小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

今こそ英語教育の大転換を

2018年06月11日 16時10分52秒 | 社会評論


日本人の英語能力が他のアジア諸国に比べて極めて劣っている事実は、しばしば問題になります。
しかしそのこと自体を恥じる必要はありません。
アジア諸国はずっと欧米諸国の植民地でしたから、公の場面で現地語を使うことが許されず、欧米語(特に英語)の使用を強制されたのです。

また、そもそも日本語は、その文法構造が欧米語とまったく異なっています。
ドイツ人やフランス人が英語を習得するのとは、その難易度の差に雲泥の相違があります。
日本はむしろ、その地政学的な好条件も手伝って、長きにわたる文化的・経済的独立性の維持を可能としてきました。
その結果、欧米列強による言葉の侵略から免れ、自国語による近代化に成功したのです。

東南アジアの人たちの中には、この事実を羨ましがり、日本にあこがれを抱く人がたくさんいます。
先ごろ92歳で首相再選を果たしたマレーシアのマハティール氏は、今から37年前に首相に就任した時、日本の高度な近代産業の達成の秘密がその勤勉精神とチームワークの緊密さにあることを見抜き、「Look East」の掛け声の下、日本に学ぶことを提唱したのです。

さて、日本の最近の体たらくを見ていると、そう己惚れてばかりもいられなくなりました。
日本人の英語能力の低さには、それなりの理由があり、それがかえって自国の発展のためには利点としてはたらいたとしても、やはり近年の国際関係の変化に向き合うとき、もっと英語能力の向上が図られるべきだということは否定できないように思われます。
しかし、どのような意味で、またどのような仕方でそれが図られるべきかについては、大いに議論がわかれます。

先ごろ、必要があって言語社会学者・鈴木孝夫氏の『日本人はなぜ英語ができないか』(岩波新書・1999年)を読みました。
20年近く前の本ですが、ここに書かれていることは、今でも深い共感を呼び起こします。
この本の最も重要な主張を要約すると次の通り。

日本は明治期までの弱小国から戦後の高度成長期を経てGDP世界第二位(当時)の超大国になったのだから、英語教育の方法を根本から改めなくてはならない。
幕末から明治にかけて、日本では西洋文明の圧倒的な力の前に、これを吸収・咀嚼することに懸命な努力を注いできた。
そうした状況下では、西洋各国の技術や文化や生活スタイルを自分の身に合わせるという受け身的な方法によって果たされるほかはなかった。
英語教育もその例外ではない。
それはそれで近代化に貢献したのだから当然である。

しかし欧米列強に対して弱小国であった時代に身につけたこの習慣は、大国になってもずっと残り続けた。
今でも中学・高校・大学の英語教育の中身は、単なる国際通用語としての英語を学習させるのではなく、同時にイギリスやアメリカの文化様式を習得させようとしている。
それは教科書の内容によく表れている。
そこには、大国としての矜持は見られず、相変わらず西洋に対する憧れとコンプレックスが拭いがたくまとわりついている。

大国にふさわしい英語教育とは、自国の文化を国際発信できるように、日本の生活や文化や歴史を主題として取り上げて、それを英語で発信できるようにすることである。
これなら、身近な話題、よく知っている話題を英語に直すという自然な形が取れるので、学習者にとっても関心を呼びやすいだろう。
また、日本を知りたいと思う外国人に、それを英語で知らせることができ、「黙っているので何を考えているのかわからない」というよく聞かれる日本人に対する悪評も払拭できる。

そのためには、日本語を各国語に翻訳する作業の体制(たとえば和英辞典の充実)を確立させることがまず必要である。
後進国(文化植民地)として英独仏のトロイカ方式に特化した外国語教育を施す時代はもう終わったのである。


だいたい以上のようなことが書かれているのですが、この主張にはもう一つ副産物があります。
長年にわたる西洋かぶれの結果、日本人は自国の文化や歴史について深く知ろうとしなくなってしまいました。
これまで日本人はその事実を知っていながら、見て見ないふりを決め込んできました。
日本人の生活スタイルや文化や歴史を英語で表現するような教育を浸透させるなら、こうした困った事態を克服するためのきっかけになります
英語で自国のことを表現しなければならないという風に日本の英語教育が変われば、学ぶ意欲のある学生たちなら、日本についての自分たちの無知を乗り越えようとして、自国のことについても必死に勉強するようになるでしょう。
英語に超堪能な鈴木氏ですら、若い頃、トルコの教授に幕末維新のことを聞かれて、よく知っているはずの参勤交代、外様、関所、駕籠などという言葉がうまく説明できずに困ったことがあるそうです。

外国人に自国のことを説明できないのは、実際にそういう場面に直面した立場の人にとっては、やはり恥ずかしいことです。
それだけではなく、世界には、自国の国益や考え方を強引に押し付けて来る国もあれば、一方では、「奇跡の近代化」を成し遂げた日本に学びたいとする国もたくさんあります。
これらに適切に対処するには、まず何よりも、日本人が自国の文化伝統に自信を持ち、認識を深め、その上でそれをきちんと説明する必要があります。
国際舞台で大国にふさわしい主張と責任を果たすためにも、日本人は、「われわれは自国の文化伝統にもとづいて、このようにする、このように考える」と、はっきり表明できなくてはなりません。
そうでないと、強引に膨張を続ける国や反日を叫び続ける国に押しまくられて、政治的にもビジネス的にも負けてしまうでしょう。

この場合の外国人とは、欧米人だけを指すのではありません。
かつてイギリスやアメリカの植民地だったアジア、アフリカ諸国、カナダ、オーストラリアなどは、否応なく英語を公用語としてきました。
こうした国々とのコミュニケーションは、近年ますます重要視されてきています。
その場合、ネイティブスピーカーの英語や異文化理解のための英語ではなく、国際通用語としての英語を用いざるを得ません。
鈴木氏の強調するのも、そうした発信型の英語です。

しかし文科省を初めとした英語教育の基本方針は旧態依然たるもので、鈴木氏の提言が活かされたようには見えません。
現在の義務教育、準義務教育、大学の教養課程における英語教育は、その内容がただネイティブの猿真似をやっているだけで、鈴木氏の説くような、日本人の生活に即した語彙、主題、よく知っている事実(たとえば日本で起きた事件、日本人が成し遂げた偉業)などを取り上げるようなものではありません。
相変わらず、国際理解と称して、とにかく異文化理解を深めようという精神でやっているのです。
これではいつまでたっても、英語に対する関心が刺激されず、結果として日本人の英語能力は上達しないでしょう。

ただし、鈴木氏の提言は、上記のように、実際に英語を使わなければならない立場にある人たち向けのものです。
ここを読み違えてはなりません。
英語と関係のない仕事に就いている人や国内の人間関係に取り巻かれている人にとって、高度な英語の習得は、いままでどおり、別に必要のないものです。

文科省は、「グローバル時代に乗り遅れないように」などと称して、英語教育の低年齢化を実施しつつあります。
しかしこれは、次の点で、まったく見当はずれです。

①ほとんどの日本人は英語を使う職業などに就かないのだから、早期義務教育ですべての子どもに英語教育を強いることには意味がない。
②早い時期から英語教育を義務化すると、語学の苦手な子は、日常生活に関係がないので、かえって英語嫌いになり、得意な子との間に格差や差別関係を生むもとになる。
③現在の公教育における英語教育は、「使える英語」という名目の下に、文法学習をおろそかにして会話中心にシフトしている。しかし日本で生活していて、大勢の生徒を対象とした週数時間程度の授業で会話力が身につくはずがない。基礎学力の習得も阻害されるので、あぶはち取らずである。

鈴木氏が『日本人はなぜ英語ができないか』を書いたのは、まだ日本の経済力が世界に大きな存在感を示している時期でした。
それから20年近く経って、政治、ことに経済政策の拙劣さのために、いまや日本はいろいろな意味で先進国から発展途上国の地位に転落しつつあります。
大方の日本人はこのことに気づかず、見かけの図体のデカさに惑わされて太平楽を決め込んでいるようです。
しかしもう十年もすれば、そのことが誰の目にも歴然とするでしょう。
そうなってからではもう遅い。
日本の生活文化、伝統、歴史の紹介を、国際通用語によって本気で行わなければ、日本は没落を早めるだけです。
危険水域にある今だからこそ、鈴木氏の提言が活かされるべきなのです。