小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

歴史用語削減に断固反対する

2017年12月01日 21時48分52秒 | 思想



 高校の日本史、世界史で学ぶ用語を現在の半分弱の1600語程度に減らすべきだとする提言案を高大連携歴史教育研究会(高大研)がまとめました。人物では上記の通り、坂本龍馬や上杉謙信、武田信玄、ドストエフスキーらが外されるだけでなく、ガリレオ・ガリレイやマリー・アントワネットなども削減対象とされています。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO23658500Y7A111C1CC1000/

 高大研の言い分によると、「用語が多すぎて、授業でとても教えきれない。暗記を嫌う生徒にも歴史科目が敬遠される」そうです。
 一方、歴史の流れの理解に必要として「共同体」「官僚制」など社会制度上の概念を示す用語や、「気候変動」「グローバル化」など現代社会の課題につながる用語(概念語)を追加するとか。
 これには、文科省の息もかかっています。中教審が2016年12月の答申で、歴史や生物の教科書について「重要用語を中心に整理し、考察・構想させる教材にすべきだ」と指摘したのです。同省は今回の用語案を「思考力や表現力を重視する国の方向性と同じ」と評価しています。

 さてみなさんはこれについてどう思いますか。
 まず「高大研」という組織がどれほど影響力を持つのか、また政治的性格を持つのか今のところ詳らかにしません。しかしサイトを調べてみると、会のテーマや報告課題の中に、「21世紀アジアとの共生」とか、「ジェンダー視点のある歴史教育とは何か」などのタイトルが並んでいますから、この組織がサヨク性を持つのはほぼ間違いないだろうと思います。
http://www.kodairen.u-ryukyu.ac.jp/
そして目下、今回の提言案に関して広くアンケートを実行し、歴史教育での用語減らしに大きなエネルギーを注いでいるというわけです。
 この種の組織が活動を続けるのは自由ですが、二つ問題点があります。
 一つは、この組織が文科省と浅からぬつながりを持っていて、同省の方針と合致している点です。
 この組織が力を持てば持つほど、高校の歴史教育に影響力を及ぼすことになり、現実に教科書の用語削減、入試問題作成や授業での制約、これまで共有されてきた歴史の常識の空洞化につながります。
 さらに言えば、こんな提言が実際に通用すると、ただでさえ歴史戦で中韓に負けている日本はますます劣勢になります。つまりは、意識的と無意識的とにかかわらず、この「愚民化路線」はやはり反日勢力を喜ばせることになるのです。

 第二に、そもそも用語減らしという方針が「思考力や表現力の重視」につながるとする考え方そのものが、高大研のみならず、文科省も含めて、根本的に倒錯しています。豊富な語彙を身につけてこそ、思考力や表現力は始動するのです。
 教える語彙を減らしてどうやって思考したり表現したりできるのか。暗記を減らしてその隙間に思考力や表現力を注入するつもりらしいですが、それはたとえて言えば、不足した食材で美味しいレシピを考えろというのと同じです。引き算だけやって空いた部分にどんな足し算をするのか、そのアイデアが何もないのです。

 また「概念語」は抽象度がそれだけ高いのですが、その抽象性に生き生きとした具体的なイメージを与えるのは、個々の語彙とその連関です。豊富な語彙がなければ、概念語の正確な理解が進むはずがないのです。高大研の言う「歴史の流れの理解」のためには、まず、いつどこで、誰々が、何々をしたという具体的な事件、事象、物語が必要です。そのための「用語」なのです。
 たとえば、高大研は、新たに付加する「概念語」の例として、「共同体」を挙げていますが、上記の表に見られるように、「アンシャンレジーム」や「ロベスピエール」を外してしまうと、ヨーロッパ前近代において、絶対王政がその最後の砦であった古き「共同体」的な秩序がどのように崩壊していったのかを、現実に即してうまく説明できなくなります。具体的な用語の出てこない「概念語」だけの歴史など、面白くもなんともないはずです。
 高大研とやらは、歴史の専門家を集めているはずなのに、こんな基本的なことがわかっていないのです。

 暗記がたいへん、などというのは理由になりません。なぜなら、四割が大学進学する現在、一流大学を目指す進学校と三流大学に入れればよしとする「凡庸校」では、通ってくる生徒の暗記力に雲泥の差があり、大学側もそういう事実を承知の上でそれぞれのレベルに合った入試問題しか作らないからです。
 暗記事項のスタンダードなど作っても意味がありません。優秀な生徒はもともと大量の暗記に堪える学力を持っていますし、そうでない生徒はスタンダードのあるなしにかかわらず、初めから暗記の意欲に欠けているからです。
 また、優秀な生徒は、暗記力旺盛なこの時期に、たくさんの用語(と用語の間の関連)を頭に入れることによって、個々の歴史事象の流れをつかみ、やがて歴史を学ぶことの本当の意義を体得するでしょう。思考力が未熟な生徒や、やる気のない生徒は、具体的な語彙を減らした上に概念語を増やしたりすれば、ますます歴史への関心を失い、成績も伸びないでしょう。
 教育現場では、生徒のレベルと授業時間の限界に合わせて、先生方が取捨選択すればよいのです。大事なポイントは、用語の多寡ではなく、歴史がもともと持っている「物語性」を、いかに巧みに生徒に印象づけるかという、教育法にこそあります

 以前、このブログでも取り上げましたが、こうした用語削減の試みは、文科省が以前からやってきました。
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/8e17f3f4f59bd46be5b8e02a72b39434
聖徳太子」や「士農工商」や「鎖国」を歴史用語から抹殺しようとしてきたのです。ちなみに「士農工商」はすでに高校までの歴史教育では抹殺されています。「聖徳太子」や「鎖国」抹殺案は、幸いにして、アンケートで猛反対に会い、とりあえず引っ込めたようです。しかしまたぞろ高大研のような勢力が、「用語が多すぎる」といった屁理屈をつけて、愚民化に拍車をかけようとしています。危険と言わなくてはなりません。
 文科省はゆとり教育の失敗にまだ懲りないようです。愚かなインテリどもはロクなことをしません。