小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

道徳過剰社会の弊害

2018年04月26日 14時07分33秒 | エッセイ


大学のゼミで、筆者自身が2006年に書いた短いエッセイ(『子ども問題』ポット出版所収)を配布して、その感想文を書いてもらいました。
書き手が筆者であることは最後まで伏せておきました。
以下にその全文を転載します。

 私は自宅近くのバス停に近づいた。バス停の後ろにベンチがあり、四年生くらいの可愛い小学生の男の子がひとり座っている。私が彼のとなりに腰掛けると、彼はちらと私のほうを気にする素振りを見せた。
 ほどなくバスがやってきた。彼と私とはほとんど同時に立ち上がり、バスの扉が開くのを待った。すると、男の子がふいに、はにかみを含んだ小さな声で「どうぞ、お先に」と言った。
 もちろん先に来ていたのは男の子である。順に乗り込むのが当然だから、私は一瞬、彼がなぜ譲るのかその真意がつかめず、思わず「え? どうして?」と優しく尋ねてみた。男の子は何も答えずかすかにもじもじしただけだった。
 扉はすでに開いている。私はそれ以上詮索するのもどうかと思い、黙って先に乗り込んだ。私は奥の方に座り、男の子は最前席に座った。
 私はそれから、バスを待つほんの短い間に男の子の心に何がよぎったのか考えてみた。そうして、あ、そうかと思い当たった。彼からすれば、私は相当の老人に見えたに違いない。
 私はまだ59歳だし、歳よりはいくらか若く見える方だと自認している。その日は体調も悪くなく、身なりもそれなりにぴしっとしていた。
 でもそういうことは男の子にとって関係ない。白髪で皮膚がそれなりにたるんでいれば、彼くらいの歳の子から見れば、みな「お年寄り」である。彼はおそらく、「お年寄りには席を譲りましょう」という日頃口やかましく叫ばれている「公衆道徳」の声を、自分なりに拡張して適用したのだと思われる。
 バスはもしかしたら混んでいるかもしれない、この「老人」を先に乗せてあげて、空席があるなら座らせてあげよう……ざっとこんな考えに男の子の小さな胸は支配されていたのだろう。
 以前にも一度、優先席に座っていた女子中学生に席を譲られて断ったことがあったが、少年少女の目には自分がもはや「老人」としか映らない事実に苦笑を誘われたものだった。
 しかしここではその種の私的感慨を述べたいのではない。
 私はひねくれ者なので、立派に振る舞おうとする子どもたちを「偉いねえ」と素直に受け入れる気になれないのである。といって彼ら自身を非難する気持ちは毛頭ない。むしろそのけなげさが、何だか不必要に繊細過敏で、痛々しく感じられるのだ。
 こうした「公衆道徳」という名のイデオロギーがいたいけな年少者の生活意識にまで浸透している社会というのは、はたして健全なのだろうか。いや、活気ある社会と言えるのだろうか。
 いまメディアを通じて、さまざまなかたちでモラル・ハザードのイメージが私たちの社会意識に植えつけられている。その危機意識を受けて、たとえば保守派の「教育改革」の声は、「国を愛する心」「心を重視する道徳教育」「家族の再興」などのスローガンで埋め尽くされている。
 でもこうした流れは、どうも的を外している気がして仕方がない。基本的な状況認識のレベルからその妥当性を検討する必要があろうし、「意識改革しなければならない」式の論理の強調が、いまの複雑化した社会に対する提言として有効とは思えず、時としてヒステリックにしか響かないからである。


感想文の中には、このエッセイの論旨をきちんととらえた上で、それについて的確な感想を述べたものもありましたが、それはごくわずかでした。
大半は、こうした公衆道徳がいきわたることはたいへん良いことだとか、自分は以前、老人に席を譲ろうとしたら怒られたことがあったので、席を譲ることにためらいを覚えるとか、子どもには老人の年齢を見分けるのは難しいだろうとか、この子はまだ幼いのにとても偉いといったものでした。
そもそもこの文章は、「車内で席を譲る」問題について書いたものではありません。
また、後半を読めばわかるように、過剰な道徳的配慮がいきわたるような社会は、活力を失っているのではないかという問いかけをしたものです。
それが読み取れないのは、学生のレベルの問題もあるでしょうが、ここで言いたいのはそのことではありません。

学生たちもあるイデオロギーに馴致されきっているのです。

活気のある社会なら、男の子は元気よく真っ先にバスに乗り込んでいくでしょう。
数十年前だったら必ずそうしたはずです。
しかもここに書かれているのは席を譲る話ではなく、バスを待つ順番についてなのですから、男の子が先に乗る方がルールにかなっているわけです。

もう亡くなった医事評論家の永井明氏が『ぼくが医者をやめた理由』(角川文庫)という本のなかで、次のようなことを書いています。
休暇でウィーンに行った折、電車のなかでついウトウトして、ふと目を覚ましたら、周りの乗客たちが一斉に自分のことを怖い目でにらみつけている。
見れば目の前には老婆が立っている。
慌てて立って、次の駅で降り、心のなかで捨て台詞を吐いた――ウィーンはオペラもワインも素敵だったが、道徳心に金縛りになって元気者の足を引っ張るようなこんな街には二度と来てやるもんか、と。
筆者もこの永井氏が抱いた感慨に賛成です。
これは何十年も前の話ですが、ウィーンのように伝統だけをよりどころに成り立っているヨーロッパの街のいくつかは、すでに「老化」してしまっていたのですね。

公衆道徳を守ることはもちろん大切ですが、そういうことにばかり頭や心を費やすような国や都市は活気を喪失していて、他にやることがなくなっている証拠です。

さて、いまの日本もこうなりつつあるのではないでしょうか。

日本はいま、犯罪も交通事故も減り、若者は妙にお行儀がよくておとなしくなっています。
それはたいへんいいことですが、いいことは二つありません。
社会全体としての「老化」ということはやはりあるもので、おそらくそのためでしょう、マスコミも議会も政治家や官僚の道徳問題だけを議題にして大騒ぎし、国内経済の衰退や国際環境の変化に対する危機意識も持たず、隣国には侮られるばかりです。

ここでは、日本を衰亡に追い込んでいる政治的理由については書きません。

今年から小中学校で「道徳」が正式の教科となり、教科書までできました。
しかし、治安も公衆道徳もよく、礼儀正しい若者が多くなっているいま、なぜこんなことをする必要があるのでしょうか。
また、学齢に達した子どもたちは、果たして生活の基本事項について、やってよいことといけないこととの区別を知らないでしょうか。
こういうことは、幼児期の家庭でのしつけで、大多数は身につけているはずです。
もちろん中には逸脱行為に走る子もいますが、それは性格的な問題か、群衆心理によるもの、家庭環境が劣悪であるなどの理由があります。
彼らのほとんどは知っていながら、悪さや非行に走るのです。

学校に入ってから道徳心を養おうとしても、それは有効ではありません
問題生徒がいたら、個別に解決に当たるしかないのです。
これまでも「道徳」の時間はありましたが、学生たちに聞いてみると、何をやっていたのかさっぱり記憶にない、との声が大半でした。
予言しますが、正式な教科になっても、事態はけっして変わらないでしょう。

私たちは、道徳に過剰に配慮する社会が、じつはその裏面で活力を喪失しているのだということに気づくべきです。
その上で、活力を取り戻すためにはどうすればいいのかを考えることにしましょう。