小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

倫理の起源18

2014年01月11日 02時01分50秒 | 哲学
倫理の起源18



 プラトンのイデア論的な倒錯を、「理性」(キリスト教の神の近代ヴァージョン)というキーワードのもとに、さらに純化された倫理学へと組み上げたのが、『道徳形而上学原論』(公刊時著者六一歳)、『実践理性批判』(同六四歳)におけるカントである。
 カントの倫理学をより深く理解するためには、右の二著を、それらに先立つ『純粋理性批判』(同五七歳)からの連続的な流れとしてとらえることが必要である。
『純粋理性批判』(以下、『純粋』と略記)で扱われているテーマは、簡単に言えば、人間が事物を認識する仕方はどのようになっており、その能力はどのような限界を持つかということに尽きる。この著作で彼は、「理性」という言葉を、もっぱら人間が事物を客観的に認識し、もって経験が可能になるための能力という意味で用いており、そこには倫理的・道徳的な意味合いはいっさい込められていない。
 人間はまず「感性」によって、現象の多様(混沌)としてあらわれるこの世界を時間と空間という直観の形式を通して受け止め、次にそれを「悟性」によって概念化して把握し、そうして最後に「理性」(狭義の理性、純粋理性)によって、「あるものはかくかくである」という総合的な命題にまとめ上げる。ここでの「理性」は、数学に代表されるような推論の能力とみなせばわかりやすい。
 しかし、この能力にはもともと限界があり、その能力を正当なプロセスによって駆使して、たとえば「世界には始まりがあるか、ないか」というような問題を追究しても、どちらの答も可能であるような矛盾に逢着してしまう(純粋理性の二律背反)。またたとえば、「神=最高存在」が存在することを理性によって証明しようとしても原理的に不可能であり、それはただ純粋理性の「理念」として考えられるだけである。しかしまたそういう理念は理性の使用にとって必要不可欠のものであるともされる。
 ここで使われている「理性」という言葉は、以上のような意味合いに限定されているが、これが『実践理性批判』(以下、『実践』と略記)になると、『純粋』で使われていた「理性」という用語は「理論理性」と名づけられて、『実践』において使われる「実践理性」と明白に区別されるようになる。『道徳形而上学原論』(以下、『原論』と略記)では、この区別はまだそれほどはっきりなされていない。
 簡単に整理すると、「理論理性」とは、事物が何であるか、どのようにあるかを推論によって認識する能力、「実践理性」とは、人間の行為とそれを規定する意志に対する良し悪しの判断能力のことである。前者は「万有引力の法則」のような自然法則にかかわり、後者は、「人のためになることをするのはよいことである」というような道徳規則にかかわる。つまり、カントは『原論』と『実践』の二著を通して、「理性」という言葉を倫理的なテーマにまで拡張し、さらにそれを二つに分けたのである。ちなみにこの二著では「理性的存在」という言葉が頻出するが、これはほぼ「人間」を意味すると考えておいて大過ない。
 そこで彼は、「理論理性」では解決が不可能であった「神は存在するか」「人間は自由か」「魂は不死か」といった問題はいずれも実践理性がそれらを肯定することを必然的に要請していると考え、そこに理論理性に対する実践理性の優位という関係を打ち立てる。これも簡単に言えば、理論理性が自らの能力の限界を自覚することは、じつは実践理性のほうからあらかじめ規定されていたことなのだ、という筋書きが展開されたことになる。
 この成り行きは、プラトンが『パイドン』で、あの、アナクサゴラスに対するソクラテスの失望を仲立ちとして、哲学のメインテーマを「何が善であるか」という倫理問題に引き絞っていったプロセスとよく似ている。カントもまた時至って、世界の根源が何であるか、この世はどんな構造をしているか、「ある」とは何かといった認識論的な問題や存在論的な問題よりも、人間はいかに生きるべきかといった倫理問題に哲学の根本的なテーマを見るようになったのである。
 プラトンを論じた折に述べたように、私自身は哲学のこの方向づけ自体を諒とする者であるが、しかし、その基本方向を出発点として、カントがどのような手つきでどんな結論に導いているかという道筋に関しては、まったく承服できない。しかもプラトンに比べると、カントは何とも愚直で真っ正直であり、プラトンのような巧みな「詐術」を用いるほどの文学的な表現力を持ち合わせていない。これはおそらく、近代になって学問としての哲学言語が他の表現様式から分化し、より専門化してしまったことに関係するだろう。しかしいずれにしても、その説に見られる基本的な精神構造がプラトン的な倒錯をそのまま引きずっている点に変わりはない。いや、キリスト教道徳の介在によって、その倒錯の構造はいっそう強化されたとさえ言いうる。それはまさに西洋式倫理学に特有の倒錯を最もよく象徴している。

 これからそのことを、『原論』と『実践』の二著に即して詳しく論じていくが、まず手始めに、次のような問題を考えてみよう。
 カントは、『純粋』において、理性一般を、経験から導き出される能力ではなくいっさいの経験に先立って与えられた能力であると考えた。この経験に先立つことを「先天的(ア・プリオリ)」、経験から導き出されることを「ア・ポステリオリ」と呼ぶ。彼は、実践理性(行為や意志の良し悪しを判断する能力)もまた、当然のごとく先天的(ア・プリオリ)なものとみなしているが、果たして私たちが道徳的判断力と呼ぶ能力が先天的(ア・プリオリ)であると断定できるのかどうか、そう断定できないとしたら、それにもかかわらず、カントがなにゆえそのことに固執したのか、これは問うてみるに値する疑問である。

 しかし先天的認識根源から演繹せずに、経験的証明を引用するこのようなまに合せの手段は、純粋実践理性能力に関しては、われわれに拒まれている。その現実の証明根拠を経験に仰ぐことを要するものは、その可能の根拠からいえば経験的原理に依存しなければならないが、しかし純粋にしてしかも実践的な理性は、すでにその概念の故にこのようなものとは決して考えられないからである。その上、道徳的法則はいわば純粋理性の事実として与えられている。そしてこの事実は先天的にわれわれに意識されるものでありかつ必然的に確実である。(『実践』第一篇・第一章・一「純粋実践理性の原則の演繹について」)

 これは、「実践理性」の概念や道徳律がア・プリオリに与えられているからア・プリオリなのだという同義反復を繰り返しているのみで、何ら「なぜ実践理性や道徳律はア・プリオリだと断定できるのか」という問いに答えていない。続く部分をいくら読んでも同じである。要するにカントは、自分の根拠なき確信(信仰)を語っているだけなのだ。
 この点に関して、カントを「道徳の狂信者」と決めつけたニーチェは、次のように述べている。この場合やり玉に挙げられている概念は、「実践理性」や「道徳的法則」の代わりに、「必然性と普遍妥当性」であるが、批判の文脈は同じであり、右の引用にもそのまま当てはまる。

 そうした信仰がすでに前提しているのは、「ア・ポステリオーリな与件」のみならず、ア・プリオーリな、「経験に先立つ」与件もまたあるということである。必然性と普遍妥当性はけっして経験によっては与えられないかもしれないが、ところでこのことでもって、この両者がそもそも経験なしで現存しているということが、いったい明らかとなるのであろうか?(『権力への意志』五三〇)

 ア・プリオリへのカントの固執は、「信仰」という心理学的問題であった、それがニーチェの答である。この種の「証明になっていない証明」は、『パイドン』における不死の証明がどれ一つとして証明になっていなかったのと同じように、『実践』にはいたるところに出てくる。

 ところで、『原論』に描かれている道徳形而上学の概念枠組みをわかりやすく整理すると、次のようになる。カントが『純粋』からの延長上で道徳問題をどうとらえていたかがよくわかるはずである。

(認識論的レベル)    (原因性)       (法則性)        (原理)
 感性(感覚界)    欲求・傾向・衝動    自然の他律        幸福
 悟性(可想界)      意志        意志の自律(自由)     道徳

 これは要するに、感覚界は他律的な自然法則に満たされた世界であり、私たちがそこにいるときにはもっぱら欲求や傾向性や衝動に支配されており、同時に、それは(個人の)幸福を原理としているが、反対に悟性界、つまり思惟の世界にいるときは自由な意志にもとづく道徳原理を認識するというのである。
 ところが、ここに常識的な言語感覚からみて、どう考えても不自然に思える言葉の用法にふたつ出会う。ひとつは、「意志」(Wille)一般をなぜもっぱら道徳を基礎づけるポジティヴな概念として扱い、「欲求・傾向・衝動」と二元論的に峻別するのか、そしてもう一つは、「自由」(Freiheit)という概念をなぜ自然の他律(自然法則)からの独立という意味にのみ限定するのかという不審である。
 初めの疑問がどうして起きてくるのかといえば、私たちはふつう、「意志」という言葉を、それだけでは道徳的に見て別に善でも悪でもないような、行為をうながす内的な(心的な)力一般として使っているからである。たとえば「今日は彼女とデートしたいので、彼女に電話しよう」と決意するとき、「デートしたい」というエロス的な欲求と「電話しよう」という意志とは、明らかに連続している。またたとえば、「本当はもっと飲みたいのだが、酔っ払って遅く帰宅すると女房がうるさいので、このへんでやめておこう」と決意するとき、飲みたいという欲求をあえて抑える意志の動機は、別に道徳的なものではなく、恐妻家のいじましい習慣的感覚にもとづいている。
 このように、「意志」という言葉は、それを自覚するに至る条件が道徳的なもの以外のなんであってもその使用を許されている。それはもともと、行為の決定条件としてはまだ自覚化されない現実の与件と、じっさいに行為に踏み出すスタートラインとの中間地点における、行為への傾斜の意識一般をさしているからである。それなのにカントは、この言葉を、ことさら道徳的な行為が可能になる理性的な動機という意味にのみ用いている。次の引用を見よう。

 しかるにまたはは常に理性法則によってあるものを意志の対象とするように規定されるところの、意志に関係している。この意志は、対象や対象の表象によって決して直接には規定されないで、理性の規則を行為の動因(中略)とするところの能力である。((『実践』「実践理性の分析論」第二章)

 ここでは「意志」という言葉が、別に道徳的な意志に限らず、行為一般をうながす力を指しているように読める。つまりカントはここで、意志一般の定義を試みていることになる。もしそうであるならば、そこには欲望や衝動や傾向性や、思わずこみ上げる感情や、やむを得ない事情などのさまざまな与件がその前提として含まれてこなくてはならないはずである。ところが、カントは、その意志一般を「理性の規則を行為の動因とするところの能力」であると断定してしまっている。
 しかしまた、読み方によっては、この場合の「意志」が、純粋実践理性にもとづく道徳的な意志のみを指しているようにも読める。もしそうだとすると、意志という言葉で私たちが普通想定するさまざまな他のケース(行動一般を促す意識)は、はじめから排除されていることになる。
 どちらを目指しているのかがあいまいであり、そのあいまいさは、「理性法則」「理性の規則」という形容における「理性」という言葉のあいまいな使い方に起因している。
 なるほど「デートがしたいので彼女に電話しよう」という意志は、自分の欲望を実現するための手続きをきちんと踏むという意味で、理性的な判断だと言えなくもない。また、「女房がうるさいのでこのへんで切り上げよう」という意志は、夫婦関係をこれからも健全に保っておいたほうが身のためだという理性的な判断であるかもしれない。しかし、カントの本来の意図からすれば、そういう「理性」はここでの「理性」とは異なるはずだ。『実践』においてカントが用いている「理性」という言葉は、いつもこうした、いわゆる功利的な理性とは真っ向から対立する「純粋実践理性」(道徳的意志の原因)という意味を担っているからである。もしその線を貫くなら、欲望や功利にもとづく意志はここには含まれないと断るべきであろう。だがそういう形跡はまったく見られない。したがって彼は結局、意志一般をすべて道徳的な原因によるものとみなしていると言われても仕方がない。こうして彼は、「理性」という言葉のあいまいな使い方を媒介として、ふつうの使用法とは著しくかけ離れたすり替えを行っていることになるのである。
 たとえばスーパーの棚においしそうな巨峰が並んでいる。「買いたい──買おう──買う」という、欲望から意志を経て行為に至る一連の過程において、何ら道徳的な(理性的な)要因などははたらいていないし、そもそも意志という言葉を用いるときには、こうしたケースのほうが圧倒的に多いはずである。にもかかわらず、カントは意志を強引に「純粋実践理性」、すなわち道徳的意志の原因に結びつける。
 カントがなぜこのようなすり替えを行わなくてはならなかったのかは明らかだ。それは、後にきちんと批判するが、感覚に従い自然法則に隷属してしまう人間の傾向性をすべて「より低い価値」として向こう側に追いやってしまいたいからである。そして、この暴力的なプラトニズムを敢行した後、人間のもっているものの中で何が救い出せるかと彼は考えた。そのとき、かろうじて取り出せるものは、傾向性にいっさい規定されない限りでの「意志」であると言いたかった。
 たしかにこういう条件をあくまでつけたかぎりで「意志」という言葉を用いるならば、論理的一貫性はそれなりに保てることになる。しかし見てきたように、カントは意志一般の原因が理性であるという強引な設定を敷き、そのうえでそれをいつの間にか純粋実践理性にもとづく道徳的意志の意味だけで用いるというペテンを(おそらくは無自覚に)行ってしまったのである。彼の頭のなかでは、人間の意識活動のうちで道徳的な理性との接点をいささかでも持ちうるものは意志以外にないと考えられたからである。
 だが、いま述べたとおり、「意志」という概念は必ずしも道徳的な理性を原因としている概念ではないし、また、人間の意識活動のなかには、逆に義憤や惻隠の情のように、道徳的「感情」と呼べるものも存在する。
 ちなみに、カントの時代には、道徳を規定するア・プリオリ(経験に先立って与えられているもの)は何かという哲学的な議論が相当さかんだったようだ。彼は『実践』のなかで、「感情」はそれには当たらないという論理を必死になって展開している。要するに「意志」のみが問答無用のア・プリオリであると言いたかったのだ。
 この熱のこもった議論には、ヒロイックな、またファナティカルな道徳感情の昂揚がもたらす危険な逸脱と、その狭隘さを極力避けようとするカントらしい抑制の効いた動機もはたらいているようである。この点に関する限り、彼の理性主義は買うべきところがある。たしかに、「感情」を道徳の根源をかたちづくるア・プリオリとして立てるのは間違いであろう。それが後天的な学習によって個人のなかに次第に根づいてゆくものであることは、初めにも述べた。
 しかし、そもそも道徳が立ち上がる根源の場所を、感覚、感情、悟性、意志、欲求、理性など、個人の心を構成する要素のなかに求めて、そのいずれがア・プリオリかというかたちで問題を構成する方法そのものが、当時の哲学あるいは形而上学の決定的な限界なのである。簡単に言っておくと、ここには関係として人間をとらえる観点がまったくない。これこそは長い間キリスト教を思想風土としてきた西洋哲学の重大な欠陥(それは二〇世紀最大の哲学者といわれるハイデガーにまで及んでいる)なのだが、このことについては後述する。

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