小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

誤解された思想家・日本編シリーズその3

2016年11月23日 15時18分34秒 | 思想
      




慈円(1155~1225)


『愚管抄』は、神武期から起こして自らの晩年に当たる承久年間までを綴ったユニークな歴史書です。ユニークなというのは、この書を「歴史書」というジャンルに収めることに大きなためらいが残るからです。
 というのは、まずこの書には、単なる伝承や歴史事実が記述されているのではなく、摂関家を出自に持ちしかも天台宗座主という仏教界の最高位についたひとりの個人の、特別に選ばれた地位から見た貴族的歴史観が執拗に表現されているからです。その意味でむしろ歴史哲学書と呼んだ方がふさわしいでしょう。
 また保元の乱の一年前に生まれた彼は、崩れゆく貴族政治と勃興する武家政治との対照を目の当たりにしています。その乱世のありさまの描写に最も多くのページを割いているのですが、この場合も単に事実を客観的に記述するのではなく、あくまで自分が等身大の位置から見聞した多くのエピソードを中心に据えて書かれています。
 つまり作者は自分の主観的な視点をけっして崩していません。その意味では日記のようでもあり、天皇や上皇や公達のありさまを生き生きと綴った部分には、男性版『源氏物語』のような趣さえあります。そういう意味では、文学書としての側面も大いに持っているわけです。特定の人物や宗派に対する毀誉褒貶の評価もあからさまですから、社会評論といってもおかしくないでしょう。。
 さらに、最後の巻第七になると、終わりに近づくほど政治の現状を嘆く言葉がしきりと繰り返されるようになり、加えて、実際に深い関係にあった後鳥羽院の武家打倒の野心に対して、近臣として陰に陽に諌める調子が強くなっていきます。余命の少なくなったことを自覚した作者が、政治に対する自分の思想をあたかも遺言のごとく悲痛な思いで訴えているように見えます。その意味からは、この書は政治思想の書であるとも言えます。もちろんその政治思想は、後述するように、現代にも通ずるものをじゅうぶんに持っています。
 ちなみにこの書は承久の乱の一年前の一二二〇年(承久二年)に書かれ、乱後に修訂が加えられているというのが定説らしいですが、乱の様子や後鳥羽院以下、三上皇が配流された記述はまったく見られません。ですから、最後の部分は乱以前に書かれたものと見るのが自然でしょう。慈円は乱以後も四年生きていますが、この事実についてはあまりのことに筆を執る気も失せたのかもしれません。

 この書は、かくも重要な意義と価値を具えた古典であるにもかかわらず、読まれることがまれな書物として知られています。まさにその点こそが、「誤解された思想家」として第一に言挙げするに足ると私は思います。
ではなぜそんなに無視あるいは軽視されてきたのか。
 その理由は、なんといってもこの書のいわゆる「難解さ」にあるでしょう。私もできるだけ原文に当たろうと試みましたが、正直なところ外国語文献のようで、専門家(大隅和雄氏)の現代語訳にほとんど全面的に頼らざるを得ませんでした。
 このいわゆる「難解さ」はどこからやってくるのか。いくつか理由を考えてみました。

①現代人がカタカナ表記に慣れていないこと(後述)。
②個々の文章自体はそれほど難解ではありませんが、『源氏物語』と同じように複数の人間が錯綜して登場しながら、その主語がはっきりせず、また同一人物がいろいろな呼称で呼ばれるので、天皇家や摂関家の精密な系図を傍らに置きながら読まないと、誰のことを指しているのかわからなくなります。
③大隅氏が指摘していることですが、挿入句が次々に挟まれ、くねった文体になっていること。これに付け加えると、慈円の連想がときおり時間を超えてあっちこっちに飛んでいくので、よほど神代から当代までの流れを把握していないと、ついていくのがたいへんです。
④先に触れたように、書のスタイルが独特の多面性を持つので、近代人の分類感覚にうまく適合せず、「いったいこれは何を書こうとしたのか」という疑問を提起しやすいこと。
⑤最後に読者側の問題。これについては、松岡正剛氏が的確な指摘をしています。そのくだりを引用しましょう。
http://1000ya.isis.ne.jp/0624.html
日本人は、このような人物の歴史観に慣れていない。トップの座についたアリストクラシーの歴史観を受け止めない。聖徳太子や藤原冬継や北条泰時を軽視する。どちらかといえば西行や兼好法師や鴨長明の遁世の生き方に歴史観の襞をさぐったり、民衆の立場というのではないだろうが、『平家』や『太平記』にひそむ穢土と浄土のあいまに歴史を読むのがもっぱら好きだった。為政者に対しても、将門や義経や後醍醐のような挫折者や敗北者に関心を示して、天智や頼朝や尊氏のような勝利者がどのように歴史にかかわったかということには、体温をもって接しない。系統から落ちた者をかえって熱心に読む。(中略)けれども『愚管抄』は、そうした従来の判官贔屓の好みだけでは読めないのである。

 さてその「アリストクラシー」の歴史観ですが、これは簡単に言うと、次の四つくらいにまとめられるでしょう。なおこの番号順は、抽象的な原理から次第に具体的な提言のレベルにまで降りてくるように配列されています。

①この世の出来事には、良いことにも悪いことにもすべて「道理」がはたらいている。その「道理」は世につれて移り変わっていく。
②この世は人の目に見えるもの(「顕」)だけで動いているのではなく、人の目には見えないもの(「冥」)によっても動かされている。「冥」は神仏のみがこれを知る。怨霊や天狗、狐なども「冥」の世界からの兆しである。
③王法と仏法とが車の両輪のように機能することによって、世の中はよくおさまる。
④天皇とそれを補佐する役割とがうまく噛み合った統治が行なわれる時、この世は秩序ある世界となる。

 慈円の言う「道理」とは一体何かについてはさまざまな議論があるようです。しかしこれは、たとえば孔子の言う「仁」やプラトンの言う「イデア」が何であるかをポジティブに定義しようとすると、必ずどこかはみ出す部分をもってしまうのと同じようなもので、それ自体はたいへん定義(他の言葉による言い換え)しにくいものです。「道理」といえば、「摂理」「理法」というのに近いでしょうが、それでは永遠に通用する法則のように聞こえて、彼が本当に言いたかったこととはずれてくるように思われます。「道理」という便利な言葉をあまりに多用させたせいかもしれません。これは自ら招いた第二の誤解でしょう。
 慈円は「世」とは「人」のことだと強調しています。そのことと「道理」は移り変わるものだという説とを重ね合わせて考えると、慈円の言う「道理」とは、要するに後から確認できる「運命」とほとんど同じことではないかと思われます。もちろん、こう決めつけてもやはりはみ出す部分はあるでしょうが、しかしこのように考えると、彼の思想の特色がよく浮かび上がってくるのです。
 彼は、当代を末法の世と考えていました。理屈としては、天皇の代数の限界は百代と言われており、あと十六代しか残っていないこと、また感情としては、あさましき乱世を目の当たりにしたのだから、これから時代は悪くなるばかりだという不安感を同時代人と共有していたことが挙げられます。ですからこの末法思想そのものは、とりわけて慈円の特徴というわけではありません。浄土思想の庶民への浸透と流行などもその一例と言えます。
 ちなみに慈円は、法然一派の専修念仏思想を悪魔の仕業とまで言って非難していました。いかにも僧侶の頂点に立った人らしく、そのプライドが許さなかったのでしょう。世俗の政争に明け暮れた兄の九条兼実が法然に帰依したのと比べると、興味深い違いですね。
 慈円の言う「道理」の特徴は、それが移り変わるものであり、たとえ上古にはことが滞りなく通ったとしても、堕落した今の世では、それをそのまま当てはめることはできず、その時代その時代に合った「道理」があるという点にあります。この考え方は、柔軟で現実的です。彼が歴史の流れを具体的にどう見ていたかに添って説明しましょう。

 神々の時代にはすべて明澄だったのだが、人の世になって「顕」と「冥」との分裂があらわれた。「冥」の世界は人間の手に負えなかった。そこで仏法が伝わり、聖徳太子の時代にこれが王法を支えてくれるようになった。しかしやがて天皇だけではこの世を治めきれなくなり、摂政関白との連携によって世俗世界を統治する必要が生まれた。ところが院政という節目を経て今度は武家の力が天皇家と摂関家を圧倒するようになり、これを無視するわけにはいかなくなった。武家はもともとは下賤の身分ではあるが、この趨勢には誰も勝てない。これも神仏が私たちに末法の世をいかに克服するかをお示しになっているのである。そこで、この危機を克服するには、武家を滅ぼすのではなく、実朝の死によって源氏の血統が途絶えたのを契機として、摂関家から将軍を出して摂関家と武家を一体化し、文武両面において、天皇家を援けるように再編成するのがよい。

 今から見れば貴族政治を何とか保守するための調子のよい合理化のようにも思えますが、慈円にしてみれば懸命に知恵を絞って編み出した歴史哲学・政治学であり、当代に思いを馳せれば、なかなかよくできた緻密な論理だと思います。慈円は、けっして天皇を絶対化しないし、その限界もよく見ています。後に扱う北畠親房の『神皇正統記』は、これより百年以上後に書かれていますが、後醍醐天皇側につき天皇親政の論理を編み出そうとした親房は、論理としては空想的で、その点、慈円のほうがはるかに現実を広くよく見ていたと言えるでしょう。これは『神皇正統記』が熱い情熱をたぎらせた「闘いの書」「実践の書」であるのに対して、『愚管抄』があくまでも冷静な智慧を重んじるという違いから来ているのかもしれません。
 丸山眞男は二つを比べて、やはり『愚管抄』のほうが優れているという評価を下しているそうですが、彼はまた晩年、古代研究に打ち込み、日本人の国民性を「歴史に対するオプティミズム」と規定しました。そして滅びかけてもまた蘇生するその連続性を、植物のように「次々と成り行くいきほひ」と形容しています。これはなかなか的を射た指摘で、災害と恵みとをもたらす自然の両面性に早くから向き合ってきた日本人の精神風土と深く関連しているでしょう。また、千数百年もの間一つの王朝を守り抜いてきた世界に類例のないこの国の性格を言い当ててもいます。
 ところで『愚管抄』がまさにこの「歴史に対するオプティミズム」「次々と成り行くいきほひ」を体現した書なのです。というのは、第一に、中国では国王の器量ひとつで国が栄えたり滅んだりする習わしになっているが、日本はそうではないとして次のように述べているからです。

コノ日本国ハ初ヨリ王胤ハホカヘウツルコトナシ。臣下ノ家又サダメヲカレヌ。ソノママニテイカナル事イデクレドモケフマデタガハズ。≫〈巻第七)

 また最後の問答部分で、「すでに世は落ちぶれ果てたというのにどうして容易に立ち直るなどというのか」と問われて「ある程度ならば容易なのだ」と答えると、「ではどうやって立ち直らせるのか」と再び問われ次のように答えます。

≪(前略)不中用ノ物ヲマコトシクステハテテ目ヲダニミセラレズハ、メデタメデタトシテナヲランズル也(後略)≫

要するに、あまりに繁多になってしまった官位の部類を整理して優れたものだけを残せばよいということです。では捨てられた人々が反乱を起こしたらどうするのかと問われて、だからこそ武士を側につけておく必要があるのだと答えます。さらに、誰が優れた人々を選ぶのかと問われて、そういうことをできる人が四、五人は必ずいる。その四、五人が選んだなら天皇は反対を唱えてはいけないと答えています。
 これは、国会議員や官僚がひどく劣化している今の衆愚政治の時代に大いに参考になる考え方です。私は国会議員の数を減らすのには反対ですが、有権者にも被選挙権者にもそれぞれ難易度の違うテストを課すべきだと考えています。また視野狭窄のタコツボ官僚を排するには、ハーバード大学を出なくてもいいですから、何年かに一度庶民の勤労現場に出向させるべきだと思います。

 慈円はまた、カタカナ表記を選んだことにきわめて自覚的で、こういうおかしな方法をとるのは、漢文では今の時代に読める人が少なく、できるだけたくさんの人に自分の考えを知ってもらいたいからだと述べています。当時、公式文書はすべて漢文で、和歌、日記、随筆などは女文字である平仮名と漢字が混用されていました。慈円は読者がある程度位の高い男性であることを想定して、その中間を狙ったのでしょう。これも効果はどうだったかはともかくとして、新しい試みでした。類例を挙げるなら、ルターが聖書をラテン語からドイツ語に翻訳したのに似ています。もっとも、その方法は、現代人が読むにはかえって裏目に出てしまったわけですが。

『愚管抄』は。いまから見れば私的なアングルに偏した書物なので、実証史的価値はさほどないかもしれません。しかし日本史の大きな変わり目をたまたま生きる羽目になった最高の知性が政治問題をどのように考えたかを知るには、超一級の資料だと言えましょう。日本における政治学の嚆矢といっても過言ではありません。
 それは彼が、この世に通底している原理を見破ってやろうという強い問題意識をもって、統治が行なわれる現場のすぐ近くで鋭い観察に徹したからこそできたことで、今日の政治を考えるのに、マスメディアの形式化した政局報道などに頼っていても、ことの本質が何も見えてこないのと似ています。私たちがマスメディアの流すウソ(たとえば「国の借金1000兆円」や「ヒラリー優勢」や「TPPは日本にとってぜひ必要」など)を見抜くために、信頼できる情報を選択し、それらを自分の頭で処理することが必要であるように、慈円は、よく見え、よく聞こえる情報だけを頼りに、自らの優れた、そしてややひねくれた哲学的知性を存分に駆使したのでした。