ヒトの「からだ」と「ココロ」がもしも消耗品だとしたら、僕にはひとつの強い確信がある。それは僕の「ソレ」がほとんど磨耗していない~という確信だ。 言い換えれば、今まで如何に「ソレ」の枝葉末節部分に頼って無器用に生きてきたことか。そんな自分への強い自戒の念が「確信だ」を叫んでいる。
まだ、僕の体幹は目覚めていない。
まだ、コアの力が発揮されていない。
まだ、扉を開いていない。
もしも「目覚めたら」、もしも「発揮されたら」、そして、もしも「開けたら」
そのときはじめて、本当の磨耗がはじまる。
そうなるまで、ちょっとやそっとのことで、たじろぎ、くだらないことで意味がなく磨耗したり、無駄な時間を過ごすのはつまらない。
不完全のままが続いてしまったら、寿命を超えて生きていそう。
ヒトにはそれぞれ「舞台」や「ステージ」がある。
主役を張り、細胞のひとつひとつまで完全燃焼する「ステージ」が。
しかし、誰も「ソレ」が「どこ」にあって、「いつ」来るものなのかは知らない。
知っているのは、自分だけ。自分のコアだけだ。
あせる必要はない。
なぜなら、きっと自分の「直感」が教えてくれる。
そのはずだから。
まだ、僕の体幹は目覚めていない。
まだ、コアの力が発揮されていない。
まだ、扉を開いていない。
もしも「目覚めたら」、もしも「発揮されたら」、そして、もしも「開けたら」
そのときはじめて、本当の磨耗がはじまる。
そうなるまで、ちょっとやそっとのことで、たじろぎ、くだらないことで意味がなく磨耗したり、無駄な時間を過ごすのはつまらない。
不完全のままが続いてしまったら、寿命を超えて生きていそう。
ヒトにはそれぞれ「舞台」や「ステージ」がある。
主役を張り、細胞のひとつひとつまで完全燃焼する「ステージ」が。
しかし、誰も「ソレ」が「どこ」にあって、「いつ」来るものなのかは知らない。
知っているのは、自分だけ。自分のコアだけだ。
あせる必要はない。
なぜなら、きっと自分の「直感」が教えてくれる。
そのはずだから。