小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

倫理の起源51

2014年10月30日 00時19分23秒 | 政治
倫理の起源51




 ここで、公共性と国家の関係について考えてみよう。
 そもそも国家とは何だろうか。
 よく知られているように、ベネディクト・アンダーソンはこれを「想像の共同体(Imagined Communities)」と呼んだ。わが国でも吉本隆明が、もっと早い時期に「共同幻想」という概念を作り、国家もその一つであると規定した。さらにさかのぼると、若きマルクスがほぼ似たような表現で国家とは何かについて言及している(『ドイツ・イデオロギー』)。
 これらは国家という共同性のある本質的特徴を言い当てていることは確かである。しかし「想像」とか「幻想」とかいう用語が意識的に採用されていることによって、そこにはあらかじめ国家を、「個人が自らのアイデンティティを託するには値しないもの」「土着的・生活的根拠の薄弱なもの」とみなす思想的バイアスがかけられていることが推察できる。
 もっともどの思想家もそんなに単純な把握で済ましているわけではないのだが、読者としてはどうしてもそのように受け取らざるを得ないところがある。ことに「幻想」という言葉は、本当は存在しないもの(つまり、目覚めさえすれば無くしてしまえるもの)というイメージを強く与える。
 国家が「幻想(まぼろし)」の共同体であるなら、その否定としての「現実」の共同性、「現実」の社会関係、「現実」の人間態とは何なのであろうか。経済交流が行われる市民社会だろうか、村落のような小さな地域共同体だろうか。権力を独占している統治組織だろうか、それとも家族共同体だろうか、あるいはいっそ個人と個人との身体関係だろうか。
 しかし少し考えてみればわかるように、その程度はさまざまであれ、およそ人間が作る共同性は、すべてある意味で「想像」によって成り立ち、「幻想」を媒介としたものであることを免れない。想像や幻想に対立するものとしての現実的な共同性などどこにも見当たらないことに気づくだろう。
 たとえば、もっとも単純な共同関係として、見知らぬ相手どうしの一回的な経済行為(売り買い)によって、売り手と買い手との「共同性」が成立した場合を考えてみよう。ここには、互いに相手を知っていることから生まれる前もっての情緒的な後景は一切排除されている。するとその場合、共同性を成り立たせている「信頼と合意」は何によって媒介されているだろうか。
 その答えはこうである。買い手が売り手に渡した貨幣がそれ自体は売り手にとって生活的価値(マルクスの言葉では使用価値)をもたないにもかかわらず、他の不特定多数の売り手をひきつけうるという共通了解が、売り手と買い手との間に存在していることである。したがってここには、ある貨幣という象徴的な存在に対する同一の「信」が宿っており、その「信」が共同性を形づくっている。だからこの経済行為も、一種の「幻想」がなければ成立しないのである。
 つまりある共同体の想像性、幻想性を指摘しただけでは、その根拠薄弱さを解き明かしたことにはならない。どの共同性もそれぞれに固有の「幻想」がリアルな幻想として承認されるだけの根拠を有するのであって、国家においてもそれは同様である。国家もまた、他の共同性と同じように、しかしそれらとは違った仕方で、実存のありかたを深く規定する力を持つのである。
 それでは、国家という「想像の共同体」は、何を根拠にしてその共同性を成り立たせているだろうか。
 古くは、言語、宗教、人種、民族、生活意識、共通の慣習、居住地域、地勢などの自生的な同一性がこれを保証すると考えられていた。しかしすでに古代中国、古代メソポタミア諸国家、古代ローマの昔から、その統合された版図の域内には、さまざまな言語や宗教や人種、民族が入り乱れて存在していたことが知られている。さらにグローバル化の進んだ今日では、中小国家の内部でさえ、多数の言語、宗教、民族、人種が混在していることは、誰の目にも明らかである。
 したがってこれらの要素を二つか三つ持ち出して、それをもって国家共同体の統一性の根拠とみなすことは到底できない。言語や人種や生活意識の同一性がもともと比較的高い日本などはむしろ例外なのである。
 そこで、近代国民国家の統一性を、上に挙げたような諸要素によって説明することは諦めて、次のように考えるべきである。
 近代国民国家とは、人々がさまざまな形で共有する土着的・伝統的な同一性、同質性を基礎にしながら、それらを一つの統治構造によってまとめ上げていこうとする虚構であり、運動なのである。
 言語、宗教……などのさまざまな同一性、同質性は、この虚構と運動にとって、有力な素材あるいは道具となりうるが、何か一つの土着的・伝統的な同一性だけをもってしては、近代国家としての統一性を実現させることは極めて困難であるか、不可能である。
 そもそも「国民国家(ネイション・ステート)」という言葉(概念)自体がそのすわりの悪さをあらわしている。国民(ネイション)という用語は、自然(ネイチュア)、土着(ネイティヴ)、民族などの用語との間に類縁関係をもつから、ただ国家と言わずに「国民」と付け足しておけば、そこになにがしかの自生的な歴史や伝統との連関がニュアンスとして呼び覚まされることになる。しかしこの言葉(「国民」)もまた、近代的な虚構性を含むことは疑いがない。
 言い換えると、「国民国家」とは、具体的な歴史や伝統の共有を背負う人々が、その事実を根拠として、「他者たち」との差異関係を自覚することによって、暗黙の同意のもとに創出した「共同観念」なのである。そうしてこの共同観念が生きるのは、まさに「我々は同じ何国人である」という「心情」を保持することができる人々が現に一定の範囲で存在する限りにおいてであって、そのもっと奥底に何か決定的・論理的な根拠があるわけではない
 しかし繰り返すが、だからといって、この観念がただの「幻想」とか「想像」の産物だ(したがってなくすことができる、なくすほうがよい)というように軽く見てはならない。よかれあしかれそういう共通の心情が存在すること自体が、一人一人の実存にとって重い意味をもつのである。現に私たちの一人一人は、同国人としての歴史を共通確認しつつ、生き生きと生活を続けることにおいて、この虚構の運動に不断に参加しているからである。
 国家のこの非明示的な側面を仮に「心情としての国家」と呼ぶことにすれば、心情としての国家こそが、具体的な国家機能としての法や政府や軍隊やその他さまざまな政治システム、社会システムの存在意義を支えているのである。これらの政治システム、社会システムを心情としての国家に対して「機構としての国家」と呼ぶことができるだろう。
 西欧の契約国家観との関連で言えば、「社会契約」という虚構は、この「機構としての国家」の側面をうまく説明している。「契約」という概念はもともと神と人との永遠の約束というユダヤ=キリスト教文化に発する淵源をもっているが、社会が近代化してゆく過程で、それが市民相互の契約による世俗的な権力の相互承認という水平的な観念に置き換えられたのである。
 社会契約という概念は、はじめから超越的な世俗権力としての近代政治システムの正当性を担保するために作られた概念だから、それはそもそも歴史的な由来を説明するものではない。したがって、原始契約なるものなど人類史の起源に存在しなかったと言ってこの国家観を非難するのは的を外している。この場合も私たちは、政治的言動・活動・かかわりを通して現にいま、「社会契約」という虚構を不断に実現しているのである。
 しかし社会契約という虚構が成り立ち、「機構としての国家」が文字どおり機構としてその役を果たすためには、「われわれは同じ何国人である」という心情的な同意がなければならない。即ち「心情としての国家」が「機構としての国家」に先立つのでなければならない。この心情の同意が容易には成り立たない事実は、現在の国際社会でもしばしば経験されるところであって、そのときには国家権力は崩壊するのである。なお以上のように、心情と機構との二重性として国家をとらえる私の国家観は、佐伯啓思著『国家についての考察』(飛鳥新社)に多くを負っている。


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7 コメント

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Unknown (HIROMITI)
2014-11-02 05:41:23
「心情と機能との二重性」ということは同意します。
しかしその「心情としての国家」という意識は、「同一の国民」という意識でしょうか。
江戸時代までのこの国は、国歌も国旗もなく<「われわれは同じ何国人である」という心情的な同意>など持っていなかったですよ。「国家」という意識そのものがそもそも希薄だったが、それでも国家として機能していた。
本居宣長は、「日本人という概念そのものが無意味であり、<日本人は>ということは<人間は>ということだ」というようなことをいっている。われわれはみな同じ人間だということでしょうか。その人間としての自覚が地域によって違い、国家という単位ができていった。古代の民衆は誰も日本人だとは思っていなかったし、近代国民国家においても、ようするに同じ人間としてときめきあっていけるかどうかという「心情」の問題の上に成り立っている。国なんか関係ない、国の中にはめ込まれているからこそ、国とは関係なく同じ人間として他愛なくときめきあってゆく関係になれるかどうかということが問われる。
「心情としての国家」は、「われわれは同じ何国人であるという心情的な同意」ではないですよ。そこから解放されて同じ人間として向き合えるのが「心情としての国家」です。
あなたのおっしゃる「心情」なんか、そういう心情をつくらせる国家の「機能」のひとつに過ぎない。それこそただの幻想にすぎない。そんな心情的な同意などなくても国家は成り立つし、そんな心情的な同意があっても崩壊するときは崩壊する。戦時中のこの国は、そんな心情的な同意をむやみにたぎらせながら崩壊していった。ナチス・ドイツしかり。

人間の集団性の基礎は、どこからともなく人が集まってきて他愛なくときめきあいながら集団になってゆくことにあります。このダイナミズムによって人類は地球の隅々まで拡散していった。まあこのことの説明はややこしくなるからさておくとして、コンサートやスポーツ観戦にしろ、物を売る商店にしろ、会社や学校にしろ、徴兵制の軍隊にしろ、すべて、「どこからともなく人が集まってきて集団になる」という人間的な生態を基礎にして成り立っています。この生態の上に人間社会が成り立っている。
人間はそうやって「どこからともなく人が集まってきて知らないものどうしが他愛なくときめきあってゆく」という生態を基礎に持っているから、いつの間にか無際限に大きな集団になってゆき、その集団が国家になっていった。そんな集団になってしまうことも人間性の自然ではあるが、そんな集団を成り立たせるためには、あるていど制度性=幻想性という「機能」を持つしかなかった。
人の心は、知らない相手に他愛なくときめいてゆくという「飛躍」ができる運動性を持っている。
問題は「心情としての国家」とは何か、ということです。あなたの説明では「心情としての国家」になっていない。
それは、「同一性」を確認してゆくことではない。「同一性」などまったく意識することなく「飛躍しときめいてゆく」ことにある。「同一性」を意識しないところにこそ「心情としての国家」という基礎がある。
「幻想」という言葉(概念)は、「観念」という言い方もできる。それに対して「心情としての国家」は、「無意識」の問題です。「われわれは日本人である」という合意など、たんなる幻想=観念にすぎない。
人の心の底には、「他愛なくときめき合う」ことができる無意識がはたらいている。中国だろうと朝鮮だろうとインドだろうとフランスだろうとブラジルだろうと、ひとまずそういう無意識を基礎にしている。その無意識のはたらきは世界共通だが、それを共有できる関係の作法においては、それぞれ固有の地域性・風土性がある。
そして国家において、この他愛なくときめき合う関係になれない対象は、絶えず排除される。
この「他愛なくときめき合う」という人間存在の基礎的な関係性を持っていないと国家という無際限にふくらんだ集団は成り立たない。その関係性を持てる範囲で国境線が引かれてきた。
フランス人は、外国人に対しては「われわれはフランス人である」という幻想性=観念性を持っているが、フランス人同士においては「われわれは同じフランス人である」という幻想性=観念性など忘れ、同じ人間として他愛なくときめきあってゆく関係をつくることができる。
ヨーロッパはたくさんの国がひしめき合っているから、「われわれは同じ何国人である」という意識を持つ機会は多いが、それでも国家の成立基盤は、成員同士でそんな確認をしなくても人と人として向き合えることにある。
国家は限度を超えてふくらみすぎた集団なのだから、国家とか国民という自覚から解放されたところに立てなければ、その中で暮らすことはできない。
日本人であることなどどうでもいいのだが、日本人同士でなければ「日本人であることなどどうでもいい」という場に立てない。日本人同士であるということは、「われわれは同じ日本人である」という合意の上に成り立っているのではない。そんなことなど忘れて同じ人間同士になることの上に成り立っている。
外国に行けば、いやでも四六時中自分は日本人であるということを意識させられる。われわれが日本人であることを忘れるためには、日本という国の中にいるしかない。
「心情としての国家」は、<「われわれは同じ何国人である」という心情的な同意>から解放されたところで成り立っている。そんな「心情的な同意」がもっともダイナミックに成立するのは、国家の危機においてです。朝鮮半島はつねに国家の危機にさらされてきたから、「われわれは同じ何国人である」という意識がとても強い。逆に日本列島は明治になるまで日本人という意識がほとんどなかったから、自分たちが日本人であることの根拠がよくわからなくて、いつも外国人に聞いている。
人は、自分と国家との関係を意識する自意識で生きているのではない。国家との関係から解き放たれたところで人と人の関係がいきいきと動き出す。人類は、その国家との関係から解き放たれるカタルシスとともに、ひとまず国家の存在を許した。
「国家の起源」を勉強しなおしてください。
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国民国家について (天道公平)
2014-11-28 10:51:53
 遅ればせながら、投稿します。今回のテーマも興味深く拝見しました。
 もともと「倫理の起源」という表題自体が大変興味深いのですが、「「心情としての国家」が「機構としての国家」に先立つのでなければならない。」という含蓄ある言葉がとても印象的です。
 「「国民国家」とは、具体的な歴史や伝統の共有を背負う人々が、その事実を根拠として、「他者たち」との差異関係を自覚することによって、暗黙の同意のもとに創出した「共同観念」なのである。そしてこの「共同観念」が成り立つのは、「我々は同じ同国人である」という「心情」を保持することができる人々が現に一定の範囲で存在する限りにおいてであって、そのもっと奥底に何か決定的・論理的な根拠があるわけではない」、また、「この観念がただの「幻想」だとか、「想像」の産物だというように軽く見てはならない。よかれ悪しかれそういう共同の心情が存在すること自体が、一人一人の実存について重い意味を持つのであり、現に私たち一人一人は、同国人としての歴史を共通確認しつつ、生き生きと生活を続けることにおいてこの虚構の運動に不断に参加している」などの箇所もよく納得できました。「倫理」の考察から、国家がこのように描いていけることには大変驚きました。
 これは、私にとって(たぶん多くの同国人にとって)さきの3.11のように、自国民に対する自然災害による厳しい被災地の状況や、その被災者の悲しみ、苦しみなどの感情が、他国民の状況に比べ、強く胸に迫ることを、また、知らず知らずに覚える同胞(?)としての「一体感」をよく言い当てていると思われます。それは、個々の感情や、想像力というものは、その個人を包含する共同的な生活史に強く拘束されるものだからでしょう。人はグローバルに(?)感動したり、気持ちを動かしたりできる存在ではないと思われます。私は今でも、NHKの新日本紀行などの番組を、つい観てしまい、自然や習俗や様々な地域の名もない人の営みに、知らず知らずに見入ってしまうことを感じます(時に、アジアの少数民族の日常や祭儀に見入ることもありますが)。
 かつて吉本隆明が、「あらゆる共同幻想の揚棄」とか言挙げ、つまらない政治主義につけ込まれるように不徹底であった要素として、国民国家の一つの本質としての「心情としての国家」が現に存在し、今後もいきのびていくであろうことに無自覚(嫌悪したのかも知れませんが)で、最後まで自己の思想に媒介できなかったのではと思ってしまいます(著者の「吉本隆明ーー思想の普遍性とは何か」はとても貴重な本でした)。
 同時に、西欧由来の「機構としての国家」が視えやすい形で存することは、今となれば自明のことであろうと思いますが、現在の「国民国家」の本質といえば、その抑えだけでは浅薄で、役に立たないことは、十分考慮しておく必要があると思います。



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天道公平さんへ (kohamaitsuo)
2014-11-28 13:58:06
懇切丁寧なコメント、ありがとうございます。

国家のもつ人倫性を、反国家的な情念や、感情過多の愛国心など、偏った見方にわざわいされずに均衡を保とうと思って、まず国家の共同性とは何かについて書いてみました。好意的に受け取っていただいて、感謝いたします。

「それは、個々の感情や、想像力というものは、その個人を包含する共同的な生活史に強く拘束されるものだからでしょう。人はグローバルに(?)感動したり、気持ちを動かしたりできる存在ではないと思われます。」というくだりには特に共感を覚えます。

吉本隆明については、おっしゃる通りで、吉本さんの「共同幻想」に対するスタンスは、青年期に「国家にたぶらかされた」という世代経験があまりに大きかったために、そのリアクションとして、どうしても個人至上主義的な傾きが強く出すぎていたように思われます。彼の思想の真骨頂は、旧左翼というもう一つの「共同幻想」と孤立無援の闘いを演じたところにあり、それはそれであの時代には大きな意味があったと思いますが、その戦略として「共同幻想VS個人」という図式による人間把握にこだわることになり、そのことが、その後のナイーブな反国家思想(たとえばオウム)をも許容してしまう結果になったのではないでしょうか。

これからもどうぞよろしく。

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Unknown (天道公平)
2014-11-28 22:03:34
 丁重なコメントありがとうございます。
 吉本隆明への言及が粗雑だったかなーと、いささか反省し、この度、補正していただきありがたいところです。
 以前、瀬尾育生さんが、「(70年代の、だと思いますが)新左翼運動で、「反帝、反スタ」のスローガンだけは、今考えても、世界レベルだった」と対話集で触れられていました。少し遅れた世代になりますが、私も全く同感でした。当時、どんな貧しい政治党派でもそのレベルは超えていました。「吉本がスターリニズムとの戦い方を教えてくれた」、ことと同様に、再度、その先駆者としての達成と私たちへの恩恵は深く銘ずるべきだと思います。
 著者は、著者としての今後の営為がおありでしょうが、先ごろの「七人の思想家」も大変触発される本でした。我が、「哲学研」でとりあげさせてもいただきました。
 引き続きよろしくお願いいたします。
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Unknown (トナミ)
2014-11-29 22:13:30
天道様

哲学研というサイトがあるのでしょうか。
試しに探してみたのですが、全く見当たりません。
哲学研とは何なのでしょうか。
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Unknown (Unknown)
2014-11-30 15:43:36
倉山満のブログ「倉山満の砦」を見てください。水島社長に宣戦布告しています。
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トナミさんへ (天道公平)
2014-11-30 18:00:40
 小浜さんのブログを勝手に借りて恐縮です。従って、今回限りの回答ということとしたいと思います。(私今年初めてSNSデビューしました。皆様、どうぞご寛恕ください。)
 私は、大学時代の友人に、たまたま再会したのをきっかけに、双方とも妻子にもほって置かれるのを幸いに、変数(?)として若い友人と女性(市民主義者だったので隠退しました。)を加え、大学時代の文学・社会科学研究会を復活する事とし、恥ずかしいので、当世流に「哲学研究会」として活動を始めました。我々は、山口県の周南市に在住していますが、同市の徳山高専に小川仁志さんという方が不特定の市民を対象に「哲学カフェ」というのを主宰されています。それに触発されたこともありますが、少しは余力のある普通の市民が、「生活の幅」以外のことを考えることは賛成です。(西研さんが、「哲学はあらゆる党派性に抗うもの」とも言ってましたが)
 昨年から、一年かけて、著者の「日本の七大思想家」を読みました。現在は、瀬尾育生さんの「吉本隆明の言葉と「望みなきとき」の私たち」を読んでいます。色々、考えることは多いのですが、今後、SNSへの習熟を計りつつ、美津島明さんの「直言の宴」を山頂に目指すこととして、どこかでお目にかかれるかもしれません。
 再度、勝手ながら、著者のご寛恕をお願い申し上げます。
 
 

 
 
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