小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

誤解された思想家・日本編シリーズその6

2017年03月05日 01時00分11秒 | 思想
      






兼好法師①(1283?~1352?)

 今回は『徒然草』を取り上げますが、作者名を「吉田兼好」とせずに「兼好法師」としたのには理由があります。
 長い間この名随筆の作者は、神祇にたずさわる卜部氏の系統で京都吉田社の祠官・吉田家に生まれ、五位に叙されて左兵衛佐に任じたとされてきました。これは『尊卑文脈』にもとづく風巻景次郎の推定により、60年以上も定説とされていたのです。
 ところが、二〇一四年の三月、小川剛生氏が発表した論文「卜部兼好伝批判―『兼好法師』から『吉田兼好』へ」によって、この出自・経歴が戦国時代の吉田家当主・吉田兼倶の捏造であることが実証されました。
 小川説が正しいとすると、兼好の生国・出自・経歴はまったく不明だということになりますが、兼好の約百年後に生まれ、『徒然草』の発掘者とも言われる僧・正徹の記載によれば、兼好は「滝口」(禁中警衛の武士)であったとあります。警衛の武士ではなくとも、同じように天皇のお側に仕える所衆(掃除などの雑用係)か出納(文書などの出し入れ係。皇室の図書館司書のようなもの)の役回りであった可能性が高いと小川氏は推定しています。そして勅撰集に入集された彼の歌の扱われ方から見ても、六位以上には上らなかったとも(『新版・徒然草』角川ソフィア文庫)。
 これに私の想像を付け加えるなら、おそらく出納だったというのが、一番真相に近いように思われます。小川氏は研究者の誠実さから、そこまで言い切ることに禁欲的ですが、ここではあえてそう言ってみたい。
 この推定には『徒然草』を読む素人読者にとっても、説得力があると思います。
その理由としては、第一に、作品からはこの作者がたいへんな古典教養の持ち主であり、しかも有職故実の記述が随所に見られ、それらが単なる無用のメモ書きではなく発表することで実用に役立てたフシがみられることです(二三八段の七つの自慢話には有職故実にかかわる事項が四つまで含まれています)。
 第二に、こういう立場であればこそ、やんごとなき人たちの行状が手に取るように見え、しかも重職にはできない自由な立場からそれを観察しひそかに批評眼を養うことが可能となりますが、『徒然草』は、まさにそのような立場にいないと書けないような辛辣な調子が躍如としていることです。
 第三に、古風を尊び、大衆のバカ騒ぎや分不相応な振る舞いを嫌い、奥ゆかしく繊細な態度をしきりに推奨するその筆致は、出納のような職に就く人の性格にまことにふさわしいことです。
 最後に、作品中に出家遁世を勧めて仏道の尊さを説くくだりは数多く出てきますが、神道について真面目に言及した記述はほとんどまったく見られないこと(石清水八幡宮の話〈五二段〉、出雲大社の獅子・狛犬の話〈二三六段〉は、いずれも滑稽譚です)です。
 
『徒然草』を思想書と見立てて論じようとする拙論の冒頭に、なぜこんなに彼の出自・経歴にこだわったのかというと、この作品が一見するところあまりに多面性を持ち、ある一つのアングルから光を当てようとしても、しょせんは読者・批評者の我田引水に終わるのではないかという謎めいた印象を与えるからです。
 随筆とはもともとそうしたものだ、本人も「心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば」と初めにことわっているではないかという反論があるかもしれません。しかし、この冒頭の一句は、必ずしも本文の内容と一致せず、本文には、全体としてやはりこの人ならではの確固たる思想性というべきものが感じられるのです。
 とはいえ、たしかに記述する対象や方法があまりに多様に散乱しているので、その思想性を短い言葉でつかまえるのは至難の業です。そうなると、そのよってきたるところを少しでも探り当てようと思い、どうしても彼の出自・経歴を一つの補助線として問い尋ねてみたくなります。こいつはどういうやつだったんだろうというわけですね。
 で、先述のとおり、高僧のような当代一流の知識人でもなく、権勢を手にしているわけでもなく、しかし古典教養、有職故実の知識はふんだんに持ち、しかも宮中の側用人として上から下まで人間の生き様を自由に鋭く観察できる立場にいるという条件が、この稀有な書物の誕生にかなり貢献していると考えると、いかにも人と作品とがぴたりと一致して鮮明なイメージを結ぶと思うのです。
 小林秀雄がこの書について、「空前の批評家の魂が出現した文学史上の大きな事件」と書き、兼好には物や人間が見え過ぎていると評しています(『無常といふ事』)が、たしかにそういうところがあって、それが可能になったのは、上記のような条件が関与していると考えれば、得心がいくのではないでしょうか。

 ところでこの作品が広く普及したのはようやく江戸時代になってからのようですが、その享受のされ方にはまた、時代時代に応じた変遷があったそうです。
 一番初めの正徹の場合には、歌詠みのための指南書としての要素が強かったらしく、それは風雅や物のあわれとは何かという問いに明晰に答えてくれている面があるからでしょう。
 また江戸時代の町人文化のなかでこの書が受けたのは、処世訓的な部分で読者にピンとくるところが多かったせいだと思われます。日常生活に根差した滑稽譚の部類から読み取れる教訓も、さぞかし庶民に人気を博したことでしょう。
 近代になると、ことさら仏教的な無常観を強調した部分が好まれるようになり、現在に至っています。しかし『徒然草』をこの見地だけから特別に評価するのは、「近代日本知識人」という、特殊な存在形態の特殊な志向に適合したからだと考えられます。その特殊性とは、ダイナミックな現実社会からはじかれた存在のゆえに、その精神的なよりどころを現実に対する観念的な批判に求めざるを得なかったという点です。
 後述するように、仏教的な無常観や出家遁世の志を示しているのは、平安貴族以来、室町時代に至るまでの知的階層の伝統的メンタリティと言ってよく、何も兼好に限ったことではありません。『往生要集』にも『源氏物語』にも『古今和歌集』にも『方丈記』にも、このメンタリティは通底しています。ですから私は、『徒然草』にことさら無常思想を読み取るような近代知識人の、郷愁による片思い的な評価にあまり賛成できません。
 これら時代時代に応じた多様な享受のあり方は、要するに「群盲、象を撫でる」のたぐいと言ってよいでしょう。


(この項、3回続けます。)


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