小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

誤解された思想家・日本編シリーズその4の②

2016年12月22日 13時57分35秒 | 思想

      



親鸞②

 ここで、いささか余談めきますが、親鸞の妻帯について指摘しておくべきことがあります。
これも法然の項で当然の事実のように触れたのですが、そのいきさつは、佐々木正氏の『親鸞・封印された三つの真実』(洋泉社)という本に詳しく説かれています。
 まず親鸞の伝記についてですが、明治後期からの実証主義偏重史観によって、覚如(親鸞の曾孫)作の『親鸞伝絵』と、大正十年に発見された親鸞の妻(じつは後妻)・恵信尼が娘に宛てた『恵信尼消息』だけが決定的証拠と見なされてしまいました。
 しかし佐々木氏によると、それ以前は真宗高田派による『親鸞聖人正明伝』の記述がそのまま受け入れられていました。しかもこちらの方があらゆる面において親鸞の生涯を生き生きと伝えており、しかも『伝絵』では意図的に抹消されている親鸞の結婚の事情が『正明伝』には詳しく書かれているというのです。
『正明伝』によれば、親鸞はじつは二度結婚しており、最初の妻は権勢をふるった関白・九条兼実の娘・玉日姫でした。ちなみに山形大教授・松尾剛次氏も、仏光寺派の説話『親鸞聖人御因縁』等により、親鸞と玉日姫の結婚説を肯定しています。さらに『恵信尼消息』発見のわずか五年前に書かれた『出家とその弟子』にも玉日姫が親鸞の妻として出てきます。
 これはまことにありうべきことと思われます。親鸞二十九歳、六角堂への百日参籠の折、救世観音から受けた「女犯偈」の夢告によって妻帯を許された話は有名ですが、それ以前に親鸞は比叡山を降りて吉水の法然のもとに帰依しています(『恵信尼消息』では順序が逆)。ですから法然は、当然「女犯偈」の夢告について親鸞から聞いていたでしょう。
 私はこれらの説を正しいものとして、以下、論を進めます。

 さて兼実は失脚して後、法然に深く帰依し、凡夫こそ救われるという彼の説に強い探究心を示します。そこで、僧に妻帯が許されるというあなたの持論が本当なら、私の娘をあなたの弟子と結婚させてみてくれと、法然を一種の試練にかけます。法然はこれを承諾し、ただちに愛弟子の親鸞に白羽の矢を立てました。親鸞は、たとえ尊敬する師の命令とあってもそれはできないと拒否するのですが、そこで法然から「女犯偈」の話を持ち出され、悩んだ挙句これを受け入れるのです。
 当時、僧侶の妻帯はじつは公然の秘密でした。また遊女との関係も盛んだったに違いありません。親鸞の悩みは、単に不婬戒を破る罪を犯してもよいのかという倫理的な点にあったのではなく、位の高い貴族や高僧の並み居る「世間」を前にして、しかも最高位の貴族の娘と公式的に婚姻するなどということが許されるのかという点にあったと思われます。近現代人が想像するような、性に対する禁欲と恋愛感情との葛藤に悩んだというようなことではないのです。ですから、「女犯偈」は恵信尼との恋愛が成就したなどという話には結びつきません。
 たとえば五木寛之氏の大作『親鸞』は、こうした事情を無視しており、親鸞が不婬戒を破らなくてはならないところに追い込まれた時の苦悩を恵信尼との恋愛関係にそのまま結びつけています。おそらく『正明伝』の存在を知らなかったか、知っていてもあえてそれを斥け、それまでの定説を基礎に物語を仕立てたのと、ストーリーテラーとしての強いサービス精神とがそうさせたのでしょう。
 現代読者を相手とするエンタテイメントとしてはそれで一向にかまいません。しかし指摘しておきたいのは、親鸞の妻帯に絡む苦悩を、個別の男女の単なる恋愛の問題としてとらえることは、単に近代人のロマンをそこに投影する試みであり、その分だけ時代に対する想像力を欠いたものに他ならないということです。

 さて玉日姫との間には、長子・範意が生まれます。これは貴族・日野家(親鸞は日野家の系統)の系図に「母、兼実の女」とちゃんと書かれています。結婚から六年後、建永の法難によって法然は土佐(じつは讃岐)、親鸞は越後へ流罪と決まります。この後の親鸞の足跡については定説がないので自由に想像をめぐらせてみます。
 法難を契機に玉日姫とは離縁することになった。あるいは玉日姫は第二子の出産の際、産後の肥立ちが悪く死んでしまった。また再婚相手の恵信尼は、玉日姫に仕える女房であった可能性が高い。親鸞と恵信尼はその関係でつながりができた。恵信尼の故郷が越後だったという説も有力なので、付き添う女の出身地を流罪先として選ぶ配慮が上部ではたらいたと考えれば自然です。
 私の想像は飛躍します。
 東国での布教から帰京して何年もたったころ、親鸞のいないのをいいことに、関東に派遣された息子の善鸞が勝手な振る舞いに走ります。悪人正機説を歪曲して「悪いことをすればするほど救われる」という、いわゆる「造悪論」を流行らせるのですね。その折、善鸞は、恵信尼はじつは継母で自分は貴種の出なのだという説を主張し、自らの権威づけに利用します。
 東国の忠実な弟子からこの情報を受け取った親鸞は激怒して善鸞を義絶します。親鸞激怒の理由はいろいろ考えられます。真相を突かれてうろたえた、当時男子は身ごもりや出産・育児にはかかわらなかったので真相を知らなかった、など。しかし、この善鸞の主張は、あながち嘘八百とも思えません。というのは、善鸞は、範意と同一人物だった、または玉日姫との間の第二子だったという説もあるからです。前者なら法難に遭ってから親鸞と恵信尼が結婚した時、五歳くらいにはなっていたはずで、記憶が残っていた。こう考えると、話が妙に符合するのですね。

 益体もないことを書き連ねましたが、親鸞という人が、人間としてそれほど特異な個性ある人ではなく、ごく几帳面でまじめな日本人だったと言いたかったからです。
 もちろん卓越した資質と燃えるような向学心、教えに対する敬虔で一途な心根、そして情熱的な布教精神の持ち主であったことは確かでしょう。しかし伝えられる行跡から浮かび上がってくるのは、貴族社会から武家社会に移っていく時代の激流に不可避的に流されて生きたひとりのまっすぐな「凡夫」の姿です。だからこそ、東国から弟子たちが上洛した時も、「念仏を信じること以外にさして申し上げることはない」と何のてらいもなく答えたのでしょう(『歎異抄』二節)。
 また反抗息子には世の親と同じように怒りをあらわにしたところにも、その愚直なまでに忠実に教えを守る性格がよく表れているのではないでしょうか。じっさい善鸞に対する親鸞の怒りは尋常でなく、書簡の中で教えを曲げることは五逆の罪に値し、父殺しに等しいとまで言っています(「古写書簡」第三書簡ほか)。
 思想家の故吉本隆明氏は、親鸞関係の書物で、親鸞その人に「造悪論」を許すだけの根があったと頑なに主張していますが、書簡の文面にまったく合わない強引な説です。
 親鸞をことさら偉大な存在として神格扱いせず、その等身大の姿をよく見つめることこそ、彼自身の本意に叶うように思えるのです。



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1 コメント

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宗教者の天分 (HIROMITI)
2016-12-23 20:17:13
もうひとこと言わせてください。

>不婬戒を破る罪を犯してもよいのかという倫理的な点にあったのではなく、位の高い貴族や高僧の並み居る「世間」を前にして、しかも最高位の貴族の娘と公式的に婚姻するなどということが許されるのかという点にあった<

あなたが勝手にそう決めつけていいのですか。
親鸞にすれば、べつに僧の婚姻がいけないとも貴族だからえらいとも思っていないが、今の自分はそれどころじゃないし、婚姻しても今まで通りの修業が続けられるという自信もない、そういう気持ちだったのかもしれない。それに、師の法然が独身を通したのなら、自分もそうしたい、という思いもあったでしょう。しかしそれは「自力のはからい」のさかしらごとではないかと気づいていった。自分の機縁がそうなっているのならそれに従うしかないと悟った、ということかもしれない。どんなことがあっても師を信じるしかない、たとえ地獄に堕ちることであっても、です。
そのとき29歳の気鋭の宗教エリートである親鸞に「世間」がどうのというような意識などなかったはずです。ただもう、師との一対一の関係があっただけでしょう。そのときの親鸞の内面をそんな俗っぽい物差しで裁断してしまうなんて、親鸞に対して失礼というものでしょう。

ほんとうに親鸞は「人間としてそれほど特異な個性ある人ではなく、ごく几帳面でまじめな日本人だった」のでしょうか。
ようするに、くそまじめな原理主義者だった、ということですか。
だったら、比叡山を下りたりしないでしょう。ただの原理主義者が、「非僧非俗」という危うい境涯に踏み込んでゆくことなんかできないでしょう。
新興宗教が、ただまじめで熱心なだけで布教できるというものではないでしょう。それなりにカリスマ性というか人間的な魅力を持っていたから、多くの人間が寄り集まってきて、大きな教団になっていったのでしょう。何はさておいてもそれがなければ大きな教団にはなってゆかない。親鸞はみんなに担がれていたというか祀り上げられていったのであって、「ごく几帳面でまじめ」に一人ずつ信者を増やしていったのではない。そんないじましい努力だけであんな大きな教団をつくれるはずがない。

善鸞を義絶したときには、すでにちゃんとした教団組織になっていたはずです。そして彼を後継者にしたら組織が立ちいかなくなることが目に見えていたから義絶したのでしょう。
最初はたぶん、彼が幼いときに、まわりのものたちが彼を後継者にしましょうと進言していったのでしょう。だから九条家に戻さず、恵信尼の子として育てることにした。もしかしたら親鸞と恵信尼のあいだに恋愛関係なんかなかったかもしれない。まわりが幼い善鸞を後継者にするためにそういうお膳立てをして、親鸞はそれに従っただけだったのかもしれない。まあ血統的に申し分ないし、利発でもあったのでしょう。後継者にふさわしい宗教者に育っていってくれることを大いに期待した。
でも、ダメだった。
悟りをひらくというのか、本格的な宗教指導者というのは、努力してなれるものではないし、まわりで育てるということもできない。本人に生まれ持った天分がなければどうにもならない。チベットのダライ・ラマの後継者選びだってそうだし、親鸞は、そういう宗教の本質を誰よりもよく知っていた。組織のブレーンであるまわりの凡人たちは「みんなで盛り立ててゆけばいずれ成長してくれるだろう」と淡い期待をしていたのだろうが、親鸞はもう、はっきりと見限った。実の息子なのだからかわいくないはずはないが、そのとき親鸞は、善鸞に対して、「怒った」というよりも「絶望した」のでしょう。
「造悪論」を赦すか赦さないかというような問題ではない。そんなことはまわりのものたちを納得させるためのたてまえであって、もっと本質的な宗教者としての資質の問題だった。善鸞にその資質があると思えば、徹底的に議論して説得してゆこうとしますよ。もう一遍修業しなおせ、と言い放ってもいい。たぶん、法然が親鸞に対してそうしたように。
なのに、一気に義絶してしまった。しかも、最愛の息子なのに。
原理主義者だからそうしたのでない。そうしないと、自分や息子を盛り立ててくれたまわりのみんなに申し訳ないからで、それはもう、ただ「まじめで几帳面」なだけの凡庸な宗教者にできることではないでしょう。
まあこれが、浄土真宗が日本で最大の教団になっていったときの、最初の試金石だったのかもしれない。もしここで誤っていたら、その後の教団発展はなかった。
すみません、何度も。
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