小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

「エリート愚民」を駆除せよ

2019年12月10日 16時49分43秒 | 思想



●以下の文章は、近々出版予定の拙著の序文からの抜粋です。

日本は、この20年間ですごく衰えました。
そのことに気づいている人はたくさんいるでしょう。
しかし多くは面倒なので、気づいていないことにしている。
気づいていないということにする――このことが、日本の衰えをよけい加速しています。

これは、経済力だけではありません。
政治力、知的判断力、技術力、生産力、外国との交渉力、説得力、気力、コミュニケーション力など、すべてにわたって言えることです。
要するに日本人は、やる気がなくなっています。
これを放っておくと、日本は間違いなく滅びます
日本が滅ぶというのは、私たち日本国民の生活や精神が完全に自立性を失うこと。

それはどんな形で表れているでしょうか。
国際的な面では、アメリカや中国などの大国の動向に常に翻弄されています。
彼らの顔色をうかがわなくては、国がもたなくなっている。
国内的な面では、政治が求心力を欠き、為政者だけでなく、みんながバラバラに行動して、国としてのまとまりが取れなくなっています。
しかもそれを自由の実現と勘違いしています。
そしてこれらのことをきちんと問題にするために必要とされる総合的な視野を失って、思考停止に陥っています。

たとえば、次のようなバカなことを言う人がいます。
2040年ごろには「高齢者世代の生活保護率は4倍増で1割を超える」から、これに対処するために「消費税率を13%にする必要がある」というのです。

この記事を書いた人は誰でも知っている有名な経済学者で、東大教授を務めたこともあります。
この記事の他の部分も二重、三重の意味で間違っているひどい記事なのですが、そこまで突っ込む必要もありません。
小学生でも気づく間違いがあります。
消費税率をあげて一番苦しむのは、低所得の高齢者世代ですから、そんなことをすれば生活保護に頼らなくてはならない高齢者がますます増えることになります。
これはほとんど落語です。
こういうバカなことを一流(?)と見なされている経済学者が平気で言うのです。
しかも誰も反論しません。
日本は知性を失った、そういう国になり下がったのです。

いったいどうしてこんなことになってしまったのでしょうか。
とりあえず、いちばん大きな社会的枠組みで考えてみましょう。

二つ考えられます。

一つは、75年前の敗戦によってアメリカに魂を抜かれてしまい、その状態がいまだに続いていること。
もう一つは、いったん近代の豊かさを知ってしまったために、だれもが、もうこれでいい」「このまま安眠を妨げないでほしいとどこかで思っていること。

でも本当は、アメリカの洗脳や日本近代が達成した豊かさは、実際には、いずれも過去に起きたことの記憶のなかにしかありません。
ところがその記憶がいつまでも惰性として残っているのです。
アメリカには相変わらず奴隷のように依存しています。
政治的にも経済的にも、属国の位置に甘んじています。

また前回のブログで示した通り、日本はもう豊かではなく貧困国に転落しつつあります。
それなのに、一度経験した豊かさが邪魔をして、そうした現実を現実として見る目を曇らせているのですね。
感覚の麻痺です。

どうすればよいのか。
みんなが学問に目覚めることです。

え? いまさら? とあなたは耳を疑ったかもしれません。
学問なら十分に確立し、発達している、とあなたは思うでしょうか。
たしかに全国には大学が800もあり、さまざまな研究機関は腐るほどあります。
ノーベル賞受賞者は毎年のように出ています。

でも私の言う「学問」は、アカデミズムが提供する難しい専門的な知識や、大学など教育機関で行われている研究のことではありません。
ここで言う「学問」とは、特に、現実に立ち向かう一つの「態度」であり、思考力を作動させる「構え」のことを指しています。
いっときの情報に惑わされず、あることが何を意味しているのかについて、徹底的に脳細胞を駆使して考えることです。
そしてある結論に到達したら、それを公表し、他の人たちの考えと突き合わせて、理性的な議論を積み重ねることです。
これは広い意味で、「思想」と言い換えても同じでしょう。

福沢諭吉が『学問のすゝめ』を書いたころには、まだ思想という言葉はありませんでした。
それで学問という言葉を使ったのでしょう。
でも筆者は、彼が学問という言葉に込めた思いは、いまなら「思想」と呼ぶべき概念にぴったり合っていると確信しています。

もちろん、この態度や構えが実際に生きるために、一定の知識や情報はぜひ必要です。
しかしそれらは思考力をはたらかせるためのツールに過ぎません。
私たち自身がこれらのツールを活用しなかったら、それらは死物に過ぎません。
これは言ってみれば当たり前のことです。
ところが私たち日本人は、いつしか、この「当たり前」を放棄してしまいました。
毎日洪水のように押し寄せる知識・情報を無気力に受け入れ、それを疑うことをやめてしまいました。
あるいは、SNSなどの手軽さをよいことに、感情的、衝動的な反応を返すのみです。
誰もが自分の考えを持っているつもりになっていますが、ほとんどの場合、それはどこかで得た情報を受け売りしているだけです。
情報選択能力とそれについての判断能力を失ってしまったのです。
それらに疑いを持って自分なりの考えを固め、その考えについて人と真剣に議論する習慣を私たちは棄てたのです。
この習慣を取り戻さない限り、日本に未来はないでしょう。

今から約140年前に、福沢諭吉は『学問のすゝめ』を書きました。
西洋文明の圧倒的な襲来を前にして、彼は、それを排斥するのでもなく、盲信するのでもないという態度を貫きました。
その文明や制度の優れた点をいち早く自家(じか)薬(やく)籠中(ろうちゅう)のものとすることによって、西洋の政治・外交の圧力に対抗するという戦略を彼は徹底させたのです。
敵に立ち向かうには何よりもまず敵をよく知ること、孫氏の兵法にもある、よく言われる言い習わしですね。
そうしなければ、日本を独立国家として立国することができず、早晩、西洋の植民地主義に飲み込まれてしまったでしょう。
他のアジア諸国がそうであったように。

福沢諭吉と聞くと、誰もが思い浮かべるのが、「天は人の上に人を造らす、人の下に人を造らず」というセリフですね。
近代的な平等精神を日本で初めてはっきり宣言したものとして知られています。
彼の故郷・中津にある福沢記念館にも、この言葉が大きく掲げられています。
でも福沢はそんなことを言っていません

え? 何だって。『学問のすゝめ』の冒頭にそう書いてあるじゃないか、とあなたは思ったかもしれません。
しかしよく読み直してみてください。
正しくは、「天は人の上に人を造らす、人の下に人を造らずと言えり」なのです。
この「言えり」をほとんどの人が見逃しています。
「言えり」とは「世間ではそう言われている」という意味です。
世間ではそう言われているが、世の実態はそうなっていない。
それはなぜか。
それは日本の牢固たる身分制度、門閥制度が幅を利かせて、一人一人の自主独立の精神を阻んでいるからだ。
この自主独立の精神を養うことこそが、いま求められている。
つまりまず知識・情報を蓄積し、次にその知識・情報を活用して現実に起きていることを正しく認識すること、そうして得た広い視野を、社会をよりよくするために役立てること、それが彼の言う「学問」だったのです。

もちろん彼は、それが当時のすべての民衆に可能だとは考えていませんでした。
彼はこの書や他の書の随所で、一般民衆を「愚民」と呼んでいます。
無原則な平等主義者ではなかったのです。
しかしまた、彼は愚民が愚民のままでよいとも考えていませんでした。
なるべく日本の一般民衆が自主独立の精神を学んで、愚民でなくなってほしい。
それが彼の願いでした。
一身独立し、一国独立す」という有名な言葉は、その彼の願いを端的に表しています。
福沢の時代に差し迫った課題は、欧米列強の進出に対していかに日本の独立を守るかということでした。
そのためには、「愚民」がこれまで身につけてしまった卑屈さからできるだけ脱し、自立した気概と精神を身につけることが不可欠だ――そう彼は考え、その実現を目指して「学問」の必要を説いたのです。

ではいまの日本の課題は何でしょうか。
筆者は、福沢の時代と同じだと思います。
言い換えると、現代日本は彼の時代から140年経った現代でも、「一身独立し、一国独立す」が果たせていないのです。
いまグローバリズムの大波が日本に押し寄せています。
欧米ではすでにグローバリズムに対する反省が沸き起こっているのに、日本のいまの政権は、愚かにもこの大波を積極的に受け入れています。
これは政権ばかりではありません。
学者や政治家や財界の大物やジャーナリズムが率先してそのお先棒担ぎをやっているのです。
その態度は、グローバリズムへの批判意識を持たずにただ追随しているという意味で、まさに「卑屈」そのものという他はありません。

こうして現代の「愚民」は、一般民衆であるよりは、むしろエリートたちだと言えるでしょう。
しかも始末に悪いことに、彼らは世俗の権威を手にしているので、その権威を傘に着て、自分たちの誤った信念を一般民衆に押し付けています。
日本のエリートたちの多くは、国策にかかわる部分で、この誤った信念に固執しています。
それで、国民はその被害をさんざんにこうむってきました。
ですから、いまの日本にとって最重要な課題は、むしろこうした「エリート愚民」の精神の腐敗をいかに駆除するかという点にあります。
この課題を果たせずに、グローバリズムの浸食から国民生活を守ることはできません。
じつを言えば、これはもう手遅れなほどに、深く浸食されてしまっているのです。
時間はもうあまり許されていません。
まずなすべきこと――自ら考える力を取り戻し、日本にはびこる害虫「エリート愚民」を見つけ出して、即刻駆除せよ!


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