出陣致し、近日中に越河するつもりであること、委細は八重森(重昌。直参衆)が申し述べること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編二』1299号「勝興寺 几下」宛武田「信玄」書状)。

17日、信濃先方衆の蘆田五郎兵衛尉・丸子善次・武石左馬助へ宛てて条目を発し、条目、一、かやつか・芦田・三枚をつそ・武石・口あき所田善次・てつ塚・青仮・いたて日向は、右の通りであること、一、蘆田の人衆から六・七人づつ三枚をつそへ番衆を加えるべきこと、一、番替えとして、下伊奈衆を差し越すべきところ、遠路ゆえ、遅くなってしまうにより、その旨は、十日の分を其方へ移し、下伊奈衆が着城してから、早々に旗本へ参陣するべきこと、一、越後衆が島津境(信濃国水内郡の長沼城域)へ進んできたので、近日中に小諸城(同佐久郡)へ速やかに出馬するつもりであること、これらの条々を申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編二』1300号「蘆田五郎兵衛尉殿・丸子善次殿・武石左馬助殿」宛武田家朱印状)。

18日、本庄弥次郎繁長の重臣である斎藤刑部丞へ宛てて書状を発し、越府衆がその表に在陣しているうちに、後詰めとして(越後国)早速にも頸城郡に向かって乱入を急ぐつもりでいたところ、連日の大雨ゆえ、千曲川・犀川の両渡瀬が共に往還が断絶し、これにより、(進軍を)延引せざるを得ず、存外の次第であること、ただし、この二・三日のうちに渡瀬が現れ、天の助けであるので、明日には越河することと、なお、当方の態勢に抜かりのない様子は、使僧が演説すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編二』1301号「斎藤刑部少輔(丞)殿」宛武田「信玄」書状写)。



永禄11年(1568)8月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼)【39歳】


甲州武田軍が信濃国奥郡の長沼城に入り、上杉方の拠点である飯山城へ手出しをしたので、10日から18日の間、自ら二度にわたって国境まで駆け付けたが、そのたびに武田軍は後退してしまう。


〔関山城衆の緩怠を非難する〕

信濃国飯山城(水内郡)の城衆から、甲州武田軍が同長沼(同郡)の地に在陣しているとの急報を受け、10日、越後国関山城(頸城郡)に在番する宝蔵院(越後国頸城郡の関山権現別当宝蔵院の衆徒)・須田順渡斎・同左衛門大夫・平子若狭守・宇佐美平八郎へ宛てて書状を発し、飯山から、ただ今午刻(正午前後)の注進の通りは、長沼に敵が在陣しているそうなので、その地(関山城)へ(上杉)十郎殿・黒瀧衆(山岸隼人佑の同名・同心・被官集団。山岸本人は上野国沼田城に赴援したままか)を移すこと、(その地から移動させるつもりでいた)山本寺方(伊予守定長)をも留め置き、同事に相談し合って、堅固な防備体制を敷くのが肝心であること、飯山衆は大敵を引き受け、堅固に防戦しているわけなので、(関山衆が支援を怠った)呆れた振る舞いは、返す返すも口惜しいこと、目付を早々に差し越し、(長沼の敵の様子を)見届けた注進を待ち入ること、そのため、豊前(河田長親)の所から、敵陣を外れ越えてきた者(投降者)を、(関山が差し越す目付の)案内者として差し越すこと、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』611号「宝蔵院・須田順渡斎・同左衛門大夫殿・平子若狭守殿・宇佐美平八郎殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a4】)。


● 上杉十郎:実名は景満か。一家衆。古志長尾右京亮景信の長男で、この時点で唯一、上杉名字を与えられている人物。

● 山本寺伊予守定長:越後国頸城郡西浜地域の不動山城を本拠とする一家衆。

● 須田順渡斎:俗名は満泰か。信濃衆の須田相模守満国の弟と伝わる。

● 須田左衛門大夫:順渡斎の世子か。

● 平子若狭守:越後国魚沼郡小千谷の薭生城を本拠とする譜代衆。

● 宇佐美平八郎:越後国魚沼郡堀内地域を本拠とする譜代衆。


〔村上陣の直江景綱に陣衆の一部を上府させるように指示する〕

12日、越後国瀬波(岩船)郡の村上陣の直江大和守政綱・行方六右衛門尉(輝虎旗本)宛てた書状を発し、取り急ぎ早飛脚をもって申し遣わすこと、ただ今申刻(午後四時前後)に到来した知らせによれば、越中の敵がまたとないほどにはっきりとした態度で歯向かってくると、堅く聞き届けたこと、(奥信濃在陣中の)武田信玄に対するだけの防備は、今もって堅固に申し付けているとはいえ、このように両口(越中・信濃)から同時に乱入されるのは、どうにもならない人数不足といい、(二方面の)防備はままならないので、負担ではあっても其元(村上陣)には、この日記(別途の名簿)の衆を差し置き、陣所を堅持され、二十日の間を防ぎ切るのは、まさにこの時であるので、頼み入ること、庄厳と下渡嶋(どちらも村上城に対する付城)の防備も、(両城衆へ)堅固に申し付けられるべきこと、この日記(前記とは別の名簿)の衆(山浦某・北条弥五郎景広・新発田衆(新発田忠敦の同名・同心・被官集団。新発田本人は飯山城に赴援している)・色部修理進勝長ら)をば、昼夜兼行で早々に(越府へ)上らせるべきこと、(日記の衆が)いつものような悠長な心構えで、いかにも難題であるかのように不服を申し立てられ、いずれにせよ(上府が)遅延するようであれば、(取り返しのつかない)大事に至ること、つまりは両人に任せ入ること、其元(村上陣)の戦陣を、つまりは頼み入ること、これらを謹んで申し伝えた。さらに追伸として、(日記の衆が着陣すれば)爰元(越府)の陣容は正常に戻るので、(村上陣は)どこへも手出しは無用であること、庄厳・下渡嶋・其許(村上陣)の堅固な防備だけを申し付けられるべきこと、(日記の衆を)表向きは番手と称して差し越されるべきこと、そのつどの事態を、あげつらってはならないこと、以上、これらを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』612号「直江大和守殿・行方六右衛門尉殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a4】)。


〔村上陣の柿崎景家・直江景綱に、信州口の甲州武田軍が二十日を過ぎても退散しなければ、先に上府させた軍勢を村上陣へ戻し、柿崎・直江を越府へ呼び寄せて決戦する覚悟を示す〕

18日、村上陣を統轄する柿崎和泉守景家・直江大和守政綱へ宛てて書状を発し、取り急ぎ申し遣わすこと、先頃に山浦方をはじめとして、四・五手を(越府へ)上せるようにと、申し下したこと、これは信州口ばかりの陣容においては、軽々しく見えてしまうこと、それからは、以前には二度にわたって出勢したとはいえ、輝虎が半途まで出馬すると、敵は即時に退散したこと、(甲州武田信玄は)長沼を再興したとはいっても、これを以後まで保持するつもりであるようには見えないこと、つまりは本庄かた(本庄繁長)への支援は形ばかりに見えること、上口ではしきりに悪巧みが取り沙汰されているので、そうであるならば、人数不足といい、両口(越中・信濃)の防戦は困難であるにより、(先頃に申し下した通り)五手の人数を(越府へ)召し寄せること、早々に(五手の人数を)上らせてほしいこと、しかしながら、さほどの事態は今日までは見えてないこと、いつも通りに輝虎が物事に驚いて、このように人数を召し寄せたものと、各々に思われたのは、面目を失したこと、そうではあっても、飯山城へは、新発田(尾張守忠敦)・五十公野(玄蕃允か)・吉江(佐渡守忠景)を移したこと、関山の新地へは、(上杉)十郎方・山本寺(定長)・竹俣(三河守慶綱)・山岸隼人佑(実名は光重か)・下田衆(下田長尾氏の同名・同心・被官集団)を籠め置き、このほか旗本の者共を十騎から十五騎を、両地へ横目として入れ置き、祢知城・不動山城(ともに頸城郡)へも旗本の者共を数多く差し向けたので、自分の手元には、山吉(孫次郎豊守)・河田(豊前守長親)・栃尾衆(栃尾本庄氏の同名・同心・被官集団)がいるのみであること、そのうち三条・栃尾の両衆も半分は留守中の用心のため、各所に差し遣わしていること、人数不足を推察できるであろうこと、其元から人数が到着したら、両口へ向かわせて防備を堅固に申し付け、何としても(手薄の本隊は)地下鑓なりとも集め、力の及ぶ限り堅固に対処するつもりであること、来る十日まで手堅く防備を尽くせば、敵はかならず退散するであろうこと、そうならなかったとしても、人数を催し、敵の陣の人数が行き交う時分に、備えを押し出すつもりであること、ともすれば当国は重大な苦境に陥っていると見なしてしまうので、張陣し続けるは困難であるにより、負担であろうとも、村上陣・庄厳城・下渡嶋城の堅持は両名の双肩に懸かっており、長くても二十日はその陣の維持を頼み入ること、庄厳・下渡嶋・その陣(村上陣)の堅固な統轄を両人(柿崎・直江)に任せ入ること、其元(村上陣)の人数不足について、(輝虎の)あれこれ比較して考えていること、荘厳・下渡嶋へ人数を入れているので、その陣
(村上陣)は寡勢で凌いでいるのではないかと、とにもかくにも気を揉んでいること、異変があった場合には、その注進を待ち入ること、(二十日間を過ぎても)敵が張陣を続けるならば、このたび(村上陣から)上ってくる人数を(村上陣へ)下し、その一方で方々(柿崎・直江)を(越府へ)召し寄せること、何はともあれ今が正念場であるので、その陣(村上陣)の堅持に努めるのが肝心であること、返す返すも爰元(越府)の状況は、案ずる必要はないこと、どれほどに世間から悪し様に言われようとも、(輝虎が)直書を差し越さないうちは、動転してはならないこと、これらを謹んで申し伝えた。さらに追伸として、敵地(村上城)が弱体していると、聞き及んでいるのか、どうであるのか、これまた、詳しく申し越されるべきこと、表向きには(五手の人数の上府は)番手と称されるべきこと、内々の件は隠密にするのが肝心であること、以上、これらを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』613号「柿崎和泉守殿・直江大和守殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a4】)。


● 新発田尾張守忠敦:越後国蒲原郡新発田の新発田城を本拠とする外様衆。佐々木加地新発田一族。

● 五十公野 某:玄蕃允か。越後国蒲原郡五十公野の五十公野城を本拠とする外様衆。佐々木加地新発田一族。

● 竹俣三河守慶綱:越後国蒲原郡竹俣の竹俣城を本拠とする外様衆。佐々木加地一族。

● 山岸隼人佑:実名は光重か。越後国蒲原郡弥彦の黒瀧城を本拠とする譜代衆。

● 吉江佐渡守忠景:旗本部将。


〔甲州武田軍の退散〕

22日、村上城攻囲軍が付城の下渡嶋城を放棄したとの情報に接すると、同じく庄厳城に拠る鮎川孫次郎盛長・三潴左近大夫(実名は長能か)へ宛てて返状を発し、ただ今戌刻(午後八時前後)に申し来るところでは、下渡嶋城を打ち明けたそうであり、やむを得ないこと、このうえはその地(庄厳城)から、たとえ番手衆が逃げ出したとしても、両人(鮎川・三潴)ばかりであっても、実城(主郭)に留まり、後詰めが到来するまで(庄厳城を)堅持するべきこと、信州口の敵が退散したので、とりもなおさず、山浦方・北条弥五郎(景広)・新発田衆・色部修理進(勝長)を差し下すこと、岩船側からの助勢は安心してほしいこと、番手衆が両人を見離すようであれば、かならずその横振りに及ぶこと、このところを各々に申し聞かせるべきこと、このほかは書かないこと、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』614号「鮎川孫次郎殿・三潴左近大夫殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a4】)。


● 山浦 某:越後国蒲原郡山浦の篠岡城を本拠とする一家衆。

● 色部修理進勝長:越後国瀬波(岩船)郡加納の平林(加護山)城を本拠とする外様衆。秩父本庄一族。

● 鮎川孫次郎盛長:越後国瀬波(岩船)郡鮎川の大場沢城を本拠とする外様衆。秩父本庄一族。

● 北条弥五郎景広:越後国刈羽郡佐橋の北条城を本拠とする譜代衆。

● 三潴左近大夫:実名は長能か。越後国蒲原郡豊田の中目城を本拠とする三潴出羽守長政の世子。ともに輝虎旗本。


こうした一方で、友好関係を結び直した奥州会津の蘆名止々斎・同盛興父子が陸奥国石川郡を席巻したことへの祝意を表すると、8月24日、蘆名家の宿老である平田是亦斎常範から、河田豊前守長親へ宛てて返状を発せられ、(蘆名父子は)石川口をことごとく思い通りに決着をつけ、帰陣なされたについて、盛興父子の所へ使い、(蘆名父子は)一段と大慶に思われていること、勿論ながら、貴国・当方(越後国上杉家・会津蘆名家)は唯一無二に親しく打ち解けて語らうものと、思い極められていること、されば、尊書ならびに段子一巻を拝受し、誠にもって過分極まりなく存じ申し上げること、諸事を河田豊前守方へ申し届けるにより、(輝虎の)御耳に入れられてほしいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』930号「河田豊前守殿」宛「平田是亦斎常範」書状)。


※ 当文書を、『上越市史 上杉氏文書集一』は元亀元年に置いているが、『会津若松市史 3 歴史編3 中世2』の記述に従い、当年の発給文書として引用した。


この間、相州北条陣営から離脱したばかりの下総国関宿の簗田洗心斎道忠(中務大輔晴助)は世上を憂い、世子の簗田八郎持助に関宿城を任せて、関宿郊外で隠遁生活を送っていたところ、鎌倉公方足利義氏の下総国古河城(葛飾郡)への還座に伴い、相州北条家に他国衆として属する下総国金(同郡風早荘小金)の高城勢・武蔵国岩付(埼玉郡)の太田勢によって、簗田持助の直領が荒らされるなど、日を追うごとに強まる相州北条陣営の攻勢に耐えかね、8月5日、房州里見義弘(上総国天羽郡の佐貫城に拠る)の父で、自分と同様に閑居の身である里見大叟院正五(権七郎義堯。上総国望陀郡の久留里城に拠る)へ宛てて書状を発し、それ以来は、御閑居の御子細により、やや久しく申し上げなかったこと、そうはいっても、拙者(簗田入道道忠)についても隠遁致して辺地に移って在宿し、そうしているうちに、無遠慮ながら申し達したこと、(里見正五は)至って御頑健であると承り及び、めでたく御安心と存じ申し上げること、是非とも御目に懸かりたく、明けても暮れても(周囲に)語っているほどであること、されば、御世上から逃れて辺土へ移ったところ、義氏様が古河へ御打ち入りゆえ、(相州北条陣営と)近接したにより、結局は日夜の苦労により、窮屈している状況をただ御察ししてもらいたいだけであること、万端が調っておらず、困窮していること、それからまた、金・岩付から八郎(簗田持助)の知行へ日増しに手立てを増進しており、無念でならないこと、そうではあっても、御当口は御考えの通り、殊に下総を打ち破ったので、両酒井(上総国土気・東金の酒井氏)が(里見家に帰属を)懇望してきていると、聞き及んでいるにより、御父子(里見入道正五・同太郎義弘)は御懇意を加えて、本意を達するべきであると思っていること、(相州北条)氏政が羽生(武蔵国埼玉郡)と号する口へ出張してきたと、そう聞こえていること、爰許も防備を油断致さないので、御安心してほしいこと、条々を彼方が見聞したからには、なお、口舌を雇ったこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 房総編二』1295号「久留里江 参」宛簗田「洗心斎道忠」書状)。


同じく、敵対関係にある相州北条氏政(左京大夫)は、越後奥郡国衆の本庄弥次郎繁長が輝虎に遺恨の一理があると唱えて、本拠の村上城で挙兵に及んだことを伝え聞くと、村上へ使者を派遣して本庄繁長に誼を通じている。しばらくして繁長から折り返しの使者が到来すると、8月26日、氏政兄弟衆の大石源三氏照(相州北条氏康の三男。武蔵国多西郡の由井領を管轄する)が、本庄繁長の重臣である斎藤刑部丞へ宛てた初信となる書状を氏政の使者に託し、これまでは申し交わしていなかったとはいえ、一翰に及んだこと、もとより、本庄方(繁長)が輝虎に対せられ、遺恨の筋目があり、在府を引き払われると、御在所において干戈を動かされたと、そう聞き得たので、越・相両国は弓矢の最中であり、ほかに譲れる事情ではない(優先事項)により、(氏政は)使者をもって申し届ける必要から、とりもなおさず、(氏政は)返答に及ばれたこと、このたび(本庄繁長から)使者に預かったこと、今後においては並ぶものがないほどに申し合わせたいこと、そのために氏政から使者をもって仰せ届けられること、このようになったからには弥二郎方(本庄繁長)が急速に本望を達せられるように、御精励が各々(繁長の重臣)の御手並みに懸かっていること、委細は使者の口上のうちに含めたこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 後北条氏編五』3914号「斎藤刑部丞殿」宛大石「氏照」書状写【包紙ウハ書「斎藤刑部丞殿 源三」】)。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『会津若松市史 3 歴史編3 中世2 会津葦名氏の時代』(会津若松市)
◆『戦国遺文 房総編 第二巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第五巻』(東京堂出版)

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