今からちょうど一年前、大岡信編訳『小倉百人一首』をテキストにして、「私が選んだ十首」を発表して語り合う会というのを催しました。その模様と、筆者の選歌および感想は、以下のURLでご覧いただけます。
https://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/888a79da294ef49422b0607b733ce51d
https://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/eb13abafd9fe29dd02ad0aebcddef440
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今年は、『万葉集』に挑戦しました。メンバーに小さな変動はありましたが、だいたい同じです。
さて一口に『万葉集』に挑戦といっても、4500首を擁するあの巨大な言の葉の森に、古典の素人である私たちがどうやって入り口とルートを見つけたらよいのか、けっこう悩みました。
やはり適切な道案内人が必要だろうということで、事前相談の結果、昔から定評のある山本健吉・池田弥三郎著『萬葉百歌』(中公新書・1963年)と、少し時代を下って中西進著『万葉の秀歌』(講談社・1984年、文庫版ちくま学芸文庫・2012年)の二冊をテキストとし、三人で分担してレポートすることにしました。ちなみに、前者は表題歌109首、後者は252首、両者の重なりは34首。文中に紹介されている歌も多数あるので、500首以上は鑑賞したことになると思います。
さらに新しく加わった一人に、保田與重郎著『萬葉集の精神 その成立と大伴家持』(筑摩書房・1942年、文庫版新学社・2002年)から目ぼしいところを抜き出して解説してもらうという形を取りました。
全員が少々忙しく、やや準備不足の気味はありましたが、それでもレポートは順当に進み、最後に、それぞれのメンバーが「私が選んだ十の歌」を発表し、その思いを述べるという形で終了しました。
副産物として、山本健吉著『古典と現代文学』(新潮文庫・1955年、講談社文芸文庫・1993年)が取り上げられ、古典世界においては、共同体の過去からの共有物としての言葉をそれぞれの時代の意識がそれぞれの仕方で受け継ぐことによって、初めてすぐれた作品が成立するという認識が共有されました。本歌取りとかパロディ、変奏といったものは、言語芸術が成り立つうえでの必然だということです。
これは時代をさかのぼればさかのぼるほど顕著に言えることで、柿本人麻呂という一個人名がその背後に膨大な口承文芸、宗教的儀礼の言葉、神話や伝説などによってあらわされた共同体の精神を背負っているのは、ちょうどホメロスという個人名が一人の天才詩人に名付けられた名前ではないのと同じです。
まあ、言ってみれば当たり前の認識ではありますが、孤立した個人の才能とか個性といったものを芸術成立の必須条件として偏重しがちな近代以降の傾向に対する有力な反措定として、再確認しておく必要はあるだろうということです。すぐれた才能そのものが共同体の精神の一つの体現だと考えればよいわけです。
また、どんな芸術もそれが生まれた時代や社会とまったく無縁ではありえないので、今回、万葉の世界に踏み込むにあたっても、初期、中期、後期の政治社会史がどのような様相を帯びていたのかについて、それぞれのメンバーが考えることを余儀なくされました。
有間皇子や大津皇子の悲劇的な最期、多くの女帝たちの擁立の影に垣間見える皇位継承の困難、天智―天武時代の激しい権力争いとその狭間で舞う女たち、男たち、藤原氏の台頭と相まって凋落してゆく大伴氏の運命、聖武天皇治下の度重なる遷都の背後に見え隠れする政治の乱れ、防人歌からうかがえる民衆への圧制等々。
さらに、山本・池田テキストと中西テキストに共通に取り上げられている歌における、両者の解釈の違いを比較することで、いろいろな議論が沸き起こりました。
一例を挙げると、額田王の「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」(巻一・八)をめぐって、山本は、軍旅の先駆けではあるがそこに祭事に伴う楽しさをも見る(したがって華やかな女性も伴う夜の船乗りで、言葉通りに、満潮と月の出とを同時刻とする)のに対して、中西氏は、当時、危険を伴う夜の船出は考えにくいとして、これは昼の船出であり、月が船出にふさわしい状態になるのを何日か待っていたと解釈します。
池田・山本解釈では、この「船乗り」そのものに軍旅に先立つ禊ぎという宗教的な意味を見るわけですが、中西解釈では、戦闘集団の実際の「船出」ということになります。ちなみにこの解釈の食い違いは両テキスト以前からあったようです。
筋としてはどちらも通っていないことはありませんね。しかし歌いっぷりの宣命めいた鮮やかさからして、また大いくさの前に盛大な儀式を必要としただろう当時の習俗からして、山本解釈が当たっているように思います。それに、そう考えた方が、この歌の醸す、いかにも古代的な昂揚した雰囲気に素直に同化できるのではないでしょうか。
「月待てば……潮もかなひぬ」という自然時間の連続性の表現に、夜を集団で共有する華やぎと躍動感が感じられ、そこに歌の命を見たい気がします。
保田與重郎については、大東亜戦争突入期という時代背景もあって、万葉集、とりわけ山上憶良と大伴家持の二人に体現された言霊の精神に熱い思いを寄せる保田の気迫が伝わってきました。
「由来藝能の文化は滅びようとするもの、ないしは滅びる怖れにあるものを、その終局の美しさに於て、ことばの神の力によつて後に傳へようとするものである。それは創造の根據であつたし、永遠に不滅を信ずる者の祈念の表現であり、又傳統を傳承する實践であつた。」
こう説いて保田は、すでに万葉の昔日において、わが国のことばの美しさを守らねばならぬ時代に来ていたことを強調します。これは、うっかり読むと、やがて来る国家としての滅びを美学的に予言しているかのように見えますが、彼の執着はあくまでも「ことば」の伝統を内側から守ろうとするところにあり、政治的なメッセージなどを読み込もうとするのは、筋違いというものでしょう。
そうしてこの執着は、いささか大時代がかった表現を割り引くなら、いつ、どこにおいても文学的情熱の根源を明かすものとして、意外にも普遍的なところに届いていると言えます。
次回は、各メンバーが選んだ歌をご紹介します。
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