倫理の起源37
次に、一般に性愛関係は、それ自体としては、閉じられた二人の関係であるから、その世界の外側との関係で、どういう倫理性が要求されるかということを考えておかなくてはならない。
すでに述べたように、人間の性愛意識は、多様に拡散しており、またいつでも発動できるポテンシャルを持っている。これを本質的な「乱脈性」と呼ぶことができる。この乱脈性は、人々が労働のために群れ集って社会集団をつくる場合、そこに必要とされる秩序とけっして相容れない。そこで、人類社会は、労働の共同性が実現される時と場所と、性的な共同性が実現される時と場所とを、厳密に区別する発想をもつに至った。したがって公開の場で、性愛意識や性愛行為を露出することは禁じ手であり、社会集団の側からすれば、「猥褻」とか「公序良俗に反する」とか「犯罪」とかとらえられることになる。
ちなみにドイツ語では、面白いことに、「人倫」を表わすSittlichkeitという言葉にただの「不法行為」を表わすDeliktを結合させたSittlichkeitsdeliktという言葉、およびただの「犯罪」を表わすVerbrechenを結合させたSittlichkeitsverbrechenという言葉は、ともに単なる道徳破壊を意味するのではなく、いずれも直ちに「性犯罪」を意味する。
労働の共同性をつかさどっている秩序は、公共性倫理の基礎を形作るが、これは直接の性的な共同性と端的に対立するので、性的な共同性が公共性倫理との間に接点を見出すためには、その関係の社会的な承認の手続きを踏まなくてはならない。すなわち、婚姻や家族形成という媒介が必要とされるのである。
しかし労働の共同性と、性的な共同性とのこの区別は実際にはしばしば越境される。また、誰にとっても性愛は人生の重大事であり、大きな関心の的でもあるので、それについて語られるのを抑えることはできない。そこで、その話題は、ある程度心を許した者たちだけの間、あるいは特定の大人同士といった限定された空間のモードのなかで、秘密に、ひそかに、下ネタとして、笑いや羞恥心を伴って語られるのである。
このようにして、性愛(エロス)倫理は、外側との関係では、その最も私的な部分、肉の交わりの部分をみだりに公開してはならないというかたちをとって現われる。越境は現にしばしば起こっているし、宗教的な戒律が緩んだ近代以降は、かなり寛容(悪く言えばいい加減)になってはいる。しかしこの基本原則が崩壊したわけではないし、これからも崩壊しないだろう。これが崩壊するときには、Sittlichkeitはおしまいである。
ところで、先に男女関係や夫婦関係における人倫性についての和辻哲郎の説を紹介した折、一つの疑問を呈しておいた。彼はただこの関係が閉鎖的で私的であるゆえに隠されるべきものであると述べているだけであるが、これは一種の同義反復であり、なぜ性愛的な関係に限ってそのように厳重に秘匿されるのかという問いに答えていない、と。
和辻の説では、ただ私的であるから隠されるとされているが、私的とは、もともと公的であることとの関係においてとらえられる概念である。したがって、なぜ性愛という私的なあり方に限ってこれほど明瞭な秘匿性が「人の道」として成立しているのかを説明するためには、他の人間関係のあり方や営みとの具体的で質的な相違を根拠にするのでなくてはならない。和辻は、指摘した箇所では残念ながらそれをなしえていないので、この領域の内部における人倫の、単なる「現象」の記述にとどまっているのである。
私見によれば、この問いに対する回答は次のようになる。
性愛の共同性は、それが単に閉鎖的で私的であるから公開に対するタブーが存在するのではない。これには性愛という営みに固有の理由が考えられる。
すでに述べたように、生殖のサイクルからはみ出した人間の性的関心や行為はもともと「乱脈性」を本質としている。この点がまず、労働を基礎とする一般的な共同性の秩序に抵触する。
さらに性愛行為の実態に即して次の事実を付け加えるべきだろう。
言うまでもなく、古来、神話や歌謡や文学にもうかがえるように、性愛はじつは人間の最大の関心事である。それはなぜかといえば、同じ「人間」でありながら異なる性の体現者の個別身体、個別人格の全体を目がける意志と行為だからであり、その当事者のみの心身の激しい集中と感動(魂魄一体となったふるえ)を伴うからである。
こうして人間の性愛は、その個別身体と個別人格が持ちうる時間の総体(一つひとつの人生)に大きな影響を与える。人は、ある個人が性愛的な時間帯のなかにいない時にも、彼がその時間帯のなかにいた時の「事件」の成り行きをことさら気にせずにはおれないのである。この事実が、それぞれの人をして、他の人間関係や生活の営みに比べて性愛関係を特別のものとして観念させる大きな要因としてはたらいている。
本質的な乱脈性と個別的な魂魄のふるえ、この二つの点が、労働の協同を基礎とした一般的な共同性の秩序と相いれないのである。人々の入り混じる日常的な時間帯(象徴的に言えば昼の時間帯)のなかに、この乱脈性と個別的な魂魄のふるえを持ち込むことは許されない。それをやれば、たちまち一般的公共的な人倫の了解が破壊されるからである。
ロシアの民謡「ステンカ・ラージン」では、反乱軍の首領ラージンが、美しいペルシアの姫との愛に酔っている時、手下たちの陰口を小耳にはさむ。「一夜でボスまですっかり女になっちまいやがって」……ラージンはやにわに姫を抱えて「ヴォルガよ、この贈り物を受け取れ」と大河に投げ捨てる。自分の性愛への熱中が、一般的な社会集団の秩序を乱していることを悟り、即座にその秩序を回復するほうを選ぶのである。
象徴的に言えば、労働の営みは、静かに、淡々と、なるべく個人的な感動を伴わずに行われなくてはならない。それでなくてはその目的が果たせない。その場所では人々が入り混じるのだから、本来は、自我の動揺(情緒の波立ち)が不断に伴っているはずである。もちろん、事実それは伴っているが、なるべくそれを表に出さないようにしなくてはならない。これに対して、性愛の営みは、まったく逆に、感動を伴うことこそがその必須条件である。両者はそれぞれに固有の人倫性をそなえているのだが、その人倫性は互いに矛盾する。これを、多数者どうしの交わりと、特定の一者との交わりとが抱懐する矛盾ととらえてもよい。
性愛は、当事者にとって胸躍らせる陶酔的な営みだが、同時に、非当事者である一般社会のまなざしからすれば、それが公開され露出された時には、いやらしく許すまじきものととらえられる。猥褻な行為自体というものがあるのではなく、この営みが公開・露出されようとするその接触面、境界面で初めて「猥褻」が成立するのである。労働の営みと性愛の営みの守られるべき使い分けがそのとき破られるからである。
しかしすでに述べたように、この使い分けは、実際にはそううまく行かず、人々の性に対する関心と欲望はしばしば労働を基礎とする日常的な時間帯のなかに侵入しようとする。この傾向に回路と居場所を与えるために、人々は、「祭り」という特別の非日常的な時間帯を考案した。祭りは、一般的な共同性の象徴としての聖なる存在の再確認と強調の機能を持つとともに、他方では、性愛という特殊な情動を公共的な場において発散することを(多くの場合擬似的、暗示的に)互いに許容、黙認する場でもある。どんな祭りも多かれ少なかれこの両側面をそなえている。聖なる存在そのものが、まさに自分が祭られるその厳粛な日に、歌舞音曲、饗宴などを伴いつつ、日常からの飛躍としての幻想と蠱惑の世界を開くのである。
これは、世界中に散らばるさまざまな祭りの例を引くまでもなく、婚礼という、共同体にとって「厳粛な」はずの日が、同時に羽目を外した酔狂を許す日でもあるその両義性に注目するだけで明らかであろう。
古代ギリシアの伝承として名高い次の話は、この間の事情をよくあらわしていて、たいへん含蓄が深い。
人間はもともと男女一体であったが、その傲慢がゼウスの怒りに触れて引き裂かれてしまった。そのため互いに相方を求めることに明け暮れ、働くことも忘れて無為に過ごして死んでいくようになってしまった。そこでゼウスはこれを憐れんで、隠しどころを前に付け替え、時々は交わって子どもを産めるようにしてやった。これによって人間は、日々の秩序感覚を回復したというのである。
この神話は、人間自身が、己れの性愛感情の破壊的な激しさに対する自覚に基いて、婚姻などの厳粛な秩序を考案することによって、一般的共同性との間にうまい妥協点を見いだしたことを象徴している。「子どもを産めるようにした」というのも、個体の有限時間を超えた共同体の連続性(異世代間の継承)をどのように確保するかという倫理的な問いに答えたものである。
次に、一般に性愛関係は、それ自体としては、閉じられた二人の関係であるから、その世界の外側との関係で、どういう倫理性が要求されるかということを考えておかなくてはならない。
すでに述べたように、人間の性愛意識は、多様に拡散しており、またいつでも発動できるポテンシャルを持っている。これを本質的な「乱脈性」と呼ぶことができる。この乱脈性は、人々が労働のために群れ集って社会集団をつくる場合、そこに必要とされる秩序とけっして相容れない。そこで、人類社会は、労働の共同性が実現される時と場所と、性的な共同性が実現される時と場所とを、厳密に区別する発想をもつに至った。したがって公開の場で、性愛意識や性愛行為を露出することは禁じ手であり、社会集団の側からすれば、「猥褻」とか「公序良俗に反する」とか「犯罪」とかとらえられることになる。
ちなみにドイツ語では、面白いことに、「人倫」を表わすSittlichkeitという言葉にただの「不法行為」を表わすDeliktを結合させたSittlichkeitsdeliktという言葉、およびただの「犯罪」を表わすVerbrechenを結合させたSittlichkeitsverbrechenという言葉は、ともに単なる道徳破壊を意味するのではなく、いずれも直ちに「性犯罪」を意味する。
労働の共同性をつかさどっている秩序は、公共性倫理の基礎を形作るが、これは直接の性的な共同性と端的に対立するので、性的な共同性が公共性倫理との間に接点を見出すためには、その関係の社会的な承認の手続きを踏まなくてはならない。すなわち、婚姻や家族形成という媒介が必要とされるのである。
しかし労働の共同性と、性的な共同性とのこの区別は実際にはしばしば越境される。また、誰にとっても性愛は人生の重大事であり、大きな関心の的でもあるので、それについて語られるのを抑えることはできない。そこで、その話題は、ある程度心を許した者たちだけの間、あるいは特定の大人同士といった限定された空間のモードのなかで、秘密に、ひそかに、下ネタとして、笑いや羞恥心を伴って語られるのである。
このようにして、性愛(エロス)倫理は、外側との関係では、その最も私的な部分、肉の交わりの部分をみだりに公開してはならないというかたちをとって現われる。越境は現にしばしば起こっているし、宗教的な戒律が緩んだ近代以降は、かなり寛容(悪く言えばいい加減)になってはいる。しかしこの基本原則が崩壊したわけではないし、これからも崩壊しないだろう。これが崩壊するときには、Sittlichkeitはおしまいである。
ところで、先に男女関係や夫婦関係における人倫性についての和辻哲郎の説を紹介した折、一つの疑問を呈しておいた。彼はただこの関係が閉鎖的で私的であるゆえに隠されるべきものであると述べているだけであるが、これは一種の同義反復であり、なぜ性愛的な関係に限ってそのように厳重に秘匿されるのかという問いに答えていない、と。
和辻の説では、ただ私的であるから隠されるとされているが、私的とは、もともと公的であることとの関係においてとらえられる概念である。したがって、なぜ性愛という私的なあり方に限ってこれほど明瞭な秘匿性が「人の道」として成立しているのかを説明するためには、他の人間関係のあり方や営みとの具体的で質的な相違を根拠にするのでなくてはならない。和辻は、指摘した箇所では残念ながらそれをなしえていないので、この領域の内部における人倫の、単なる「現象」の記述にとどまっているのである。
私見によれば、この問いに対する回答は次のようになる。
性愛の共同性は、それが単に閉鎖的で私的であるから公開に対するタブーが存在するのではない。これには性愛という営みに固有の理由が考えられる。
すでに述べたように、生殖のサイクルからはみ出した人間の性的関心や行為はもともと「乱脈性」を本質としている。この点がまず、労働を基礎とする一般的な共同性の秩序に抵触する。
さらに性愛行為の実態に即して次の事実を付け加えるべきだろう。
言うまでもなく、古来、神話や歌謡や文学にもうかがえるように、性愛はじつは人間の最大の関心事である。それはなぜかといえば、同じ「人間」でありながら異なる性の体現者の個別身体、個別人格の全体を目がける意志と行為だからであり、その当事者のみの心身の激しい集中と感動(魂魄一体となったふるえ)を伴うからである。
こうして人間の性愛は、その個別身体と個別人格が持ちうる時間の総体(一つひとつの人生)に大きな影響を与える。人は、ある個人が性愛的な時間帯のなかにいない時にも、彼がその時間帯のなかにいた時の「事件」の成り行きをことさら気にせずにはおれないのである。この事実が、それぞれの人をして、他の人間関係や生活の営みに比べて性愛関係を特別のものとして観念させる大きな要因としてはたらいている。
本質的な乱脈性と個別的な魂魄のふるえ、この二つの点が、労働の協同を基礎とした一般的な共同性の秩序と相いれないのである。人々の入り混じる日常的な時間帯(象徴的に言えば昼の時間帯)のなかに、この乱脈性と個別的な魂魄のふるえを持ち込むことは許されない。それをやれば、たちまち一般的公共的な人倫の了解が破壊されるからである。
ロシアの民謡「ステンカ・ラージン」では、反乱軍の首領ラージンが、美しいペルシアの姫との愛に酔っている時、手下たちの陰口を小耳にはさむ。「一夜でボスまですっかり女になっちまいやがって」……ラージンはやにわに姫を抱えて「ヴォルガよ、この贈り物を受け取れ」と大河に投げ捨てる。自分の性愛への熱中が、一般的な社会集団の秩序を乱していることを悟り、即座にその秩序を回復するほうを選ぶのである。
象徴的に言えば、労働の営みは、静かに、淡々と、なるべく個人的な感動を伴わずに行われなくてはならない。それでなくてはその目的が果たせない。その場所では人々が入り混じるのだから、本来は、自我の動揺(情緒の波立ち)が不断に伴っているはずである。もちろん、事実それは伴っているが、なるべくそれを表に出さないようにしなくてはならない。これに対して、性愛の営みは、まったく逆に、感動を伴うことこそがその必須条件である。両者はそれぞれに固有の人倫性をそなえているのだが、その人倫性は互いに矛盾する。これを、多数者どうしの交わりと、特定の一者との交わりとが抱懐する矛盾ととらえてもよい。
性愛は、当事者にとって胸躍らせる陶酔的な営みだが、同時に、非当事者である一般社会のまなざしからすれば、それが公開され露出された時には、いやらしく許すまじきものととらえられる。猥褻な行為自体というものがあるのではなく、この営みが公開・露出されようとするその接触面、境界面で初めて「猥褻」が成立するのである。労働の営みと性愛の営みの守られるべき使い分けがそのとき破られるからである。
しかしすでに述べたように、この使い分けは、実際にはそううまく行かず、人々の性に対する関心と欲望はしばしば労働を基礎とする日常的な時間帯のなかに侵入しようとする。この傾向に回路と居場所を与えるために、人々は、「祭り」という特別の非日常的な時間帯を考案した。祭りは、一般的な共同性の象徴としての聖なる存在の再確認と強調の機能を持つとともに、他方では、性愛という特殊な情動を公共的な場において発散することを(多くの場合擬似的、暗示的に)互いに許容、黙認する場でもある。どんな祭りも多かれ少なかれこの両側面をそなえている。聖なる存在そのものが、まさに自分が祭られるその厳粛な日に、歌舞音曲、饗宴などを伴いつつ、日常からの飛躍としての幻想と蠱惑の世界を開くのである。
これは、世界中に散らばるさまざまな祭りの例を引くまでもなく、婚礼という、共同体にとって「厳粛な」はずの日が、同時に羽目を外した酔狂を許す日でもあるその両義性に注目するだけで明らかであろう。
古代ギリシアの伝承として名高い次の話は、この間の事情をよくあらわしていて、たいへん含蓄が深い。
人間はもともと男女一体であったが、その傲慢がゼウスの怒りに触れて引き裂かれてしまった。そのため互いに相方を求めることに明け暮れ、働くことも忘れて無為に過ごして死んでいくようになってしまった。そこでゼウスはこれを憐れんで、隠しどころを前に付け替え、時々は交わって子どもを産めるようにしてやった。これによって人間は、日々の秩序感覚を回復したというのである。
この神話は、人間自身が、己れの性愛感情の破壊的な激しさに対する自覚に基いて、婚姻などの厳粛な秩序を考案することによって、一般的共同性との間にうまい妥協点を見いだしたことを象徴している。「子どもを産めるようにした」というのも、個体の有限時間を超えた共同体の連続性(異世代間の継承)をどのように確保するかという倫理的な問いに答えたものである。
まず、生き物としての雌雄の関係においても人間的な男女関係においても「たがいに相方を求めることに明け暮れ」ているのかどうかということは、僕にとっては大きな謎であり、そんなにも簡単に決めてしまえることでしょうか。
ひとつのペニスで複数の女性器と同時につながることはできない。とりあえずオスは、一個のメスに向かってゆく。何はともあれひとりの人間のこの社会での暮らしは、ごく限られた性的な関係と無数の非・性的な関係との上に成り立っている。男は、そのつどそのつどひとりの女に向かっている。それは、ほかの女なんか女じゃない、その女だけがこの世で唯一の女だという心の動きのはずです。つまり、「本質的な乱脈性」などということは成り立たないということです。男が女に寄ってゆく情熱は、「乱脈性」の上に成り立っているのではない。何百人の女に寄ってゆこうと、そのつどその場では、この女だけがこの世で唯一の女だという思い込みの上に起きている。そのとき、ほかの女を拒絶しているのです。女だって、男を拒絶する心の動きを持っていなければ、一人の男のペニスを受け入れることはできない。女は、ペニスに対する悪意というか拒絶反応を持っている。その拒絶反応が快感になる。
他者を拒絶する「孤立性」が男女の関係を成り立たせているというパラドックス。そしてその「孤立性」が人間の共同作業をより高度で複雑なものにしている。土を掘る人と土を運ぶ人の人間的な連係は、それぞれが「孤立性」を持っているから生まれてきた。つまり、労働の共同性だろうと性愛の共同性だろうと、人間の共同作業は、自然状態において「孤立性」の上に成り立っているということです。
「祭り」は、共同体の運営の中に挿入されて生まれてきたのではないですよ。共同体が発生するはるか以前から、みんなで歌い踊って騒ぐ「祭り」はあったのです。まあ、原初の人類が二本の足で立ち上がったこと自体が、ひとつの「祭り」だったのです。
もともと祭りのほうが先にあったから、「厳粛な」儀式も最後には「羽目を外す」お祭り騒ぎになってしまうのです。
たとえば祇園祭は、もともと公儀による悪霊を鎮めるための厳粛な儀式だったが、今や民衆によるきわめて高度に洗練されたたんなるカーニバルになっている。そしてそれは、共同体のためということ以前に、人が生きてあれば娯楽=祭りは必要だという「倫理」の問題なのでしょう。
「倫理」といったって、「個体の有限時間を超えた共同体の連続性(異世代間の継承)を確保する」ためのものかどうかはわからない。そんなことが大切なことかどうかなんてわからない。そんなことよりも、ひとりの人間が生まれて死んでゆくことの重みのほうが、もっと大きな「倫理」の問題かもしれない。「無常」ということ、「共同体の連続性」なんかどうでもいい、人は死と和解したところで生きてゆこうとする、そこから「倫理」という問題が生まれてきたのかもしれない。まあ「共同体の連続性を確保する」ことが死と和解することだという思考・思想の人もいるのかもしれないが、人間としての自然状態から生まれてくる「倫理」は、そんなものじゃない。
反論してもらえるかどうかわからないが、ひとまずコメントさせていただきました。
あなたのコメントを繰り返し読ませていただきましたが、残念ながら、ものの考え方(人間存在に対する見方)がこんなに違うのか、という距離感だけが残りました。
あなたの文章のすべてに対してひとつひとつ言及するのが筋というものでしょうが、申し訳ないことに、現在それだけの余裕がありませんので、いくつかの象徴的な部分だけを取り出して、それについての私の考えを述べさせていただきます。
なおこれは、「反論」というのではなく、むしろ議論を少しでも噛み合わせるための「手続き」というほどのものです。私のこのコメントにどんな「反論」をお寄せになってももちろんけっこうですが、私自身が、これなら議論が噛み合いそうだと感じられるようになるまでは、私のほうからのこれ以上のコメントは差し控えさせていただきます。そのときが来ましたら、お互いに「Unknown」ではないかたちで話し合いたいと思います。
①人間の性愛に関する「本質的な乱脈性」という言葉に対してかなり強い否定感情をお持ちのようですが、人間の性愛感情や性愛意識が、他の動物に比べて「生殖」という自然目的を逸脱して、その「対象」と「方法」においてひどく多様であることは、ごく常識的な観察によって確かめられることではないでしょうか。
これについては、このシリーズのひとつ前で論じています。
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/671c65bc4ce6c84fcead1eb611aba8c3
なお、人間の性愛においては、おおむねひとりの男(女)が一人の女(男)の個別性、独自性に向かって己れを投ずるかたちをとるというのは、あなたがおっしゃる通りです。私自身、その事実をこれまでいろいろなところでしつこく説いてきました。しかし、だからといって、人間の性意識の「乱脈性」がなくなるわけではない。夫婦の不和、恋人たちの愛の終わり、嫉妬や憎悪、多角関係、倒錯的な性愛、こういう人間的現象についてあなたはどう考えますか?
この乱脈性(反自然性と言っても同じです)が人間にとって本質的だからこそ、彼はその危機の自覚を制度的・文化的な秩序形成のうちに表現しようとしたというのが私の考えです(参考:岸田秀氏の「人間は本能が壊れた動物だ」説)。
ちなみに、こういう事象をことさら取り上げたからと言って、私は愛に対するニヒリズムやシニシズムを披歴しているわけではありません。
②あなたのコメントから引きます。
≪女は、ペニスに対する悪意というか拒絶反応を持っている。その拒絶反応が快感になる。≫
申し訳ありません。私は自分の経験の範囲内で、こういう女性に出会ったことがありません。
③あなたのコメントから引きます。
≪労働の共同性だろうと性愛の共同性だろうと、人間の共同作業は、自然状態において「孤立性」の上に成り立っているということです≫
これは二重の意味で私の考え方と相容れません。
第一に、あなたは両者の共同性の著しい違いを無視しています。第二に、このほうが重要ですが、人間のあらゆる活動は、一見孤立的に見えても、他者とのかかわりにおいて成り立つ、というのが私の基本的な考え方です。このシリーズ全体がこの立場に立った展開となっております。
なおこれは何も私だけの立場ではなく、ヘーゲル、マルクス、和辻らは、みなこの考え方を徹底させたうえで独自な思想を築いています。
④あなたのコメントから引きます。
≪「祭り」は、共同体の運営の中に挿入されて生まれてきたのではないですよ。共同体が発生するはるか以前から、みんなで歌い踊って騒ぐ「祭り」はあったのです≫
あなたと私とでは、「共同体」という概念に対する理解が全然違っているようです。私には、「祭り」という、まさに共同性を最もよく象徴する営みが、なぜ「共同体」よりも時間的に先行するのか、まったく理解できません。
⑤あなたのコメントから引きます。
≪「倫理」といったって、「個体の有限時間を超えた共同体の連続性(異世代間の継承)を確保する」ためのものかどうかはわからない。そんなことが大切なことかどうかなんてわからない。そんなことよりも、ひとりの人間が生まれて死んでゆくことの重みのほうが、もっと大きな「倫理」の問題かもしれない≫
私は、すべての倫理が、「個体の有限時間を超えた共同体の連続性(異世代間の継承)を確保する」ためにあるなどとひとことも言っていません。ただ、この問題を提出することが、倫理的な問いのひとつであると言いたいだけです。言葉足らずですみませんでした。
また、「ひとりの人間が生まれて死んでゆくことの重み」は、いかにも最重要な倫理問題ですが、それが倫理問題であるのは、まさに人間の死が「ひとつの個体的な肉体の解体」という自然現象にはけっして還元しえない意味(共同的な意味)を持つからです。そのことも私は、このシリーズや、他の著作で説いてきたつもりです。
以上、長くなって済みませんでした。よくその意とするところを汲んでいただければ幸いです。
僕はもう孤立無援のところでものを考えているから、他の人と考えが違うのかどうかということすらよくわかりません。どうやら違うらしいことがわかっただけでも、大いにありがたいと思っています。
とりあえず僕もブログを持っているのですが(「ネアンデルタール人は、ほんとうに滅んだのか」というタイトルです)、残念なことに、いつまでたっても議論してくれる相手があらわれません。それでついふらふらっとこんなところに書き込みをしてしまいました。すみません。
もう反論してもらえることはないと思いますが、ひとまず「言葉の闘い」として再反論を書かせていただきます。
まず、共同体(国家)と断ったはずです。つまり氷河期が明けて文明が発生したことは、すなわち共同体(国家)の発生でもあったはずです。それ以前と以後の問題です。まあ、パンドラの箱を開ける以前と以後の問題だと言い換えてもいいです。
しかし人間は、そうした共同体の制度性から下ろされてくる「共同性」だけで生きられるわけもなく、自然状態(=原始性)の「共同性」も手離さなかった。それが性愛(エロス)とか死と和解するとかというさまざまな問題になっているでしょう。
僕は、「人間とは何か」という問題を、人類の直立二足歩行の起源から考え始めてきました。古人類学、ですね。「哲学」のことはよく知りませんが、ちょっとばかりかじったヘーゲルやマルクスに対しても和辻哲郎や岸田秀に対しても、「そんなことあるものか」と思うばかりです。そういう意味でも、孤立無援で考えています。
たとえば、人類が一年中発情している猿になったのは、はたして「自己意識=観念」の問題でしょうか。
岸田秀氏は、人間の変態ぶりについて「本能が壊れている」とか「観念でセックスをする生き物だ」という。何をアホなことをいっているのだろう。SMとかのもろもろの変態観念および行為が、はたして原始時代から存在していたでしょうか。すべては、文明の発生以後に起きてきた性の関係でしょう。そして現代社会においてそれらが性関係の主流になっているわけでもなんでもなく、そんな変則的な性関係を基準にして人間性の基礎を語られたら困ります。
ようするに、自我(観念)が肥大化した文明社会にはそういう変則的なことをしないと勃起しなくなってしまっている人がいるというだけのことでしょう。基本的にペニスは、勝手な「妄想=自己意識」で勃起するのではなく、自己意識を忘れたひとつの「反応」としてオートマチックに勃起する。これはたぶん、「われを忘れて熱中する」という人間性の基礎にある意識現象です。
人類が一年中発情するようになったのは、猿よりももっと他愛なく勃起してしまうようになったからでしょう。猿は、いわゆる発情期のメスの性器の匂いや形状に反応して勃起するが、人類のオスはもう、メスの存在そのものに反応して勃起するようになっていった。そのとき二本の足で立っている人類のメスは、性器を尻の下に隠してしまっているし、匂いを強く発することもなくなった。また人類の嗅覚は著しく後退していたし、そのくせ知能(脳容量)も自己意識も600万年の人類史の半分の期間は猿と同じレベルだったのです。それでも、猿よりももっと他愛なく発情(勃起)するようになっていった。そこが問題です。
人類は、二本の足で立ち上がったことによって猿よりももっと弱い猿になっていった。弱い上に、しかも猿よりも寿命が短くなってしまった(1万年前でも、まだ平均寿命は30数年だったのです)。それでも絶滅することなく生き残ってきたのは、猿の何倍もの繁殖力を持っていたからです。べつに猿以上の生きのびる能力を持っていたからではない。その能力においては、猿よりもはるかに劣っていた。
原始人はそんな変態観念で勃起していたのではないし、現代人だって、多くは、それらの変態観念にたよらなくても他愛なく勃起している。
ペニスは不随意筋であり、意志とは関係なくオートマチックに勃起する。たいていの若者はそれを体験している。大人になって意志というか自己意識というか観念が肥大化してきてそれがままならなくなってくる。SM等の変態行為は、そうした自我という観念をいったん解体して原始的(オートマチック)な勃起、すなわち人間としての自然状態に遡行する手続きです。岸田秀氏のいうように「観念で」勃起=セックスしているのではない。
人間のセックスは観念的だ、だなんて大嘘です。ばかも休み休みにいえ、といいたいくらいです。
人は、自己意識=観念で勃起するのではなく、「われを忘れて」勃起する。二本の足で立ち上がった原初の人類は、猿よりももっと原初的な生命すなわち「自然」に遡行していった。そのとき猿のほうが、ずっと観念的で自己意識が強かったのです。
そんな「自然から逸脱した」変態観念や行為を基準にして人間性の基礎を語られたら困ります。何が「本能が壊れている」か。考えていることの程度が低すぎますよ。人間は、猿よりももっと「本能的な」存在なのです。そういう猿よりももっと生命の根源に遡行しようとする心の動きや無意識的な身体性を持っているのです。そしてそこから人間的な学問や芸術やスポーツも花開いてきたのです。
制度的な共同性=観念は、人間をインポテンツにする。それを克服しようとして変態行為が生まれてくる。それだってまあ、そうやって「本能」とやらに遡行しようとしているのであり、そういう涙ぐましい営みなのです。お前だけ観念でセックスしていろ、という話です。
>人間の性愛感情や性愛意識が、他の動物に比べて「生殖」という自然目的を逸脱して、その「対象」と「方法」においてひどく多様であることは、ごく常識的な観察によって確かめられることではないでしょうか<人間だろうと他の生き物だろうと「生殖」は「目的」ではなく「結果」です。自然界はそのような「セックスをしたら子供が生まれる」という仕組みになっているというだけのこと。なぜセックスするのかといえば人間だろうと犬だろうと鳥だろうと微生物だろうと、「体がむずむずする」からでしょう。それこそ「オートマチック」にセックスしているだけであり、だからこそ自然というのはうまくできているものだなあとも思うわけです。根源的な意識(本能)において、生殖という目的を持っている生き物なんかいませんよ。それは、生き物の営みのたんなる「結果」です。
あなたのいわれる「乱脈性」は、それがそのまま人間の共同性になっている、ということでしょうか。だから、人間の集団は無際限にふくらんでゆく。まあ、共同体の制度性においてはそうでしょう。しかし人間はそれだけではすまない。そういう「共生状態」は性愛のポテンシャルを減退させる。だから原始人だって「女を交換する」ということをしていたし、女も男も、よその集落の異性のほうがよかったのです。ふつうに人は、共生状態の家族の外に出て性愛の対象と出会ってゆくのじゃないですか。
あなたのいわれる「夫婦の不和、恋人たちの愛の終わり、嫉妬や憎悪、多角関係、倒錯的な性愛」は、「共生状態=制度性」の観念性から生まれてくるのでしょう。それは「乱脈性」の問題じゃないし、そんなところから人間的なダイナミックな勃起が起きてくるのではない。
人間は、根源において猿よりももっと他愛ない存在なのです。ほんとに岸田秀なんて、どうしようもないアホです。人間の行動は政治経済的・観念的な「下部構造」だけでは決定できないのです。すくなくとも原始人の生態は、学問芸術的・身体的無意識的な「上部構造」が決定していた。
ピアニストの指は、考えるよりも早く動いているでしょう。人間のペニスが勃起することだってそれと同じです。
ペニスは、孤立した個体としての「出会いのときめき」として勃起するのであって、「共生状態=共同性=乱脈性」として勃起するのではない。文明社会においては、そうした共生状態のインポテンツから逃れようとして、そのような「人間的現象」が起きてくる。しかしそれは、げんみつには「人間的現象」ではなく「文明的現象」なのです。原始社会にそのような現象はなかった。三角関係の一方を排除しようとするのは、共同体の制度性の基本のかたちでしょう。それはまあそれでもいいのだが、それで「人間的現象」の本質を語られても困ります。人間は猿よりももっと他愛なく勃起してしまう生き物である……これが「人間的現象」の基本です。何が観念でセックスするか。岸田秀氏に言いたいですよ、「俺はあんたみたいに器用なことはようしない」と。
まあ、文明の病として乱脈性とか変態とか嫉妬とか憎悪という問題はありますよ。しかしそれは人間性の自然としての「人間的現象」ではない。
女は根源においてペニスに対する悪意を持っている、ということは話が長くなってしまうのでここでは書けません。ただ、たとえば源氏物語に登場してくる女は、最初はすべて男を怖がったり拒絶したりしている。それはきっと女という存在の普遍的な無意識だろうと思います。無意識としてペニスを拒絶している。この問題は、かんたんには語れません。
雌雄の発生の問題でもあります。まあ、数学的に、ペニスを拒絶していないとひとつのペニスとくっつくという現象は起きてこない、というのか。いや、この問題はとにかくややこしいから撤回します。
僕は何も、人間は他者とかかわろうとしない、とはいっていないですよ。たがいに拒絶しあうかたちでかかわっているのであり、そこから「愛」の問題も「憎」の問題も生まれてくる。二本の足で立ち上がって向き合い、たがいの身体のあいだに「空間=すきま」をつくりあう。これが人と人の関係の基本であり、「空間=すきま」をつくりあうことは、拒絶しあっていることでもあり、と同時に、向き合ってそういう関係をつくっていないと二本の足で立つという姿勢は安定しない。たがいの身体が心理的な壁になって、前に倒れやすい姿勢を補助し安定させる。そうやって人間は、存在そのものにおいてすでに他者と向き合っている。そういうかたちで人間的な他者との関係の心模様が生まれてくる。
ヘーゲルだろうとマルクスだろうと、人間性の基礎を「労働」において、いまどきは「下部構造決定論」などということが当たり前のようにみなさん合意しておられているらしいが、ちゃんちゃらおかしいですよ。すくなくとも原始時代の進化発展の歴史は、生きのびるための「経済」の問題として動いてきたのではない。人間は、生きのびることなんかどうでもいいというコンセプトで二本の足で立ち上がったのです。そしてそうやって世界の隅々まで拡散していった。それは、より生きにくい地へ生きにくい地へと拡散してゆく現象であり、50万年前以降は、原始人の文化ではとうてい生きのびられそうもない氷河期の北ヨーロッパに住み着いてしまった。生きのびることなんかどうでもいいというコンセプトを持っていなければ住み着けるはずがない、生きのびるという経済のためなら、今ごろ人間は住みよい温暖な地にひしめき合っていますよ。人間は政治や経済=下部構造のことなんかほったらかしにしてしまう心模様を持っている。それを「性愛」といってもいいのだが、人間は基本的にというか無意識的には「生きのびることなんかどうでもいい」というかたちで死の問題を解決している存在なのでしょう。
人間がなぜ死を意識する存在になったかといえば、もともと猿よりももっと死の問題を解決している存在だったからです。それが、文明の発生以降解決できない存在になってきて、宗教(アニミズム)が生まれてきた。
人間は、「もう死んでもいい」というかたちで死を意識しはじめたのです。そうやって地球の隅々まで拡散していったのです。
それはまあともかく、「下部構造決定論」で人間の共同性の基礎を語られたら困ります。「下部構造決定論」が成り立たないところに人間性の基礎がある。ヘーゲルやマルクスが、なんぼのものですか。
最後に「祭り」の問題ですが。
とにかく、共同体(国家)の発生にともなう制度性としての共同性と、それ以前の原始的普遍的な共同性とは違うはずです。
原始時代にそうした人間の自然としての共同性の上に成り立った集団はあっても、制度的な「共同体」などというものはなかった、ひとまず僕はこの立場で考えています。
人類が地球の隅々まで拡散してゆくということがなぜ起きたかといえば、集団の外に新しい集団が生まれる、ということがたえず起きていたからです。この無限の繰り返しで、とうとう地球上を覆ってしまった。そしてこの現象は、おそらく直立二足歩行の開始直後からはじまっていた。人類史の最初の数百万年は猿と同じ身体の外見で同じ脳容量(知能)だったのだが、生態的には、ほかの猿とはずいぶん違っていたのです。
アフリカの中央部で生まれた人類が2百万年前にアフリカの外まで広がってゆくまでには、4、5百万年かかっているのですが、それでもいまだにアフリカ中央部だけにしか棲息できないチンパンジーとはえらい違いです。
ともあれそれは、新天地を求めて旅していったとか、そういうことではありません。どんなに住み難くてもそこに新しい集団をつくって住み着いていったのです。いくつかの集団からはぐれてふらふらしているものたちが、そこで出会ってときめき合い、祭りが生まれ、新しい集団をつくっていった。猿はそういう行動をとってもたがいに無視し合って必ずもとの集団に戻ってゆくが、人間はときめきあって新しい集団をつくっていった。これが、祭りの発生です。この「出会いのときめき」から言葉が生まれ踊りが生まれ歌が生まれてきた。
つまり「祭りという、まさに共同性を最もよく象徴する営み」であろうとも、集団が祭りをつくるのではなく、祭りから集団が生まれてきたのです。このことはたぶんあなたよりも僕のほうがたくさん考えているはずだからいうのですが、すくなくとも祭りの発生という問題に関しては、あなたは人間の共同性の自然と制度性をごっちゃにしています。
祭りは、つねに共同体の「外部」、すなわち共同体(村)と共同体(村)の境界(すきま=空間)で生まれてきた。それが「市(いち)」の起源であり、市から祭りが生まれ、祭りが生まれる場所を市と言った。日本列島の歴史で新しい村や町ができていったことだって、まあそういう「祭り」が起源になっているはずです。それでも共同体の本能として「われわれは新天地を求めてここにやってきた」というような「創世物語」をつくりたがるのだが、そういう同族(共生)意識が集団の結束になるからでしょう。そしてそういう祭り=儀式をつくっても、けっきょくは最初の(自然としての)羽目を外してときめき合うイベントになってしまう。なぜなら同族(共生)意識で集団の結束を図ることはインポテンツな状態だからです。
「共同性を最もよく象徴する営み」とはなんですか?共同体の結束をつくることですか?そんなことよりもまず最初に、人と人が他愛なくときめき合う体験があったのであり、最後にはその体験にかえってゆくのです。そのあいだに、共同体の結束、というインポテンツな儀式=祭りが挿入されているだけです。
<なぜ「共同体」よりも時間的に先行するのか>ということがわかっていただけたでしょうか。まあこれは、原始時代に「アニミズム=呪術」は存在したかという問題でもあります。悪いけど僕は、あなたたちみたいに「存在した」という前提で考え始めるような怠惰なことはしたくないのです。そこのところで、柳田國男も折口信夫も、何をくだらないことをいってるのだろうと思います。彼らの思考は、横着ですよ。
吉本さんは「考えることは既成の歴史を押し返すことだ」といったけど、ヘーゲルやマルクスをありがたがっていて何が「押し返すこと」か。あの人だってヘーゲルやマルクスの尻馬に乗っていただけじゃないですか。ヘーゲルやマルクスだって、僕にとっては敵ですよ。世界中の人に向かって「それは違う」といいたいことが山ほどあります。
>残念ながら、ものの考え方(人間存在に対する見方)がこんなに違うのか、という距離感だけが残りました<
「残念ながら」とは、どういうことですか。僕があなたと同じことを考えないといけない義理なんかないですよ。僕はあなたに対して「ああこんなふうに考える人がいるのか、面白いなあ」と思っただけですよ。あなたのいわれる「議論が噛み合う」とは、僕があなたから説得される、ということですか。そんな前提を持たれても困ります。議論というのは、一方が一方に説得されることですか。「それは違う」という応酬をしながらおたがいに新しい地平を展開し発見してゆくことではないのですか。どちらが正しいもくそもない。ものわかれになってもいい。新しい地平の展開と発見こそが希望です。べつに、あなたの知っていることを教えてもらいたいわけじゃない。僕は、あなたから刺激を受けながら、今ここの思考からの新しい展開と発見がしたかっただけです。
あなたは「ことばの闘い」といわれる。人はなんのためにそんなことをするのかといえば、この世界の真実が知りたいからであって、自分を確立するためじゃないのでしょう?僕がここにコメントしたのは、自分の自我を満足させるためでも、あなたの自我に奉仕するためでもない。この世界の真実に推参したかっただけです。
ものを考えることは、自分に張り付いた意識を引きはがして、自分の外に向けてゆくことでしょう。意識が自分にまとわりついていることほど鬱陶しいこともない。人間は、そうやって痛いとか苦しいとか腹が減ったとか暑いとか寒いと思う。人間は脆弱な生き物だから、ことさら強くそうした「苦痛」を意識してしまう。意識してしまう存在だからこそ、そうした自分に張り付いた意識を引きはがす営みとしてものを考える能力が進化し、一年中発情している存在になっていった。
自己意識=観念は、性衝動のポテンシャルを減退させる。自己意識や観念(本能が壊れている)で性愛の起源を語ろうなんて、本当に愚劣です。「性愛=エロス」は、「自己意識」として発現しているのではなく「自己意識からの解放」として発現しているのであり、それが「性愛の起源」です。二本の足で立っている人間は、脆弱な猿として、どうしても意識が自分の元に滞留してしまう。人間は、「自己意識からの解放」すなわち自分を忘れて世界や他者にときめいてゆくという体験をしないと生きられない。そうやって一年中発情している存在になったのであって、自己意識を満たすために発情しているのではない。
人間としての自然・本質においては、生きのびるための政治や経済や宗教などの「下部構造」の意識が人間の心の動きや行動を決定しているのではない。
下部構造決定論では、起源論は成り立たないのです。ヘーゲルもマルクスも吉本隆明もあなたも梅原猛も、人間の自然としての共同性と制度としての共同性をごっちゃに考えています。倫理だろうと性愛だろうと祭りだろうと集団だろうと、起源においては、自然としての上部構造の心の動きが契機になっているのです。「自然としての共同性」というものが、みなさん本当になんにもわかっていない。
人間の「遊び心」とは「自然としての共同性」であり、「生きのびる」ための労働=下部構造意識=自己意識ではなく、「もう死んでもいい」というかたちで自分を忘れて世界や他者にときめいてゆくことにあります。それは「死にたい」という自己意識でも「生きのびたい」という自己意識でもない。そういう自己意識が消えてしまっている意識です。人の心は、そこからときめき華やいでゆく。祭りだろうとセックスだろうと、「もう死んでもいい」というかたちで華やいでゆくいとなみです。何が自己意識なものか。
セックスのときの女はなぜあえいでいるのか。女にとってセックスはひとつの受難であり、自己処罰でしょう。女と本気になって向き合ったら、女に男のような他愛ない性欲があるかどうかなんてわからなくなってしまう。自然としての共同性は、あなたたちのいうような予定調和の共生状態の論理では説明がつかない。
「自己意識」とか「下部構造」で語っている限り、あなたたちの「起源論」は永遠に薄っぺらで倒錯的なレベルでしかないことでしょう。
考えることが「科学的」じゃないのですよ。「本能が壊れている」だなんて、三流劇画並みのナイーブな文科系的妄想です。まああなたたちはそういう信仰のコミュニティをつくって商売をしておられるのだからそうした倒錯的な妄想は手放したくないのでしょうが、本当にそれが人間の真実だというのなら、もっとちゃんと説明してくださいよ。そうしてこちらだって、無限に反論してみせる用意がないわけではないですよ。悪いけど、あなたの立場や自己意識など知ったこっちゃないですよ。僕はきちがいで鬼で悪霊だから、何が真実かということが知りたいだけです。
失礼しました。これで退散しますが、今後もこのブログは読ませていただきます。がんばってください。