食道がんと闘う自然爺の活動

自然の中での暮らしに憧れ、自作の山小屋を起点に自然と戯れていたが、平成21年10月、食道・胃がんが見つかり手術。

『震災鎮魂の旅、相馬港にて献花』

2013年06月19日 17時37分50秒 | 旅行

晴天続きの裏日本松江から表日本に来たのだから、それに輪をかけたような晴天

かと思いきや、本日は曇天なり。この日も磐越自動車から東北自動車道に乗り換え、

福島県相馬市を目指す。特定の場所を目指すのではないから、相馬港の近くをナ

ビにセットする。自動車道を降りて地道を走り出すと、距離・時間の関係は予測不能

になりナビの数字を当てにするしかない。土地勘も、地理勘も全く当てにならないか

らだ。霊山という大きな山を越えて相馬市に入っていくが、震源地から近く激しい揺

れによる建物の被害の跡が多少なりとも残っているのかと予想していたが、それは

全くと言っていいほど見られない。もう2年、未だ2年、建物被害の象徴は屋根の上

にかけられたブルーシートや崩れかかったままになっている瓦などはなく、本当に

大震災に襲われの?

と思わせる。これは津波に襲われた沿岸近くでも同様であった。

被害からいえば、地震によるものは限定的で圧倒的に津波による被害の方が大き

いように感じた。(私が車で走った道中に限り)地震なら建屋が倒れても、多少なりと

も家財や思い出の品々は残されるであろうが、津波は分け隔てなく持ち去ってしま

うから、やりきれなさを増大させてしまう。

港に行って被害に遭われた方々への供養として献花をしようと花屋を探すが上手

く見つからずスタンドで情報を仕入れ、近くのスーパーで購入する。

時間も昼近くだったので、惣菜売り場で弁当を買い港へ々ひた走りする。それまで

建物や木々で見えなかったのに、急に視界が開け干拓後に何かを作り出す工事

をしているような場所に出た。相馬港だ。かつては魚市場、海産物の会社、船のド

ック、倉庫、燃料関係などなどの施設がひしめき合っていただろう場所だ。大きな

湾を囲むように賑わいを見せていたと思われるが、今はただの広い閑散とした広場

にポツポツト真新しい建物が経ちつつあった。もう2年過ぎたし、ここは表玄関みた

いな所だから復興のスピードは早そうで、表向きには震災の爪痕はないように整地、

片付けを終えている。また、港周辺を含め震災後、あれほど問題になったガレキの

山を見ることはなかった。言葉少なく対岸部に行ってみると、海水浴場と見られる砂

浜の一角に小さな建屋が残されていた。近くに行って見ると、海水浴客が使用する

シャワールームのようだ。コンクリート製だから建屋だけは残っているが、中にあっ

ものは全て津波が奪い去ったのだろう。未だ窓にガレキの残りがへばり付いて

いる。建屋周辺のタイルはえぐり取られた部分や、綺麗に残っている所があり、こ

うした一寸の違いが人の運命も大きく変えたりしていたのだろう。

周りにそうした幾つかの建屋が放置されていたが、如何にも津波被害という姿は

くなりつつあった。残された建屋の前で献花、犠牲になられた方々に供養の線

香を手向けた。私たちは何の被害もなく2年前の3.11以降も変わりなく暮らしてい

る。犠牲になられた人たちは、もっと生きて、笑って、泣いて、沢山のことをしたか

ったのに違いないと思うと、本当に申し訳ないような気持になる。

震災に遭われた人たちの心情を思い知ることなど到底できはしないと思うが、遠

い島根県から遥々やってきたことで、私たちの心根を理解して頂きたいと思う。

今回の旅で、だれにも誤解して欲しくなかったことは『被害地の物見遊山』で出掛

けたのではない、これに尽きる。移動の関係で寄ることのできる場所以外に観光

地の巡りを予定しなかったし、宿泊先もXX温泉は避けた。

私の大きな課題である『三春町の滝桜』を観に来ること、今回の旅で頑張れば実

現できるので、そうした楽しみは先に残しておき、もっと元気になった福島県と共

に再会を果たしたい。

 

                         再建中の施設

                     残されたシャワールーム

              建屋の基礎だけ残った被災地跡

 


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